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ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ともに2012年度(2012~2013年)に放送されたテレビアニメである『ラブライブ!』と『ガールズ&パンツァー(略してガルパンは、いまだに高い人気を誇り、続編エピソードや劇場版も好評、各種イベントは盛況を呈し、舞台となった実在の場所を「聖地巡礼」として探訪する人も数多い状況が続くなどしています
(前者にあっては、メディアミックス展開の一環としての作中でのアイドルユニット「μ's」を演じる声優陣によって現実世界に展開した同名ユニットが2015年末のNHK紅白歌合戦出場を果たし、2016年初頭には同じくNHK教育テレビでのアニメ1期の「再放送」がおこなわれたりもしました)

 『ラブライブ!』μ's 公式サイト

 →『ガールズ&パンツァー』公式サイト


 《参考(お知らせブログのほうの関連記事)

 → 遅れてきたラブライバー、神田明神を参拝する

 →「聖地巡礼の聖地」大洗から東海村に足を伸ばしてみた


この両作品は、主人公たちが生徒として通う学校(両校とも伝統ある女子高校)が廃校の危機に瀕したことに対し、それを回避し、自分たちの大切な日常の生活の場を守ろうと立ち上がった主人公たちが、さまざまな障壁を乗り越えて互いの友情を深めながら努力を続けた結果、学校の存続を勝ち取る……というストーリーのアウトラインが偶然にも共通していたことでも知られています。

その方法というのが、前者では「スクールアイドル」になって人気を獲得して話題になる、後者では「戦車道」の全国大会で優勝する …というような、現実世界と対比すればいささか荒唐無稽なものであるのは、もちろん、こうしたフィクションの物語の楽しさであると言うべきでしょう。
※「スクールアイドル」は学校所属のアイドル活動、いわば部活動としてのアイドルとして作中では描かれています
※「戦車道」とは戦車戦を純粋な競技として完全に戦争とは切り離して成立させたもので、作中では女子が嗜むべき武道であるとされているスポーツだという設定になっています

両作品とも、その人気は伊達ではなく、アニメとしての映像表現のクォリティ等もさることながら、描かれる物語の中での、目標へ向かって自分たちにできる努力をひたむきに続ける少女たちの姿は、観る者の胸を打ってやみません。
それだけ、元気がもらえる爽快なストーリーの良質な作品だと言えるのです。


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※画像は公式のサイトor放送画面からキャプチャ


ただ、この二作品について、そのあたりを適切に評価されないケースもままあるのではないでしょうか。
前者にあっては、女性「アイドル」の表象が、いわゆる異性愛男性からの性的消費を招きやすく、結果として女性差別的なものになるという危惧はありえるものです。現実世界のアイドルには、プライバシーの流出や一部の過熱したファンからの迷惑行為など等のリスクもあるでしょうし、アイドルを志す少女たちを詐欺まがいの誘い文句でアダルト作品に出演させるような事例も報告される中では、善良なプロダクションの見極めが難しいというのもあるやもしれません。そうした現状において、昨今のアイドルブームと言われる風潮を警戒することもまた、あながち杞憂とは言えない現実は理解されるべきです。
後者にあっては、やはり戦車に対して違和感を訴える声は少なくないのかもしれません。もちろん、もしもガルパン人気を利用して、例えば一般市民の間での「兵器」にかんする感覚を操作して戦争への抵抗感を下げようなんて動きがあるとしたら姑息な話です。政府がそんなことを企んでいないかどうかの警戒は不断にじゅうぶんになされるべきでしょう。現役で運用されている戦車はあくまでも「兵器」であり、すなわち戦場でのオペレーションに投入される目的をもったものであり、人を殺傷する可能性と不可分であることを忘れてはならないのは言うまでもありません。
しかしながら、両作品とも、そういう問題となるような事象からは遠いところで成立しているのも事実です。現実世界のありようとは適正な距離を置くようにコントロールを加えた世界観で、安心して視聴できるフィクションが架構されている様子は、しっかり丁寧に見極められるべきです(ガルパン作中では、登場する戦車を第2次世界大戦以前のすでに「歴史」となっているものに限っている他、「戦車道は戦争ではない」とも複数回言明されており、戦車戦が専ら女性のスポーツとしてのみおこなわれるようになっているガルパン作中を、それくらい戦車が「実用」から遠ざかった、すでに高度に平和が実現した世界なのだと読み解く発想もリテラシーとして求められましょう)

そこで、本記事では、『ラブライブ!』と『ガールズ&パンツァー』のどのようなところが優れていると言えるのか、それをフェミニズムの観点から整理してみたいと思います。


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1:自立した女性キャラの主体性
まず基本的に主人公を含めて女性キャラが大勢登場し、誰もが自ら主体的に行動する物語です。
舞台が女子校ということもあり、作劇上の異性愛義務は排除され、男性との恋愛物語にも回収されず、そんな環境のもとで、主人公たちが男性に頼る必然も必要も発生しません。
どのキャラも生き生きと「自分」を体現しています。
いわゆる「紅一点問題とは対極にあるのは明白です。


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2:女性ホモソーシャルな親密性
女性キャラが複数(かなりたくさん)登場することで、女性どうしの親密な関係性が多数、かつ重層的に描かれることになっています。これにより、ありていに言えば女どうしの友情が肯定的に描かれることがあたりまえのこととして成立するようになっています。
いわゆるベクデルテストも楽々クリアできていると言えるでしょう。
これは、現実世界の女性どうしが関係性を構築していくうえでのモデルケースが示されているとも言えますし、男をめぐって女どうしがいがみ合う描写 → 「女の人間関係は陰湿」という男性社会に都合がよいプロパガンダ …という因習的な描写がドラスティックに転換されているということでもあります。非常に意義は大きいでしょう。


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3:女性によるリーダーシップのロールモデル
複数の女性キャラが登場し、ひとつの目標へ向けて活動する中では、女性によるリーダーシップも発揮されることになります。
『ラブライブ!』でも、各局面でそれぞれのキャラが場を主導しますし、主人公はスクールアイドルのユニットである部活動全体を強力に引っ張っていきます。そんな彼女たちの姿からは(逡巡や蹉跌などをめぐる葛藤からの成長のエピソードも描かれますが)「女性リーダーは頼りない」というようなジェンダー的なしがらみはいっさい感じられません。
『ガールズ&パンツァー』では主人公が自チームである戦車隊の指揮を担うことになるわけですが、これは現実世界であればかなり公的で系統だった組織を引き写した集団でのこととなります。女性が組織的な集団においての長としてリーダーシップを執る姿のモデルケースを示している点は大いに評価されるべきです。「女の子は戦車隊隊長だってできる!」という様子が提示されることは、(「戦車道は戦争ではない」と担保されたフィクション世界を通してのことであるかぎり――現実の戦争における軍事組織の女性兵士をめぐる問題は当然ながら次元が異なるイシューです)男女共同参画社会の趣旨にも適うことでしょう。


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4:ありのままの受容と自己肯定の物語
『ガールズ&パンツァー』は、主人公・西住みほが、戦車道の有名な家元の次女で、家柄の重圧や、流派の方針が自分の優しい性格と合わないこと、対して的確に後継者として頭角を伸ばしていく姉に対する周囲の高評価が自分と引き比べられることによるコンプレックスなどにより、自己肯定感を持てず、性格も鬱屈して、精神的に引きこもってしまった少女として当初は登場します。それが、半ば逃げるように親元を離れた転校先で、ありのままの自分を受け入れてくれる友人たちとの出会いがあり、ほどなく奇しくも戦車道の知識やセンスを期待されたことを経て、自分なりのスタイルを確立し、それをもって姉が率いるチームを大会決勝戦で倒すことで自己肯定に至るというプロセスが、戦車道という架空のスポーツを通して描かれていることが、その最も肝要なストーリーの主軸です。
いわば社会的受容と自己肯定の物語なのですが、サブテーマとしてはみほと姉の互いに思いあう心・姉妹愛も伏流として示されています。その意味で、かのディズニーのヒット作『アナと雪の女王』とも相通ずるものがあると言えましょう。
『ラブライブ!』の高坂穂乃果は、もう少し王道な、元気で前向きな性格の主人公ですが、それゆえの大きな蹉跌をも経験し、それをつうじて自ら内省し、自分を再評価したうえで仲間との関係を深化するエピソードは物語の大きなヤマ場としてあります。また、アイドル活動を始めるにあたって引っ込み思案な性格の少女が勇気を出して一歩踏み出すようなエピソードは、他のメンバーによって担当されたりもしています。したがって、やはり社会的受容と自己肯定は、必然的に物語の重要なテーマとなっています。
これらが、社会の男女二分構造の中で抑圧を感じるすべての人のエンパワーメントのために大いに意義があるのは言うまでもないでしょう。


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5:男性ホモソーシャル公的領域の撹乱
一般に、男性ホモソーシャルな社会構造では、男性のものと設定した内部を公的領域として特権化し、権力機構として機能させています。対して女性(や子ども)の領域は外部へと周縁化し、私的領域としてケア役割などを割り振るわけです。各種の性別役割分業規範が敷設された性差別的な社会構造はこのように維持されていると言え、これはこの世の中のジェンダー問題のかなり核心にあることでもあります。
ここで、学校を「廃校にする」というのも、男性領域である公的な権力領域がくだす決定に該当するものだというのは、理解に難くありません。
ところが『ラブライブ!』や『ガールズ&パンツァー』では、そんな「廃校」という公的領域に位置する権力機構から通達された決定に対し、私的領域に属するものとされる女子高校生という立場の主人公たちが、私的領域の側から、その私的領域での日常の価値を守るために、私的領域的な手段で対抗的に公的領域に働きかけ(女性としての「アイドル」はもとより、ガルパンの「戦車道」も作中ではもっぱら女子の武道(スポーツ))、ついにはその公的領域での決定を覆すというところに、大いなるカタルシスがあるのではないでしょうか。
それだけ、ラブライブとガルパンには、男性ホモソーシャルな性差別的構造とその構造に則った社会規範を撹乱する力がある、そういう重大な意義を持った作品でもあるのです。

  

  


いかがでしょうか。
以上のようなことが、視聴者との相互作用のうちに、明日の世界をよりよく変えていく可能性は大いにあると私は考えます。
「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由」を過小評価すべきではありません。


◎プリキュアだったら何色?
上述のとおりラブライブとガルパンには「廃校阻止」という点では共通項があるのですが、主人公のタイプは大きく異なります。
高坂穂乃果が積極的な元気娘で、いわばプリキュアになるなら主役のピンクのプリキュアなのに対し、引っ込み思案でネガティブ属性も強い西住みほはやや捻った位置づけに来る黄色のプリキュアあたりが妥当するのではないでしょうか(みほ役を演じた声優・渕上舞さんがドキドキプリキュアで担当したキュアロゼッタが実際に黄色だったり)。
このため、ラブライブのアニメ序盤などは、穂乃果にまかせておけばまぁ大丈夫だろう的な安定感があり、視聴者が安心して見ていられる雰囲気になっています。対してガルパンでは、最もリーダーに向いてなさそうな人が学校の命運を背負ってチームのリーダーをせざるをえなくなるという往年の富野由悠季監督アニメのような不安感に苛まれることになるのも(そこからのみほの成長譚が感動を呼ぶのも、それがゆえ)、また一興でしょう。
ラブライブのアニメ1期11話では調子に乗って自滅するのが穂乃果本人なのに対して、ガルパンの8~9話での準決勝戦でチームが絶体絶命のピンチに陥る遠因が調子に乗ったチームメイトをみほが抑えきれなかったためだというあたりにも、こうした主人公のタイプの差異が特徴的に出ていると言えるかもしれません。


◎現実世界にスクールアイドルがいたら?
「戦車道」は言うまでもないかもしれませんが、「スクールアイドル」もまた現実世界には存在しない架空の概念です。
ラブライブのメディアミックス展開の全体像である「 School idol project 」でも、アニメの作中に登場したような学校所属の部活動としてのアイドルユニットの活動を現実世界において興していくような企画は考えられていないようです。
実際にやるとしたら、教育活動の中へ位置づけるための建前をどうするかの他、肖像権やプライバシーの問題など、課題は多いでしょうが、ただ、この《放課後の部活としてのアイドル》、今日の中高生たちの間には「やってみたい」というニーズも相応にあるのではないでしょうか?
そして、そのように考えを進めたときに思い至るのは、1980年代に一世を風靡したアイドルグループ「おニャン子クラブ」の存在です。
おニャン子クラブの直系の嫡流はAKB48等なのでしょうし、AKB48等もまた擬似的に同じ学校の生徒が集まったユニット的なテイストが演出されてはいますが、かといって「放課後の部活っぽさ」という点では、AKB48等の場合、それは薄いという印象です。
対してかつてのおニャン子クラブには「放課後の部活っぽさ」が演出としての強調を差し引いても多分に濃厚で、そしてソレこそが当時の人気の理由だったとも言えるでしょう。
その意味で、ラブライブのアニメ作中に登場するスクールアイドルの概念に近い存在を現実世界に探すと、最も当てはまる事例が往年のおニャン子クラブになる――逆に言えば、おニャン子クラブのエッセンスを受け継いで、この21世紀における的確な進化形となっているのはラブライブのアニメ作中における「μ's」のような「スクールアイドル」だと言えるのかもしれません。
………となると、ラブライブのアニメ作中でμ'sのセンターを務める主人公・高坂穂乃果を演じる声優であり、メディアミックスの3次元展開のμ'sでもセンターに立つのが新田恵海で、往時のおニャン子クラブの会員番号4番としてセンターに入ることも少なくなかったのが新田恵利だという符合は、単なる偶然の一致にとどまらない意味があるのかもしれませんね(←言いたかったのはコレかいというツッコミはなしで(^^;))


◇◇


プリキュアが「魔法つかい」な意味を探る [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて、前記事のとおり2015年度のプリキュアシリーズ作品『Go!プリンセスプリキュア』は最終回を迎えたのですが、その後継作品がいよいよ明日、2016年2月7日からスタートします。
その名も魔法つかいプリキュア!

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※画像は特に断りのないものは各作品放送画面よりキャプチャ


………………。

はい、そうです。
魔法つかい プリキュア!』です。

たしかに、この次期プリキュアが「魔法つかい」という事前情報が出てきた際には、若干の驚きをもって迎え入れられました。

「では今までのプリキュアのような徒手空拳のバトルはなくなってしまうのだろうか!?」

あるいは逆に、

「じゃあ今までの必殺技は魔法じゃなかったのかよ??」

 ……等々。

前者については、1年前「プリンセス」の事前情報が開示された際も同様の懸念はありましたが、蓋を開けてみるとまったくの杞憂に終わりましたので、ほぼ心配は無用だと思われます。
事実、現時点で公開済みの情報を総合しても、今までの「プリキュア」を大きく逸脱するような気配はありません。
おそらくは、プリキュアシリーズの基本線は継承しつつ、前作までの蓄積に加えて、さらなる新機軸を導入するために今般選ばれたモチーフが「魔法つかい」だったというだけのことなのでしょう。
このあたりは、特に憂慮したりせずに明日の第1話を待てばよいのではないでしょうか。


 → 魔法つかいプリキュア!朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/precure/maho/
 → 魔法つかいプリキュア!東映アニメーション公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/mahotsukai_precure/


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一方、後者についてはどうなのでしょうか?
このあたり、少し順を追って再確認してみましょう。


メディアとジェンダーという観点から「男の子アニメ」と「女の子アニメ」の差異を考えるときの基本はやはり、斎藤美奈子『紅一点論』で指摘されているものになります。

思い切り簡単に言うと、
◎主人公らの超常的なパワーの源泉が…
 男の子アニメは「科学
 女の子アニメは「魔法
◎物語の舞台としての基盤が…
 男の子アニメでは「的領域」
 女の子アニメでは「的領域」

 ……ということになるでしょう。

魔法使いサリー』以来、日本の子ども番組のジャンルのなかで女の子向けとされるコンテンツの中核に位置するものとして、いわゆる魔法少女ものが連綿と続いてきたのは間違いないと言えます。
そのためプリキュアシリーズも、セーラームーンともども、便宜上その系譜に一括してまとめられるケースも多々見られます。そのほうが分類上都合がよい局面も少なくないというわけですね。

実際、歴代プリキュアのパワーの源泉が科学的なテクノロジーの産物かと言えばそうだと言い切るのには無理があります。変身の原理も、敵を浄化する必殺技も、ある種の魔法的な技巧によるものだと解釈するのが無難です。

ただ他方、徒手空拳のアクションもこなしながら戦うプリキュアを「魔法少女」にカテゴライズする違和感も、しばしば聞かれるところです。
「ジャンルプリキュア」とも言える類似作品群である変身少女ヒーローもの全体を見渡しても、『戦姫絶唱シンフォギア』は力の核となる古代文明の超科学の遺物こそ魔法的な色合いが濃いですが、その制御や運用には現代科学が用いられている様子も描きこまれており、学校の地下に政府管掌の特務機関の秘密基地があったりするのは、きわめて「男の子アニメ」的でした。『ビビッドレッドオペレーション』になると、変身のシステム全体が「科学者である祖父の発明品」とされ、基本的にすべてが科学に立脚しています。
プリキュアのように変身して戦う少女たちが描かれた『まどか☆マギカ』が、あらためて「魔法少女」を名乗るという倒錯もありました。

また逆に、「男の子アニメ」のほうにも変化の波は激しく、男の子向けアニメ特撮のヒーローが寄って立つのは科学……とは限らなくなっているのが近年です。

象徴的な例として、プリキュアシリーズと同じ日曜朝にやっている戦隊ヒーローシリーズにおいて2005年には『魔法戦隊マジレンジャー』が、同じく仮面ライダーシリーズでは2012年に『仮面ライダーウィザード』がありました。
「ウィザード」とは魔法使いのことですから、両作ともズバリ魔法をヒーローのパワーリソースとして前面に打ち出した形です。

こういう典型例でなくても、もっぱら現代科学の成果物のみを用いて戦う「男の子アニメ」は、昨今かなり珍しいのは否めません。

【参考】
→「久しぶりの公的科学戦隊であるゴーバスターズにはがんばってほしい」
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2012-06-23_gobusters

このように、「科学←→魔法」の軸線は揺らいできているのが現在であり、「公←→私」についても同様な状況です。

以って、男の子向け・女の子向けという枠組み自体が撹乱され崩壊してきていて、そうしたジャンル分けは商業的な要請から再帰的に構成され意味づけられているにすぎないとさえ言えましょう。

子ども向けコンテンツが、単純に「男女」で色分けされ、個々人の好み以前に出生時に割り振られた性別属性に応じてあてがわれる状況は窮屈ですから、今日そんな構造の一端が揺らいでいるのは歓迎すべきであることは、言うまでもありません。

そしてそんな状況に、女の子が魔法的なパワーで変身して男の子のヒーローが科学でそうしていたように戦うことが作品の主眼であるプリキュアシリーズの存在自体が寄与してきたことも、疑いないのではないでしょうか。


◇◇

  

 
(斎藤美奈子『紅一点論』は、初出出版が1990年代なため上述のとおり近年の情勢には対応してませんが、アニメとジェンダーにかかわる議論の基本的前提としてはいまだ有効な、必読の書です)

◇◇


では、そんな流れの末に、今般プリキュアシリーズが、あらためて「魔法」を明示的に標榜する意味やねらいは何なのでしょうか?

ひとつには今年2016年が『魔法使いサリー』から50周年にあたるということがあると言われています。

東映魔法少女アニメの「総決算」は『おジャ魔女どれみ』で1回済んでいるとは思うのですが、それもふまえたうえで、このアニバーサリーイヤーの機会に、東映アニメーションとしては、『魔法つかいプリキュア』をもって魔法少女アニメの系譜に新しいステージをひらく……という捉え方も一面においては真理かもしれないです。

つまり東映魔法少女アニメの歴史的蓄積が今日のプリキュアという概念に出会うことで、かつてないようなヒーローアニメに進化するということではないか?
そして、『プリンセスプリキュア』がプリンセスの定義を書き換えたように、『魔法つかいプリキュア』もまた、商業展開的に女の子向け枠とされるアニメのカテゴリーにおける「魔法使い」の定義を更新しようという意図なのかもしれない、そういう期待は持ってもよさそうです。

また、逆にそんな大層なものではなく、この日曜朝の子ども番組の近年の流れからすれば、『魔法戦隊マジレンジャー』→『仮面ライダーウィザード』→『魔法つかいプリキュア』ということで、むしろ「わぁ~今度のプリキュア《魔法つかい》かぁ! まるで仮面ライダーか戦隊シリーズみたい!!」でよいのかもしれません。

案外、蓋を開けてみるとタイトルが魔法な分、中身はけっこう科学的だったりするという可能性だってあります。

そもそも、『魔法使いサリー』から続く「東映魔女っ子シリーズ」をしばらく辿ってみると、直後の作品こそ『ひみつのアッコちゃん』ですが、その後の『魔法使いチャッピー』『魔女っ子メグちゃん』といったラインナップに混じって、やはり便宜上ここに含めてカウントされている作品としてミラクル少女リミットちゃん』や『さるとびエッちゃん』もあります。

このうち『ミラクル少女リミットちゃん』は、主人公が事故で瀕死の重傷を負った際に一命をとりとめるために科学者の父の手による改造手術でサイボーグとなった……という設定で、じつのところ完全に「科学」です
(このように建前上は女の子向けの枠の中で、こうした科学モチーフの作品が1970年代に制作されていたというのは、現実には早すぎた設定だったのかもしれませんが、現在の視点をもってして、今こそ肯定的に再評価すべきではないでしょうか)

『さるとびエッちゃん』もまた主人公は猿飛佐助の子孫を自称する少女という設定ですから、全く魔法ではなく、要するに忍者です、忍者。ニンジャナンデっ!?
(忍者モチーフも意外と「女の子アニメ」「男の子アニメ」を問わず両者を横断的に用いられることが多いのは興味深い現象です)

……現時点の情報では、『魔法つかいプリキュア』は当初はプリキュアに変身するのは2人の体制で、かつこの主人公ら2人の関係性が、とみに強いものとしてフォーカスされ描かれていくように伝えられています。

その分ある種、完成度が高い関係性の、他のメンバーが入り込む余地のない閉じた体制になることも考えられます。

しかし、商業的な要請からすれば通年で2人だけというわけにはいかないでしょう。

となると、やがて登場する追加戦士はいると考えると、ソレがもしかして「科学」由来のサイボーグかアンドロイドだったりすると、スッキリ作中での収まりがよい立ち位置になるような気はします。

で、もうひとりの追加戦士が忍者と;

そんな可能性は、はてさて、本当にないものでしょうかね(^^;)


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最後に、もうひとつだけ『魔法つかいプリキュア』が採用された背景を考察しておきます(まぁ必ずしも「魔法」でないといけない理由でもないのですが)

ヒントはこの、『魔法つかいプリキュア』内藤プロデューサーの言葉です。
手と手をつなぐことで、心をつなぎ、希望をつなぎ、世界をつなぐ。ひとりひとり皆違うけれど、だからこそ面白い、そしてその違いを認識し受け入れることで、世界は広がっていくんだということを、さまざまな「つなぐ」を通して伝えていきたい

『魔法つかいプリキュア』は初代『ふたりはプリキュア』などと同様に2人そろわないと変身できず、2人が手をつないで変身するということなのですが、今般そんな2人の一方は人間界の女の子、もう一方が魔法界の住人である女の子――。

素直に考えてそれはつまり、本来は出会う機会もなかったかもしれない歴史も文化も異なる世界の者どうしが、ひょんなことから出会い、互いに理解し合い、絆が結ばれ、手をつなぎ、助け合い切磋琢磨しながら共通の目標・課題へ向けてともに進む……、そういう様子が描かれていくことなのだろうと思われます。

そして、じつは同時期に始まる戦隊ヒーローの新番組『動物戦隊ジュウオウジャー』もまた、人間界の住人と異世界の存在が出会い、仲間になって協力・共闘するという設定が共通しています。

このあたりの、あたかも偶然にも見える符合を突き詰めていくと、やはり去年、『プリンセスプリキュア』の第1話がオンエアされた日である、2015年の2月1日、当時最終回目前だった烈車戦隊トッキュウジャー』の放送が休止する原因になった例の事件や、その周辺に連なる各種のテロリズム、およびそれらも含めた世界の不安定要因・拗れた国際情勢などが、両作品ともに、制作サイドの意識にあるということではないでしょうか。
つまりこれは必然の一致。

正義の相対化日本のヒーローものの得意技だし、相互理解と共生の決着もまたプリキュアのお家芸です。

私たちは、そんな日曜朝のテレビを通じて、世界平和のために何をなすべきなのかをも、考えていきたいです。


◇◇
(2017/01/31)
1年間の放送を経て『魔法つかいプリキュア』も一昨日最終回を迎えました。
前作『プリンセスプリキュア』との比較で見れば、肩の力を抜いてカジュアルに視聴できる感がある作風だったと言うこともできるかもしれませんが、なかなかどうして、プリキュアシリーズとして必要なポイントはしっかり押さえた良作でした。
特に主人公・朝日奈みらいと魔法界からやってきて出会うリコ2人の間に紡がれていく親密な関係性に強くフォーカスした物語構成は、プリキュアシリーズの中でも群を抜いた百合キュア」度、非常に百合力の高い作品としての仕上がりをもたらしたのではないでしょうか。

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そして上述した「魔法」に関しての予測も、おおむね間違っておらず、バトルシーンの迫力が有意に低下することもありませんでした。まさに子ども視聴者たちにとっては「わぁ~今度のプリキュア《魔法つかい》かぁ! まるで仮面ライダーか戦隊シリーズみたい!!」にすぎなかったかもしれません(追加戦士はロボットでも忍者でもなく、むしろ科学だ魔法だといった概念さえ包摂した宇宙の創生――はビッグバンであるとするなどの点はかなり現代的な科学知識に立脚していたりも――にかかわる根源的存在が転生した姿という予想の斜め上でしたが、それはつまり『ハピネスチャージプリキュア』の難点の最大要因であった「地球の神」ブルー氏を本当に女性キャラに置き換えて、しかもプリキュアに変身する立ち位置に持ってきた……という「ハピネスチャージ反省会」へのひとつの回答だったとも解せます)

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さらに「2つの世界を《つなぐ」ことについても期待どおり、否、期待以上のものが描かれました。主人公・みらいとリコの間に醸成された強いつながりと、そんな2人から連なるたくさんの出会いの輪は、2つの世界の交流あってこそ。歴史も文化も異なる世界の者どうしが仲良くなることは可能だし、そうやって互いを尊重しながら共生できることこそが貴い。そのことが全編を通じて作品の底流に貫かれていました(この点については、やはり戦隊ヒーローの『ジュウオウジャー』もまた同様の方向性で進められてきており、しかるべき決着へ向けて次回の最終回を待つところになっています)。これはまさしく独善的な考えに基づくテロリズムやそれらを受けての排外主義がますます横行した現実世界の2016年に対して意義あるものでしたし、テロリズムを意識するあまり出入国管理を厳しくしたり自国の利益第一に国境に壁を作ることをよしとするような某国大統領が就任した2017年1月にこそ、あらためて噛み締めたいメッセージだと言えましょう。


◇◇


◎ロボットに性別はない、その1
仮にプリキュアの枠内でサイボーグやアンドロイドの類を登場させるとしたら、『コンクリートレボルティオ』に出てきたアースちゃんが、ヒントのひとつになるのではないでしょうか。

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アースちゃんは鉄腕アトムを元ネタとした人型等身大自律ロボットですが、鉄腕アトムとは異なり女の子というジェンダー設定でつくられています。
………むろんロボットに「生物学的性別」はないのですが;
(生物学的性別がないはずの存在であったとしても、フィクション中に登場するキャラクターに対して何らかのジェンダー属性を付与しないと落ち着かない・感情移入しづらいというのは、すべての登場人物が女か男かのいずれかの性別であるはずだという前提にしておきたいという、この社会に生きる私たちが持つオブセッションですね)


◎ロボットに性別はない、その2
「ロボットに性別はない」といえば、2016年4月よりNHK「おかあさんといっしょ」内での着ぐるみ人形劇がにリューアルされ、新たに始まるガラピコぷ~では、主要キャラの1人「ガラピコ」は異星人が作ったロボットであり性別は不明というのが公式設定になっています。
「異星人が作ったロボット」ということは、ロボットだから機械であり無生物だから生物学的性別がないのもさることながら、その惑星のガラピコを作った知的生命体が、視聴者である地球人が考えるような性別観念の該当する存在とも限らないわけで、これなら決まりきった男女二元的なジェンダー観念ではないものを、まだ頭の柔らかい子どもたちに届けることもできるでしょう。
残りの2人の男女ステレオタイプもズラしてあり、民放でのプリパラに匹敵することをいろいろしでかして(いろんな意味で;)くれそうな期待が、けっこう持てる気がします(^^ゞ

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※NHK公式サイトから


◇◇

◇◇


「プリンセス」の定義を書き換えたGoプリンセスプリキュア [メディア・家族・教育等とジェンダー]

今年もまたプリキュアシリーズの代替わりの時期。
12年めの作品としてこの1年間展開されてきた『Go! プリンセス プリキュア』が、今朝がた 最終回を迎えました。

総合評価をするなら、シリーズ屈指の、クォリティの高い、素晴らしい作品だったと言えるでしょう。

物語の基盤である女の子どうしの親密な関係性を丁寧に描きながら、主人公らが自発的自律的に自ら主体性を持って行動し、自分たちの暮らしを脅かす敵を撃退しつつ、最終的にはそんな敵陣営のありようさえ変えていくという、プリキュアシリーズの基本とも言える要素はきちんと押さえつつ、さらなる高みをめざした意欲的な構成は、大いなる賞賛に値するものです。

そして、そんな『Go!プリンセスプリキュア』の最大の特長は、やはりタイトルにもある「プリンセスでした。


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※画像は特に断りのないものは各作品放送画面よりキャプチャ


昨年度、前作『ハピネスチャージプリキュア』が終盤にさしかかるころ、次期プリキュアが「プリンセス」だと知ったときには、私を含む少なからぬ人は「ちょっと安易なのでは!?」と思ったものです。

いかにも安直なステレオタイプに基いた「女の子の憧れ」のイメージに迎合しており、因習的なジェンダー規範にやすやすと絡めとられてしまう危険とも隣り合わせなモチーフです。
あまつさえ、すでに『スマイルプリキュア』での強化変身モードの名称が「プリンセスフォーム」でしたし、『ハピネスチャージプリキュア』に登場するメンバーの中にも「キュアプリンセス」がいます。
そんな「プリンセス」モチーフをまたまた使い回すのか!?

……………。

しかし、そんなおり、ツイッターで見かけたとある若い女性の見解に、私は目からウロコが落ちた気がしました。

「これはプリキュアがプリンセスの定義の書き換えに挑んでくれるのに違いない!」

なるほど、そういう観点も、たしかにありえます。

『ハピネスチャージ』のキュアプリンセスだって、当初はプリンセスとは名ばかりの、プリキュアとしても逃げてばかりで、普段も引っ込み思案で社交性に難があるネガティブキャラだったのが、仲間との1年間をつうじて立派に成長し、王国の次期女王たるにふさわしい器に育った様子は、形や建前ではない、真にプリンセスに求められる内実のありようを示していたと言えます。

プリキュアシリーズではないですが(が、主人公・アンジュリーゼを演じる声優は『ハートキャッチプリキュア』のキュアブロッサムでもある水樹奈々)クロスアンジュ~天使と竜の輪舞』でも、ある種お仕着せの世界で形だけのプリンセスだった主人公が、ひょんなことから人間ではない存在とされる非差別階級に陥れられ、ドラゴンを相手とする変形ロボットに搭乗した過酷な戦闘を強いられる日々の中で、本当にわかりあえ信頼しあえる仲間との絆を得て、やがて知る世界を支配する醜悪なカラクリに立ち向かい、その元凶を打倒した後には、自分たちが理想とする新しい国づくりの中心的存在となるという、まさに「真のプリンセスであるとはどういうことなのか」が描かれていました

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厳密には『プリンセスプリキュア』開始時点では『クロスアンジュ』の結末までは未放送でしたが、今となっては『クロスアンジュ』は『プリンセスプリキュア』とは別の軸線から「いまどきの真のプリンセスはいかにあるべきか」を描いていたロボットアニメだという感はますます強く、いわば「Go!プリンセス ガンダム」みたいなものだったと言えます)。

今度のプリキュアが、そこからさらに1歩踏み込んで、時代が求める新しいプリンセス像を明確に描き出してくれるなら、21世紀を生きる女の子たちへ向けたイメージの転換として大いに意義があります。
言うなれば「プリンセス革命プリキュア」です。

※多くの人が『Go!プリンセスプリキュア』の中に1990年代に話題となったアニメ『少女革命ウテナ』との連関を読み取っていた様子はツイッターなどで頻繁に観測されましたが、あいにく私・佐倉智美にとって『ウテナ』がオンエアされた90年代半ばは諸般の事情によりアニメ知識の穴になっている時期にかかっていて、当該作品も『エヴァンゲリオン』などと同様に詳しくないため、本稿ではこの点の言及は控えることといたします(『セーラームーン』も詳しくなかったのですが、こちらは後年に多少のリカバリーを果たしました)


 → Go!プリンセスプリキュア朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/precure/princess/
 → Go!プリンセスプリキュア東映アニメーション公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/princess_precure/


はたして物語が始まってみると、主人公・春野はるかは、たしかに「プリンセスになりたい」という夢を持つ少女でしたが、それはロイヤルな家系に連なりたいというような意味では決してなく、単純な王子様との結婚願望とも明確に異なるものであることが、少ししっかり視聴すれば容易に理解できるようになっていました。

第1話時点では、そんなはるかが目指すべき理想として抱くプリンセス像もいささか獏とはしているものの、ストーリーの進捗とともにそのあたりが徐々に明確になっていくであろうことも、じゅうぶんに予感できました。

実際、最終回まで視聴が済んだうえでの結論から言って、本作における主人公らがめざす「プリンセス」とは、具象的な何かと言うよりは、ある種の抽象概念であり、生きる姿勢、人生の心構え、あるいは自分自身に対して貫徹する崇高さ、矜持のようなものとして位置づけられました。

すなわち、毎回のオープニングの冒頭で謳われるスローガン「強く、優しく、美しく」に集約される精神性こそが「プリンセス」と形容されているのであり、自分が夢として思い描いた目標に向かって自主自律で歩んでいく道筋そのものが「プリンセス」なのだというわけです
(まぁソレだと抽象的すぎて幼児視聴者にはつかみどころがないという配慮か、番組としては、いわば条件を満たした者が得ることができる称号としての「グランプリンセス」という目標は設定されましたが)

ちなみに「強く、優しく、美しく」というスローガンも、はるかが最初に「プリンセスになりたい」という思いを持つきっかけとなった作中の絵本『花のプリンセス』の主人公の「屈しない強さ・思いやる優しさ・心の美しさ」こそが、まさに自分がなりたいプリンセス像の基底にあるものなのだと中盤ではるか本人が気づくことに根拠しています。

そんなわけなので、『プリンセスプリキュア』における「(グラン)プリンセスになる!」は、作中に明確なメッセージをともなった操作的定義が存在し、一般的な「王家の娘」「王子の嫁」といった意味あいは完全に払拭して用いられていました。
言ってみれば同時期放映だった戦隊ヒーロー『手裏剣戦隊ニンニンジャー』における「伝説のラストニンジャになる!」とほぼ同じようなものだったわけです。
※『ニンニンジャー』でも最終回では「家柄・門地に由来する宿命を越えて、それぞれが自分の意思で自分がなりたい理想像にそくした《自分だけのラストニンジャ》になる」という結論に至っていたので、それは結局『プリンセスプリキュア』と同様の趣旨が語られていたことになります。
今やプリキュアもれっきとしたニチアサ枠のヒーローもののひとつとなっているので、仮面ライダーや、ソレ以上にチームヒーローとしてプリキュアと構造的に似やすい戦隊とは、いろいろネタかぶりというか、視聴者の子どもたちへ伝えたいテーマ等々に何らかの相同性が見られるケースは、今後も増えこそすれ減りはしないと考えられます。

必然的に、この『プリンセスプリキュア』における「プリンセス」になるためには、べつに王子様に見初められることは不可欠ではなく、王子様キャラの登場自体が必要ではありません。

そして、必要はないところへ、あえての「カナタ王子」という白馬にも乗る異世界の王国の王子という身分のイケメンキャラが配置され、春野はるかと重要な関わりを持つ役割が与えられますが、それにもかかわらずカナタとはるかはあくまでも対等な相互の信頼と敬愛に基づく関係であり、特段の恋愛関係などには陥らず、かつプリンセスが王子様から一方的に助けられるだけの立場にはならないよう描写は徹底されていました。

そんな中で、「プリンセス」という言葉から想起されるイメージは、ゴージャスでプレシャスな表象として作品の空気感に生かされていましたが、それもあくまでも主人公らの志の高さの裏付けを補完する描写としての側面が強かったです。

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要するに作品として描こうとするねらいは、意図的に「プリンセス」を前面に押し出し、ロイヤルな雰囲気は作品世界の装飾に活かしたうえで、わざわざ白馬の王子様キャラまで配置しておきながら、王子様に選ばれるだけ・待っているだけ・キスされて目覚めるだけのプリンセス譚ではない物語を示すことで、あらためて新世紀の女性像を発信しようということだったのでしょう。

ちなみに番組としては、建前上は「女の子アニメ」であるプリキュアシリーズにおいて、この「プリンセス」表象が持つ「女の子らしい」と一般的には受け止められやすいテイストが、商業展開に活用され、販促ノルマ達成にも一役買っているとみられます。

なにぶん関連商品・各種玩具を購入するための財布の紐を握っている親や、あまつさえ祖父母世代の中には保守的なジェンダー観念をいまだ持つ人も少なくないでしょう。
そんな層にも、コレならウチの可愛い娘が女の子らしく麗しくお淑やかに育ってくれるのに役立ちそう! …と思わせるためのアピールは必要です。
そして、そうやって商品の売り上げが伸びないと、作品の制作費用も賄えません。

したがって、「作品」を制作するセクターの良いものを創りたいという思いと、「番組」を展開するセクターの商業的な成功という要請は、今後もせめぎあいながら、その折り合うところに、そのつどそのつどの結果が現れることになるのではないでしょうか。
なので、毎年のプリキュアのモチーフを表面的にだけ見て、あれやこれやと批判するのは短絡的だということになります。

そんなこんなで『Go!プリンセスプリキュア』では、旧来の「プリンセス」という言葉の定義の改革が試みられ、「プリンセス」と聞いて想起されるイメージの転換が図られたわけです。

以下、そのあたりもう少し具体的に確認していきましょう。


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まず第1話。
主人公・春野はるかがはじめてキュアフローラへと変身を遂げるシークエンスは、突如襲ってきた敵に友だちが捕われ、それを助けたいと思うことや、そんな敵の行動原理に強く反発を覚えることが動機となっており、そうしたはるかの心意気に変身アイテムに宿ったプリンセスプリキュアの力が反応することで成り立っています。

いうなれば『プリキュア5』や『スマイルプリキュア』の第1話を、よりいっそうブラッシュアップしたものです。
その意味ではプリキュアシリーズの第1話としての鉄板展開でもあるのですが、『プリンセスプリキュア』であるがゆえに、今どきは自分で考えて自分で行動する、そのための強い意志こそが「プリンセス」なのだ! ……というメッセージとしても成立しているわけです。

「プリンセスになる」ということが、生まれながらに宿命づけられているのでもなく、他者から受動的に意味づけられるのでもなく、あくまでも自分がなりたいと願い決断したことに由来するのだと、あらためて明示されている……とも換言できましょう。

そうしてその後のキュアフローラの初戦闘が、これがもぅ、動く動く!!

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ヒーローのアクションシーンとしても、アニメ表現として満点の出来栄えだったと言えるのではないでしょうか。
一部の人が危惧していた「今度のプリキュアは『プリンセス』だからバトルがおとなしくなるのでは!?」は、完全に杞憂に終わりました。

自ら考え選び主体的に行動し、強く優しく美しい豪快な立ち回りで戦って勝利する、それが「プリンセス」。
そんなふうな「プリンセス」の意味合いの上書きは、すでに第1話の時点で半ば達成されたのです。


その後、プリンセスプリキュアの仲間も増え、物語は順当に進展します。
中盤で「追加戦士」として仲間になるのはカナタ王子の妹なのですが、当初は洗脳されて敵幹部としてはるかたちに立ちはだかる役回りで登場します。

この設定は、作劇上さまざまな効果はあるのですが、ひとつには上述した、はるかがなりたい「プリンセス」とは出生によるものではなく自らが探求してその内実を獲得していくものだという点を、生まれながらのプリンセスを登場させることで対比的に強調して描くことがあったでしょう
(このカナタ王子の妹自身には、仲間になった後には、生まれながらのプリンセスという立場にある者として、この作品における「プリンセス性」をどのように体現していくのか……という課題が与えられました)。


そんな物語中盤を過ぎた第27話。
ちょうど学校が夏休み中にあたるこのエピソードでは、主要登場人物たちがこぞって町の夏祭りに繰り出します。
しかし脚本のお約束どおり敵モンスターが出現。

そんなとき、キュアフローラは、敵モンスターに襲われかけていたクラスメートの男子を安全な場所まで避難させるために抱きかかえてジャンプします。

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……………待て待てぇ~!

ソレ「お姫様抱っこ」!!

いったいいつから「お姫様抱っこ」とは、プリンセスのほうが誰かを抱っこするメソッドのことになったのでしょう!?

かくして、「プリンセスプリキュア」によって「お姫様抱っこ」の意味が、やはり書き換わった瞬間を、私たちはまのあたりにしたのでした(^o^;)。

ついでに言うと、この際、助けてもらった男子は、みんなの夢を守るために戦っていると言うプリキュアたちのことを「スゴイ! 本物のヒーローだ」と評します。
シリーズ通じてコレが初出でこそないですが、公式の「プリキュアはヒーロー」発言、来ました。


さらに物語の5分の3クライマックスである第30話では、変身アイテムのパーツであるドレスアップキーを奪われて変身できなくなった主人公はるかたち主要メンバー3人らが、それらを奪回し起死回生を図るべく、敵が待ち受ける城塞の中へと乗り込んでいくという展開が用意されました。

一般にヒーローものでは、何らかの外的な事情で変身できなくなり、やむなく素面アクションを強いられるという脚本は、ままあることです。
同じ日曜朝の番組でも、特撮の戦隊ヒーローでは、女性戦士が変身前の状態で相当のアクションをこなすケースも(カットによってはスタントマンが替わっているにしても)しばしば見られるところです。

しかしながら、プリキュアシリーズでは、従来はやはり「女の子アニメ」としての遠慮なのか、そういう描写は控えられがちで、前例も限られていました(本来的には実在の身体に由来する制約がないのはプリキュアのようなアニメのほうなのですが)
過去の劇場版プリキュア映画では敵対キャラによる「プリキュアなんて変身できなければただの(かよわい)女の子にすぎない」という趣旨のセリフさえあったくらいです。

しかしこのときの『プリンセスプリキュア』制作陣は一切の酌量を加えませんでした。
変身できない生身の女の子たちに容赦なく大立ち回りをさせるさせる!!

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そしてこのときの3人の信念に満ちた凛々しい表情!
番組の設定上は「プリンセス」ですが、いわゆる助けてくれる王子様を待つ気ゼロです。

こういう血の滲むような努力と身を切る覚悟に立脚した死闘の果てに獲得できる称号が「プリンセス」なのだという本作のスタンスが、胸を熱くするドラマとして提示された瞬間でした。


秋には例年どおり劇場版映画も公開されたのですが、この劇場版長編『パンプキン王国のたからもの』でのスペシャルステージである異世界「パンプキン王国」は何者かの手に落ち、王国のプリンセスであるパンプルル姫は塔の上に幽閉されている状態でストーリーが進行します。

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塔に閉じ込められたお姫様》とは、これまたものすごく手垢が付いた古典的な舞台設定だという印象が一瞬します。

しかし…………安心してください、ソレを助けに行くのも「プリンセス」ですよ!

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そして、実際に映画を観てみると、このパンプルル姫、そんな「プリンセスであるところのプリキュア」にさえさほど「助けられる」ことなく、ほぼ自力で塔から脱出してきます。

じつは同時上映の中編映画『プリキュアとレフィのワンダーナイト!』でも、パンプキングダムのプリンセスであるレフィ姫は、プリキュアたちに若干の手助けとして協力を要請しますが、基本的には自分で問題を解決しようと自力で方策をマネージメントして自主自律で行動しています。

なんと全員が全員、誰かに全面的には頼り切ったりせずに自分から行動するプリンセスばかり!
要はお姫様がほとんど誰にも一方的に助けられることなく自力で全部なんとかしようとするのが、プリンセスプリキュアクォリティなのです。

これが劇場映画で描かれることによって、「プリンセス」なる存在の映画の中のキャラとしての立ち位置の基準点が更改されたのは間違いないでしょう。

それに、この秋の劇場版『映画 Go!プリンセスプリキュア』、いちおう重要キャラであるはずのカナタ王子は影も形も登場しません。
ちょうどテレビ本編では記憶喪失中の時系列にあたるから(?)かもしれませんが、だとしても、プリンセス映画をまったくの王子様抜きで制作するというのは、かなり思い切った判断だったのではないでしょうか。
あのディズニーさえもがここまでやったと評価できる『アナと雪の女王から見ても、さらに踏み込んだ取り扱いだと言えるかもしれませんね。


そうして本作最大の山場と言ってもよかったかもしれない、5分の4クライマックスの第39話。
この回は、ひとつ前の38話のラストで記憶喪失中のために全体の状況が把握できていなかったカナタ王子から「もうプリンセスになんかならなくていい」と言われてしまったはるかが絶望的に自分を見失ってしまったところからの復活劇が描かれます。

はるかは、カナタ王子とは、小さいころ同級生の男子から「プリンセスになりたい」という夢を嗤われて落ち込んでいたところを励まされたことで自分の夢を肯定し直すことができたという過去の縁があります。
そのカナタ王子からプリンセスになることを否定する発言をされることは、はるかの立脚点のひとつが崩れる出来事でした。

むろんカナタ王子も悪気があったわけではなくて、「プリンセスになる」ために日々精進するはるかが、敵の苛烈な攻撃に対してはプリキュアとして傷ついてボロボロになってまで歯を食いしばって立ち向かい戦いぬく様子を見ての、「そんなに困難で大変なことにキミがかかわらないといけないなんて…」という思いやり・慮りからの発言ではありました。

つまり、趣旨としては「キミは可愛くしててくれればボクはシアワセだから、キミはがんばって苦労しなくてイイよ、あとはボクが全部してあげる、ボクが守ってあげるから」なわけです。
これは旧来型のプリンセス物語であれば、王子様からの愛を獲得した証でもあり、ハッピーエンドのフラグでさえあったでしょう。
しかし逆にそれが主人公鬱堕ち展開の端緒になってしまうところに、『プリンセスプリキュア』の壮大な捻りがあります。

思えばかつて幼少期の私などは、ディズニー系のプリンセスアニメなどを横目で眺めながら「女は寝てる間に王子様が全部解決してくれてあとは起きるだけってなんてラクなんだろう、それに引き換え男は大変だorz」と感じる男の子だったりしたものです。
もちろん、その裏でじつは女の子たちは主体性を奪われる」という憂き目に遭ってたわけですから、真に問題なのは、そうやって「男女」を別々のものとして仕分け、各々に固定的な生き方のコース別を強いる社会構造なわけです。
大事なのは、信頼しあえる仲間と切磋琢磨し、ときに助け合いながら、それぞれが自分の望む行き方を進めていけること……。
そう考えたとき、この『プリンセスプリキュア』の巧妙にジェンダー撹乱的な作劇の意義は非常に大きいと言えるでしょう。

第30話では変身アイテムを奪われるという外的要因で変身できなくなっていた主人公らですが、この39話でのはるかはメンタルが規定値を下回ってしまっているという内なる理由で変身能力も発動しなくなっており、何もできずに、仲間たちが必死で敵と戦っている様子を遠目に、荒廃した街を彷徨します。

そんな憔悴の渦中で、はるかはようやく思い至ります。
自分の「プリンセスになりたい」という夢の原初が、幼少のころ『花のプリンセス』の絵本を読んだことで自分で気づき自分の中から生まれた憧れであることに。
そして今まで多くの人とのつながりの中で育まれ培われ意味づけられてきたものであることに。

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ときには辛いこともあり、絶望を誘う大小さまざまな挫折や、投げ出したくなるような困難もあった。
でも、それらがすべて、自分自身の夢の軌跡でもあり、今の自分を形作っているすべてである――。

そんな中でカナタ王子の存在は重要ではあっても、はるかにとって全部ではなくて、あくまでも一部分。
だからカナタ王子からたまたま否定的な方向のことを言われたからといって、夢の動機はなくならないし、めざす思いはいまだ自分の中に間違いなく存在していると。

「……夢があったからここまで来れた。みんなとも出会えた。たとえカナタにやめろって言われても、わたしはプリンセスをめざすよ!」

こうしてはるかは、はるかのプリンセスをめざす思いの意味に気づき、前話での自分の発言が過剰なパターナリズムであったことを謝罪しに駆けつけたカナタ王子に、このように告げます。

ポイントは、カナタ王子とのやり取りは、あくまでも補助的な傍話にしか位置づけられておらず、はるかが、今までの自分の歩みが紡いできた多くの人々とのつながりを思い返すことでエンパワーされつつ、まったくの独力で気づきに至り、自分で復活するところですね。

強いて言えば、このときのはるかを支えた存在として象徴的に描かれるのは、『花のプリンセス』の絵本を読んでプリンセスを志した当時の幼少期の自分自身
じつはこれもまた上手い構成で、番組の直接の対象とされる幼児に対しては、数年後に壁に突き当たって苦悩する自分をそのとき助けることになるのは、今まさに『プリキュア』を視聴している現在の自分の思いなんだよというメッセージにもなっているわけです。
じつにスバラシイ。

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そうして立ち直ったはるかの復活変身は、通常のバンクは使わずにこの回専用の特別な作画で描写されるのですが、これがまた決然と凛々しいこと!!

このように、女性主人公に、安直にジェンダー構造に絡め取られて結局は「男に頼る幸せに安穏と陥る」展開を絶妙に否定しつつ、こんなにカッコヨく自分自身で道を切り開いていくさまを描いた作品は、まさに「子どもに見せたい」内容に他なりません。

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さらにこのときのBGMに用いられる挿入歌、その名も「プリンセスの条件」が、これまた象徴的です。

 【参考】→ プリンセスの条件 - 歌詞タイム

類型的な形式が重要なのではなく、自分の主体的な選択に基づく夢に向かって一定の努力をしながら未来に向かうこと、それ自体が幸福の成就であることを示す、この「プリンセスの条件」の歌詞は、聞き手の性別にかかわらず誰に対しても大いに意義があるものです。

これが作品の公式見解としての「プリンセスの条件」、すなわちプリンセスであるとはこういうことだという明示的な解説だとしたら、これもまた旧来のプリンセス観を大きく覆しているのは、もはや言うまでもないでしょう。

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※CD歌詞カードより


このように、この『Go!プリンセスプリキュア』において「プリンセスになる」とは、ロイヤルな家系に生まれつくことでも、ロイヤルな家系に生まれついた人と婚姻関係になることでもなく、ひとりひとりの人生の目標の立て方であり、生きる姿勢であることは、この第39話までをしっかり観た視聴者にとっては、もはやじゅうぶんわかりきったこととなったのですが、そこへ加えて終盤の第47話でもダメ押しの描写がおこなわれます。

この回では、はるかが敵の罠で夢の世界に閉じ込められてしまうのですが、その夢の世界というのが、「プリンセス」の意味するところを表面的になぞった「理想のプリンセスの世界」なのです。

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いわばズバリ「こうして◯◯姫は王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしました」という「ハッピーエンド」後の様子を典型的に絵に描いたような世界。

しかし、そんな何も難しいことを考えずとも、何の努力も苦労もなしに、毎日を安楽に暮らせる世界のありように、ほどなくはるかは気が付きます。

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この世界、何か変。
自分が理想とする「プリンセス」の毎日というのはコレジャナイ!

そうしてはるかは、敵の罠として設営された夢の世界の欺瞞性を見抜いたことで、見事にそれを打ち破って現実の世界に戻ってくるのです。

似たようなシークエンスは、過去のプリキュアシリーズでも前例がないではありません。
『スマイルプリキュア』での「怠け玉」のエピソードなどは、まさに同じテーマを扱っていますし、劇場版プリキュア映画のいくつかにも事例は探せます。

『プリンセスプリキュア』内での描写の積み重ねに加えて、そういうシリーズ他作品でのことも勘案すると、この第47話、ちょっとしつこい(^^ゞ

いゃ、もうソレ知ってるし;

………とはいえ、世の中には、やはりそういう視聴者ばかりでないのも現実かもしれません。

なので、この第47話は、ひろく一般的な視聴者、特に子どもと一緒に観ているだろう保守的な親世代・祖父母世代へ向けて、重要事項について念を押す再々確認として「王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしました」をわかりやすくバッサリ否定する意図が込められていたと解釈すべきなのでしょう。

自由な発想で自己の将来像を思い描く子どもに対し、世間一般の価値規準に則った類型的な「しあわせのかたち」を強要する保護者も少なくはないというのは想像に難くありません。
『Go!プリンセスプリキュア』の今般の第47話は、そうした状況も見据えたうえでの作品制作者側の矜持として、旧来的な「プリンセスの幸せ」像をベタな形で覆すプロットを、シリーズ構成的にはちょっとくどいくらいにドヤァとばかりに描いたということなのではないでしょうか。


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こうして、『Go!プリンセスプリキュア』は、「プリンセス」というジェンダー化された世界観と親和的な表象を巧みに使いこなしつつ、その一方で、自分で考えて自分で行動する主体的な生き方こそが新しいプリンセスなのだというふうに、プリンセスの意味づけを書き換えてきたわけです。

そのことの意義は、より多くの人に知ってほしいし、プリキュアシリーズがそうした有意義な取り組みを続けているという事実が、社会的に適切に評価されないのであれば、非常にもったいないと思います。

プリキュアシリーズ10年超の蓄積の上に、またひとつ到達点を刻んだ『Go!プリンセスプリキュア』は、まさに日本のアニメ作品の金字塔のひとつとなったと言ってよいでしょう。


◇◇

  

  
※挿入歌「プリンセスの条件」は後期エンディングCDに収録

 

◇◇


◎海藤みなみは四葉ありすの劣化コピーか?
『Go!プリンセスプリキュア』における「青プリキュア」キュアマーメイドに変身することになる海藤みなみは、海洋関連の事業を手広く展開する企業体・海藤グループの令嬢であるという設定でした。
これはドキドキプリキュア』における四葉ありすとの類似を連想させるものではありましたが、みなみの場合は、いまだグループの企業経営に参画しているわけではなく(まぁ中学生なのでフツーはそうであり、四葉のほうがオカシイのですがw)執事のサポート・各種のメカを運用したプリキュア活動の支援もないので、比較した場合、多少の地味さを指摘することもできなくはありませんでした。
そして、将来には海藤グループの経営に参画し、両親や兄とともに海洋関連の事業に携わりたいと考えていたみなみは、しかし海藤グループ御用達にして海洋生物学(!?)での博士号も持つ獣医・北風あすかとの出会いを経て、自分もまたその道に進みたいと思うようになります。
もっとも、この海の獣医師になることと海藤グループの海洋関連の事業に携わることは、あながち排他的に背反する夢ではなく、長い目で見れば発展的に統合可能なものでしょう。実際 四葉ありすの場合なら、そのあたり上手に止揚している様子が描かれていたとも言えます。その点でも、プリキュアシリーズとしては1回やって解決済みの問題がまた出てきた感が、いささか禁じ得ない部分はあったでしょう。
しかし、第45話で、みなみが将来の夢に変更が生じてしまったことを、意を決して両親へ伝えるシーンを見れば、『プリンセスプリキュア』制作スタッフには別のねらいがあったのではないかと思えてきました。

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すなわち、この両親への告白シーン、みなみにかかわすすべてはここから逆算して設計されていたのではないか?
つまり、親が思っているものと異なる進路・将来像を望んだ子どもが、親にそのことを伝えて見せる、そのモデルケースを明確に描写して示すという目的があったのでは? ということです。
作中では、みなみの家の仕事に参画するという夢も親から強制はされてない自発的なものでしたし、新しい夢に向かう本人自身の決意も1つ前の第44話で確認済み。しかも両親がその新しい夢を否定したりせず肯定的に受容し応援してくれるだろう予測も容易につくように、その為人は描写済みでした。その意味では45話のこのくだりは、やはり視聴者にはもうわかっていることがしつこく描かれているという側面も大でした。
にもかかわらず、このシーンには相応の時間を割いた、その目的が、親が望む進路と異なる夢でも追求して良い、そしてそのことを思い切って親に伝えるとはこういうことなんだ…という実例を演って見せることだったのだとしたら、すべて辻褄は合います。
実際、親が敷いたレールの上を進まされようとしているような子どもは、テレビの前にいくらでもいるでしょう。その子どもたちへメッセージを届けるためには、これは望まれる描写です。そんな切に望まれ意義の大きな必要性が高い描写をすることが、最初から仕込まれていたのだとしたらスゴイです。
『プリンセスプリキュア』の敵陣営では、ラスボスの「絶望の魔女ディスピア」とその配下の幹部たちの関係性が歪んだ親子関係の暗喩のようにも描かれていましたから、親子関係をめぐる問題は、本作の隠しテーマのひとつでもあるのでしょう。
現実の世界では、親ができるだけ子どもの自主性に任せようとしても、しょせん子どもに見せる「親の背中」は決まっているものです。このようなアニメを観た子どもたちが、そんな桎梏と上手い距離感を保って、自分の道を進んでいけることは、願われて止みません。
ついでに念のため付け加えるなら、「親が思っているものと異なる進路・将来像」には、いわゆる進学や就職にかかわる案件はもちろんとしても、他にも例えばセクシュアリティについてのものも当然に含まれうるでしょう。
そう考えると、45話のこのシーンを元にした二次創作同人誌のアイデアで、みなみが両親に告白する内容がじつは「女の子どうし付き合ってます!」だ(コレはみなみとはるかたちの親密な関係性の実相から考えればあながち「違う!」とも言い切れない、はい、つまり例年に負けず劣らない「百合キュア」です;)……なんてのが出ていたのは、むしろネタというよりは、ものすごく正鵠を射ていたのかもしれないですね。
もしもそういう同性愛などを告白する場面を連想させることまで狙って演出が練られていたりしたのだったら、プリンセスプリキュアの制作陣、かの『プリパラ』にも比肩しうるハイレベルさだったと言ってよいでしょう。

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◎七瀬ゆいは小日向未来を超えたか!?
『Go!プリンセスプリキュア』の特長としては、プリキュアの正体を知り身近な立場から支援する立ち位置のキャラを、主人公らの同級生の女の子にしたこともあるでしょう。
つまり前作『ハピネスチャージ』の相楽誠司を本当に女の子に置き換えたのが、今作の七瀬ゆいだとも言えます。

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また、『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズにおける主人公・立花響の親友の小日向未来に相当する立ち位置のキャラが、ついにプリキュアシリーズにも登場したということでもあります。
…ですので、ちょうど主人公たちが通う学校・ノーブル学園は全寮制で、七瀬ゆいも春野はるかのルームメイトとして登場しましたから、「これはいずれ二段ベッドの同じ段でいっしょに寝てくれるにちがいない!(シンフォギアで立花響と小日向未来がそうしていたように)」というような百合キュア期待を高めた視聴者も少なくなかったはずです。あいにくその願望には応えられることはナシに終わりましたが、ただ真面目な話、小日向未来は立花響との深い親密性、固く結ばれた心のつながりに、キャラとしての存在意義が収斂しているのに対し、七瀬ゆいはもう少し広く作品世界全体と重要ポジションで関わり、プリンセスプリキュアに変身する4人とも各々等距離から接した感が強いです。
相楽誠司のようにカラテのたしなみがあったりするわけではないので物理的な戦闘行為には直接の参加はできませんでしたが、物語後半にもなるとメンタルな部分で敵の脅威を自らの意志の力で打ち破るなど、もはや「心のプリキュア」と言ってもよいほどの活躍も見せました。

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そうして、あえて5人目のプリキュアに変身することをさせずに、今作のプリキュアたちの物語を作中の後年において絵本にして次の世代に伝えるという語り部の視点を与えて、今作の物語を見守る立場で描いたのは、上手いつくりだったと思います。
ゆえに七瀬ゆいは、小日向未来ポジションのキャラをウチで出すとしたらこうだ! というプリキュアシリーズとしてのひとつの解答として、今後のメルクマールになったのではないでしょうか。
※なお『プリンセスプリキュア』オンエア期間中にはシンフォギアシリーズの3期目である『戦姫絶唱シンフォギアGX』もあったのですが、どういうわけか謎シンクロニシティが頻発、《主人公のメンタルが規定値を下回って変身できなくなる》《誰も変身できない状況下というピンチで声優・東山奈央が演じるキャラががんばる》《物語の山場で、空が割れ、そこから敵の城塞が現れる》などの展開が両作品でカブっていました。そして、加えてやはり共通していたこととして《親子関係が隠しテーマ》も指摘できます。


◎シャットはオネェキャラ敵幹部のニュータイプか??
プリキュアシリーズなどを含めたヒーローものにおいて、敵怪人や敵幹部に、いわゆるオネェキャラの存在を登場させ、悪役として描くことで、そのセクシュアルマイノリティ属性自体を暗に否定的に描いてしまうことがありえる……という問題は従来から危惧はされています。
現実に、テレビ本編では一定の配慮が行き届いていても、遊園地のステージでのキャラクターショーなどの台本では、ズバリ「オカマを嗤いものにする」ようなやり取りが入っているという報告は、近年でも見受けられるところです。
それでも昨今の「LGBTの人権」にセンシティブであろうとする機運の高まりの中では、「男女」に収まらない多様な性を体現する登場人物のあるがままを、決して否定的には描かないほうがスタンダードになってきてはいるでしょう。
『ドキドキプリキュア』に登場した敵幹部・リーヴァも、その外見はわりと典型的なオネェ属性でしたし、しゃべり方もそうしたイメージに合わせたものとなっていました。ただ、にもかかわらず、そのこと自体は誰も何も指摘しない。敵の悪事を舌鋒鋭く口頭で追及するときのプリキュアたちの台詞でも、その行為の非道さ卑劣さには言及しても、リーヴァの為人が「オカマっぽい」ことに対しては完全スルーで、その結果、オネェキャラであること自体は何も悪くないという描写が成立していました。

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そうしたことをふまえて、今作『Go!プリンセスプリキュア』での敵陣営ディスダークの幹部のひとりシャットに着目すると、やはりいろいろ新しい試みだったと言えます。
外見はたしかに「女性的」とされるイメージを数多く纏っています。なかなか細くセクシーなラインの腰つきで、脚には網タイツを着用したりしており、何かにつけ「美」を追求するような価値観を重用します。
途中の回で「ナチュラルメイク」がプリンセスたちの課題になったときには、ひょんなことからプリキュアたちといっしょにメイクのレッスンを受け、期せずして新しいメイクスキルを得ての仕上がりに「これがワ・タ・シ!?」とご満悦になる展開もありました。

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しかし、では典型的なオネェキャラなのかというと、そのステレオタイプは斜め上で捻られており、強いて言えば「ビジュアル系」の範疇で絶妙のバランスにて成立する見た目なのです。声や話法も、特に中性的なしゃべり方というふうにも聞こえず、あえて一般的な男性として自然な範囲にまとめられていたと言えます。
このようなシャットの、典型的にマッチョな男性性の体現者とは正反対なのに、典型的なオカマ描写にもなっていないところには、従来の定石をいろいろ覆すものがあり、結果として前例のないタイプのキャラクターに仕上がるという効果がありました。
そうした登場人物が、ごく当たり前に登場するということが、「男女」に収まらない人だってフツーにいろいろいるし、そんな二元的な性別観にとらわれず、みんな「人それぞれ」で良いのですよという、子どもたちへのメッセージになることもまた、大いに意義があるでしょう。


◎『プリンセス』はセーラームーン先輩との決別宣言だった!
プリキュアシリーズが「プリンセス」というモチーフを前面に出したことの意味を深読みすると、(まずはディズニーへの挑戦状(とりわけ『アナと雪の女王』への)というのはあるにしても)もしかしたら『セーラームーン』への決別宣言だったのかもしれない……という仮説が出てきます。
言うまでもなく東映アニメーション的にはプリキュアシリーズは、『美少女戦士セーラームーン』シリーズの直系の嫡流であると言うことができます。それゆえ、プリキュアシリーズ各作品は、相応にセーラームーン先輩へのリスペクトを示してもいたでしょう。
『ドキドキプリキュア』での追加戦士として登場したキュアエースの変身アイテムは化粧パレット型で、変身のプロセスにもアイシャドウを入れ、リップを仕上げるなどの動作が取り入れられていました。まさに「メイクアップ」そのものです。しかしながら変身をコールする掛け声は「プリキュア・ドレスアップ」。これはやはり「メイクアップ」だとセーラームーン先輩のそれとカブってしまうことを遠慮したのではないかという推理が成立します。
一方で、『セーラームーン』は、90年代当時には画期的で意義深かったかもしれませんが、今日の鑑識眼で視聴すると、いろいろ古いところも多々見られることは以前にも述べたとおりで、その最たるものが、主人公に付与されたプリンセス属性が、戦う美少女戦士という新奇性とは裏腹に、旧来からのお姫様と王子様の物語の枠組みを出ていないところにありました。
特に最近リメイクされた『セーラームーンCrystal』は、そんな90年代の原作コミックを忠実に再アニメ化したということで、今日のプリキュアを見慣れた層から新規視聴者を開拓するためには、そうした古さが目立つという点で非常に厳しい出来だったと言わざるをえません。
こうした経緯を踏まえての、今般の『Go!プリンセスプリキュア』における「プリンセス」の意味付けの書き換えは、かようなセーラームーンにおけるプリンセス描写さえ覆して、プリキュアシリーズがさらなる未来へ進んでいくよという宣言だったと解釈できるのではないでしょうか。


◎「プリンス」の定義を書き換えるのはプリパラが担当だった!!
『プリンセスプリキュア』が始まった当初、カナタ王子ってじつは女性なのでは!? という意見が少なからずあったものです。もし本当にそうなら、プリンセスの定義の書き換えに取り組む作品における、さらなる挑戦的な試みだと言うこともできたかもしれません。
ただ、その後の新情報の開示とともに、どうもソレは違うらしい……となっていき、この説は自然消滅していった形です。
ただ、ちょうどそれと入れ替わるように「この王子様じつは女性!?説」が立ち現われてきたのが、商業的にはライバル番組のひとつである『プリパラ』でした。
『プリパラ』の紫京院ひびきについては、先日もまとめましたが、テレビアニメのほうも、現在は3月までにこの「紫京院ひびき編」に決着をつけるべく、いろいろ動いている最中です。
ただ「《プリンス》が女性であってもかまわない」という前提は、完全に貫かれたスタンスなのは間違いありません。
ひびきが出生証明書上は女性であることや、そんなひびきがプリンスとしてプリンセスを求める行動それ自体は、作中では何も問題にはされていないのです。
特に、ひびきに「最高のプリンス」の称号を与えた「Mr.ユニバース・ワールド・プリンスオブザイヤー」の事務局(!?)が、ひびきが出生証明書上は女性であると明かした後も、別段プリンスの称号を剥奪したとか、そういう何らかのペナルティを実施したという話は出てきません。
つまり作中の世界では公式に「プリンスが女でもよい」ことになっていることになります。
……プリキュアがプリンセスの定義を書き換えてた裏で、プリパラはプリンスの定義のほうを上書きしていたわけですね(もちろん同時にレオナが作中の「プリンセスグランプリ」に参加することで、いわば「プリンセスが男でもよい」とばかりに、こちらもまたプリキュアとは別の意味でプリンセスのほうの定義をも書き換えてもいました)
この「ニッポンの女児アニメ」による、なんという阿吽の呼吸!
これはやはり、まさに革命だったのかもしれません(^^;)


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