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ようこそ美少女動物園へ(または「かばんちゃんには性別がないし、ジャパリパークには性別概念が存在しない」) [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「日本のアニメは《美少女動物園》だ!」といった、誤解と偏見に基づく悪意に満ちた言説は、しばしば聞かれるところです。

この場合《美少女動物園》とは、「男性にとって都合が良い ただ単に可愛いだけの主体性を持たない美少女キャラがたくさん登場し、それをキモいオタク男性が性的な目線で視聴するために作られているようなアニメ作品」といった意味あいなのでしょう。

むろん、そうした批判が妥当する要素が部分的に含まれるケースは、皆無であるとの断言まではできませんが、しかしそれはあらゆるメディアにおける各種表現についても同様であって、ことさらにアニメというジャンルを名指して狙い撃ちするのは穏当ではありません。

(あるいは、タイトルやキービジュアル等について、視聴者への訴求性を上げるための一種の「釣り」として、一見すると《美少女動物園》であるかのような何らかの修辞・修飾が用いられることもあるでしょう。
また主要なターゲット層を絞って制作された表現物であれば、必ずしも万人向けになっていないことはありえることで、ゾーニング等の観点から問題が起きていないのであれば、これもまた認められるべきものでしょう)

その作品がアニメであることをもって、すべからく《美少女動物園》であるとレッテルを貼る行為は、あまりにも雑駁に過ぎると言わざるを得ません。

例えばいわゆるフェミニズムの観点から大いに評価できる点を数多くともなった作品群も珍しくない現状においては、そこのところを正当に評価しないのはむしろはなはだもったいない

仮に問題と思われる描写に出くわしたとしても、表面的に一瞥しただけで全体のありようを決めつけてしまわずに、きちんと総体的な把握をしたうえで、問題箇所のみをピンポイントで指摘するのが公正な批判というものです。
そこをジャンル包括的にアニメ作品群とそのファンを口汚く罵るのは、カテゴリーのみを指標とした属性に対する差別。まさに醜いヘイトスピーチに他なりません。


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※本記事中、画像は放送画面や公式のサイトからキャプチャしたもの

さて、そんな《美少女動物園》というような謂れのない言いがかりに対する、ある種の絶妙の頓知が効いた返答とも言えるアニメ作品が登場しました。

そう、2017年1~3月期の本放送で話題となり、人気を受けた先月半ばの平日毎朝の再放送では夏休み中の子どもたちの多くを夢中にさせた、かの『けものフレンズ』ですね。

公式サイトでのイントロダクションによると、

この世界のどこかにつくられた超巨大総合動物園「ジャパリパーク」。
そこでは神秘の物質「サンドスター」の力で、動物たちが次々とヒトの姿をした「アニマルガール」へと変身――!
訪れた人々と賑やかに楽しむようになりました。
しかし、時は流れ……。
ある日、パークに困った様子の迷子の姿が。
帰路を目指すための旅路が始まるかと思いきや、アニマルガールたちも加わって、大冒険になっちゃった!?

……とあります。

 → アニメ『けものフレンズ』公式サイト


これだけを読むと、たしかに本当にズバリ文字どおり「美少女動物園」な設定ですし、前述の《美少女動物園》だという批判がもしかしたらそのまま該当する内容であるかもしれない疑惑も浮上します。

しかし蓋を開けてみれば、なかなか深遠な舞台設定を背景に、ストーリー自体はほのぼのとした空気感のうちに含蓄のある寓意も織り込んだ、誰もが安心して視聴できる非常に秀逸なエンターテイメント作品として成立しているものでした。

ビジネスモデルの面からは元々は深夜帯のアニメとして制作されたものの、内容的には放送時間帯を問わない内容なのは、朝の時間帯での再放送が子どもたちにも好評だったことからも明白でしょう
(そういう事例は他作品でも多々ありえることであり、今日の多くのアニメ作品が深夜帯放送なのは主としてビジネスモデルの事情によるもので、内容がアダルトかどうかとは実際のところ無関係です)

むしろそのままNHK教育テレビの道徳番組にしてもよいくらいだ……なんていう意見も、あながち大げさではないことは、「互いの得意分野を活かしあってみんなで協力すれば課題は解決する」というエピソードがシンプルに描かれた第5話「こはん」などを見ればわかりやすいです。

無生物系のモンスターである「セルリアン」を除くと、誰も悪意を持ったキャラクターはおらず、アニメ作中では「フレンズ」と呼ばれるアニマルガールたちが、和気あいあいと仲良くする様子を軸に展開する物語には、現実世界の私たちが平和な社会を築いていくためのヒントが満ちているとも言えるでしょう
(主題歌『ようこそジャパリパークへ』では「笑えばフレンズ」「けものは居ても のけものは居ない」などと歌われます[作詞:大石昌良])

そのあたり、詳しくは実際に作品に触れてみるのが最善かと思いますので、ここでは個々の細かい内容紹介は省くこととします。


  


一方、この『けものフレンズ』において、このブログとして特筆すべき点については指摘しておかねばなりません。

いろいろな動物が「サンドスター」なる物質の超常的な作用によって「フレンズ(アニマルガール)」化したキャラクターが大半の登場人物を占める中で、「この子は元は何の動物なのだろう? ……もしかして人間!?」という位置づけで登場するのがかばんちゃん」です(イントロダクション中の「迷子」)。
「かばんちゃん」がヒトならではの知恵を発揮して各回の課題解決を導くプロットもまた作品の見どころになっています。

と、この「かばんちゃん」。
じつはアニメ作中では、なんと一貫して【性別不詳に描かれているのです。

容貌も服装も中性的。
体型には女性っぽい特徴が見受けられるという意見もある一方で、一人称が一般的には男の子が用いるとされる「ボク」。
演じるのは女性声優ですが、声変わり前の少年の役を女性声優が担当する慣習もまた一般的です。

断片的な情報を現実世界の通念と照合して、かばんちゃんが女の子なのか男の子なのか、一定の推論を立てることはできるけども、いずれも反証可能で決定的なものを欠きます。

終盤で明らかになるかばんちゃんの秘密を含めて、制作サイドが持っている裏設定もあるにはあるでしょう。
それでもアニメ作中に表れる描写だけでは、性別は判然としないのです。

そもそも何よりこのアニメ、作中でのかばんちゃんの性別を特定しなくても物語が破綻しないように組立てられています。

たとえかばんちゃんの性別を女の子と解釈しても男の子と判断しても、作品のストーリーを読み解くうえで特段の支障はない。
つまり、かばんちゃんの性別を特定する必要ナシに物語が構成されているわけです。

極論すれば、『けものフレンズ』の「かばんちゃん」には性別がない。
そういうふうに出来ているのです。

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コレはスゴいです。

だいたいにおいてわたしたちは、登場人物の性別を特定しないと落ち着かないというオブセッションのもとにあります。
いわゆる「ゆるキャラ」には公式に性別不詳とされている事例もありますが、人間に近い造形のキャラクターになるほど、そういう措置も困難度が上がるでしょう。

だからこそ、本来は生物学的な性別がないロボット系のキャラクター、例えば鉄腕アトムやドラえもんやアラレちゃんのような存在にも、通常は性別属性が付与されるわけです。

あるいは何らかの形で性の多様性の体現者となっている登場人物が描かれる際にも、性別の基準点としての[男/女]概念の桎梏からは、完全に自由になっているとは限りません。
プリパラのレオナのような先進的な設定の登場人物であってもソコは然り。

その意味で、今般の『けものフレンズ』の「かばんちゃん」は、べつにキャラクターの性別を特定しなくても物語は描けるんだということを、ごくナチュラルにさりげなく示した点で、大いに意義があったのではないでしょうか。


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さらには、動物がサンドスターの作用でアニマルガール化したというフレンズたちも、元の個体の生物学的性別にかかわらず、フレンズ化する際には強制的にもれなく女の子の姿になるという設定だったりします。
それがサンドスターの神秘の力であるという説明です。

それゆえに、その動物のオスの特徴を持った美少女キャラが現出することにもなります。

それもまた非常に性別撹乱的でオモシロイのでありますが、何よりも、フレンズ化した後はもれなくみんな女の子の姿になる……ということは、逆説的に性別がない、性別は重要ではない、どうでもいい。
やはりそういうことにもなります。

……否、あのアニメ作中のキャラクターたちの間には、まずもって「性別」という概念がないのではないでしょうか。

フレンズたちは動物がサンドスターの力で擬人化した意識を持っているにすぎません。
かばんちゃんもまた、突然ジャパリパークに出現した、それ以前の記憶がないために、人文社会系の知識は必ずしも視聴者がいる現実世界の人々と同等ではありません。

そうしてジャパリパーク内には、男女の差異を認知させるモデルが存在しません。
フレンズたちの個体はサンドスターの作用で維持されるサイクルにあるので、生殖もありません(ちなみに食料供給もパークのシステムによってもたらされるので、フレンズどうしで捕食のようなことは起こらない)
これでは誰も性別という概念を持ちえませんし、持つ必要も発生しないではありませんか。

すなわち、フレンズたちが美少女の姿をしている……とはいうものの、それはあくまでも現実世界の視聴者が現実世界の解釈コードに沿ってそのように捉えているにすぎなくて、アニメ作中では誰もそういう認識は持っていないのではないか、ということになります。

しばしば言われる「ドイツ語には肩こりという概念がないからドイツ人は肩がこらない」的な言説になぞらえるなら、誰も性別という概念を持たなければ、誰にも性別はないわけです。

社会的には性別・性差は対人関係の中で他者がそう認識してはじめて成立する……という観点は、今こそ重要なものとして顧みられたいところです。


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性別二元論や異性愛主義から距離を置いたアニメは今どき多々あるとはいえ、それでも性別概念自体は存在する世界観なのが通例です。

そんな中で、この『けものフレンズ』が、性別概念なんてナシでも物語は支障なく描けると示したことは、現実世界の社会生活では性別から逃れることが難しい中では、やはり非常に有意義だったと思われるのですが、いかがでしょうか。


◇◇


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共通テーマ:アニメ

障害者だけが事前連絡を強いられるのは差別 [経済・政治・国際]

いわゆる車椅子のユーザーなどに対して「身体に障害を持つ人々」などと言い表すのは非障害者側の欺瞞であって、身体障害者がさまざまな制約を受けているのは、非障害者側が多数派の基準で社会の枠組みを作ってしまっていて、各種のインフラストラクチャーもそれに沿って整えられているために、そこからは想定外となっているせい……というようなことは前から言っているとおりです。

いわば「障害者」とは社会がその人たちに対して《障害物》を設けてしまっている、そういう人々なのです。

※なお、障害者の「障害」とは本人に内在するのではなく社会の側に置かれた障害物だという観点から、私は「障害者」の《害》の字は漢字で書く派です。
運動会のプログラムに「障がい物競走」とは書かないのと同じですね。
というか、非障害者のほうを「健常者」と言い表すほうがよほど傲慢な用語法であって問題だと思います。


【参考】
佐倉ジェンダー研究所web本館/太陽の塔は女か男か!?
#15 トランスジェンダーと障害学
~「障害者用トイレ」からノーマライゼーションを考える
http://tomorine3908.my.coocan.jp/sun-tower/015.normalization.htm
(全文は『性同一性障害の社会学』所収。…大トリです)

 


同時に、そうした状況下で障害者が差別されるのは、多数派の基準から外れることを社会的に逸脱行為だと受け止められるのに起因することにも留意が必要でしょう

(その意味では、性的少数者とも同じ軸線上にあると言えます)

大事なのは、いわゆる障害者をはじめとするさまざまなマイノリティの存在を想定に入れた制度設計であり、多様な存在を包摂できるシステムあり、誰もがありのままで受容され居場所がある社会にしていくことなのです。

【参考】
エスパーとセクシュアルマイノリティは、そもそも……
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2009-03-12


昨今はバリアフリーも進展し(多くの一般の人々の意識がいまだついてきていない、すなわち「心のバリアフリー」には今なお課題が残っているのはさておいても)一昔前にくらべれば「障害者が普通に」街へ出て行動することへの障壁も下がりました。

障害者をサポートする設備や人員面での公の態勢も、相応に整えられてきていると言えるでしょう。

ただ、まだまだ不十分で道半ばという側面も少なくはないかもしれません
たまに何か問題が起きてニュースになるのもそのあらわれでしょう)

特に、公共施設・公共交通機関などでも、障害者が利用する際には事前の連絡を要するというような運用はしばしば見られるところです。

たしかに現状での妥協点としては「きちんと対応しますから《事前連絡》ください」というのは、順当な落としどころではあるでしょう。

現実としてイレギュラーな対応が行われる以上は、いわゆる「おもてなし」から安全確保などまで含めた万全の準備で迎えるためには、あらかじめ情報が入っているほうが現場としてはやりやすい。

あるいは、事前連絡さえ不要なように常に盤石の体制を整えておくためには相応のコストがかかります。
そのための費用を誰がどのように負担するのかという点には議論の余地もあるでしょう。
別のところで望まれている何かの予算を削ってでもこちらに回すだけの優先度があるのかどうかも、そうした他のニーズとの兼ね合いで相対的に決まってくるものです。


しかしそれでも、そうした現実とすり合わせて妥協点を探った対応というのは、あくまでも本来は「事前連絡」なども含めて障害者だけが通常なら必要ない・求められない余分な労力を強いられるのはやはりノーマライゼーションの理念からすれば好ましくないし、差別につながる……ことを誰もが認識したうえでの暫定的措置であるというのも大前提なのは忘れてはなりません。

本来は社会全体で公平に分担すべきコストを「事前連絡」の現場にだけ押し付けるというのは甚だ不公正なことでしょう。
現状やむを得ずそうした運用にしていることについては、遺憾の意を共有するのがこの社会を構成する者の責務だと言えます。


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§画像はイメージです
(アニメ『結城友奈は勇者である』主題歌「Aurora Days」ジャケットのスキャン)


さて、そんな中で、先日依頼を受けて講師をした講演会では、いわゆる聴覚障害者向けの手話通訳がありました。

これはもちろんもう初めてのことではなく、今までにも手話通訳を必要とする人が参加する場合には主催側がきちんと対応して準備を手配するケースは、何度となくありました。
多様な人の存在に合わせて必要な措置をとるという観点からは当然のことでもあります。

とはいえ、演者としては気を使うのも一面の事実。

あまり早口にならないように注意を払ったり、手話で表現しにくそうな話題は避けるとか……。

「ちっ、面倒だナ;」

私も人間がデキてないので、ついついそう思ってしまおうという誘惑には苛まれます。

ハイ、しかしソレこそが多数派特権!

自分がその要素については世間一般の「普通」の基準に当てはまっている側にいるからこそ抱ける感情に過ぎないんだぞという自覚は忘れないよう肝に銘じないといけません。


というわけで、手話通訳担当の方と打ち合わせに臨むことになります。

なんのかの言っても講演テーマが「LGBT」「セクシュアルマイノリティ」「性の多様性」……といった比較的新しい概念だとなると、いろいろやはり大変ではあります。

しかも私が、単純に「性同一性障害とは心と身体の性別が一致しないこと」みたいには言い切らない人なので(できるだけ「そもそも性別って何だ!?」みたいな方向に持っていったり)、そのせいで「いわゆる」がやたら増えたりと、微妙なニュアンスを込めた言い回しなども少なくありません。

なので打ち合わせは必須なのですが、私としてはいつも手話通訳担当の方々には恐縮するところなのです。

あるときの手話通訳担当の人は、
演者の人がどのようにお話になっても、それを的確に手話に直すのがワタシたちの仕事ですから、どうぞ何も気にせずに喋ってください
 と仰ってくださったのですが、思わず脳内で『プロフェッショナル 仕事の流儀』風のPVになって再生されたのは言うまでもありません。


そんなこんなで、ひととおりの打ち合わせを終えた後、同席していた主催側の担当者に、私は念のための確認として訪ねました。

「え~とちなみに今日は手話通訳を必要とされる方は何名くらい来られるんですか?」

すると……

「わかりません」

「えっ、え…??」

事前申し込みは不要にしてますので」

「……ソレってつまり、手話通訳が必要な方がいきなり来ても大丈夫にしてるってことですか!?」

「はい」

にゃんですと~っ!!

バリアフリー対応はそれなりに進んだこの2010年代にあっても、いまだ要《事前連絡》がスタンダードな中で、これはなんという先進性!

誰であれ、事前連絡のことを気にせずに思い立ったら参加できるというのは、ノーマライゼーションの理想形態。
それが実現されているというのは、現状ではなかなかスゴイことです。

もちろん、言い出したら「必要なのは手話だけか」という指摘もありえましょう。
実際、英語への同時通訳なども、もしかしたらニーズがあるのかもしれません
(幼児の保育についての事前予約の要否などは確認しそびれました)。

また、手話通訳に常時対応できる態勢を維持するためのコストを考えれば、限られた予算配分の中で、どこが削られてこちらに回ったのか、その妥当性などは議会の予算案審議の場などで議論が必要でもあるでしょう。

それでも、その志やヨシ(*゚∀゚)ノ

こうした取り組みは、将来へ向けた、社会のユニバーサルデザインのひとつのモデルケースとして、高く評価されるべきではないでしょうか。


◇◇



都会が苦手な人必見の裏技! 谷町線から御堂筋線にラクラク乗り換え!! [経済・政治・国際]

大阪市内を移動するなら、市営地下鉄が密度の高いネットワークを形成しており、まさに公共交通の面目躍如と言ってもよい利便性となっています。

道路の渋滞に悩まされることもなく、土地勘がない来訪者にとっても、わかりやすい路線構成は利用しやすいものなのではないでしょうか。




ただ、そうは言っても大都会
ターミナル駅で郊外路線から乗り継ぐ場合などは、巨大な駅の複雑な構造の乗り換えルートに戸惑うことも少なくありません。

悪名高い「梅田ダンジョン」は、大阪府民ではあっても大阪市民ではない私のような郊外民に対して容赦なく新しいトラップを知らぬ間にアップデートして待ち構えています。
運が悪いと阪急梅田駅から出ようとするところから罠に引っかかりかねません。

梅田と並ぶ巨大ターミナル「なんば」でも、おおむね事情は同等です。
地下鉄御堂筋線と南海電車の駅の間の、あのものすごい高低差の乗り換えは、もはや何かの罰ゲームだとしか思えません(^^;)。

そして、それに類することは場合によっては市営地下鉄の路線どうしの乗り換えでも起こりえます。


大阪の地下鉄として最初に開業した御堂筋線は、今でも市内中心部を通って南北を結ぶ大動脈の座にあります。

官公庁街の地下をくぐって南は八尾市の「八尾南」、北は大阪モノレールとも連絡する守口市の「大日」と、両端が大阪市外まで伸びる谷町線もまた、それに次ぐ重要路線でしょう。

これら2路線の間を乗り継ぐというシチュエーションは往々にしてあるのではないでしょうか。

例えば谷町線の「大日」から御堂筋線の南の終点「なかもず(中百舌鳥)」まで行くことになったとしましょう。

素直に考えると乗り換えポイントは公式に案内されている2ヶ所。

ひとつは「天王寺」。
ここでは両路線が交差しています。

ただやはり別路線のホームをつなぐ駅構造はいささか入り組んでいます。
そがゆえに、ちょっと長めの&殺風景な改札内連絡地下通路を上ったり下りたりしないといけません。
これは精神的にちょっと負担感がありますし、地味に体力も削がれます。

それではもうひとつの乗り換え候補駅はどうかというと、コチラはもっと大変です。
東梅田」→「梅田」と、まさしく梅田ダンジョンの只中に身を投ずることになってしまいます。

この「東梅田」「梅田」両駅(と四つ橋線の「西梅田」の計3駅)は乗り換えの面では同一駅として取り扱われるものの、物理的な都合から実際の駅構造は名前のとおり別々の駅になっているので、乗り換えはいわゆる改札外乗り換えなのです。
谷町線の改札をいったん出てから御堂筋線の改札口をめざすために、あの人で溢れる梅田の地下街をかき分けて進まないといけないと想像しただけで、郊外民は疲労困憊になってしまうというのは、あながち過言ではないでしょう。

では、どうするか?

そこで路線図をもう一度よく見てみると、何やら谷町線の「文の里御堂筋線の「昭和町が、ずいぶんと近接しているように書かれています。

むろん模式図は実際の位置関係を表していないこともありえますが、ここをきちんとした地図で再確認すると、なんと両駅間は本当に徒歩圏内にあります。
だいたい200~300mくらい!?

その距離なら天王寺や梅田での乗り換えルートと、そんなには変わりません
むしろ、地下の改札内通路を上ったり下りたりさせられたり、人波の梅田ダンジョンをもがきながら歩くよりは、ずっとラクなのではないでしょうか。

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ということで、まずは谷町線「文の里」駅の最も八尾南側である7番出入口から地上に出ます。
すると阪神高速の高架下のこのような通路に出ます。

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その突き当りを、右手のアーケードの商店街へと進みましょう。

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アーケードの商店街をまっすぐ抜けてそのまま進んでいきます。
そうすれば、やがて片側2車線の車道がある大きめの道(あびこ筋)に出ます。

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それに沿って今度は左へ進むと、ほどなく地下鉄の入口らしきものが見えてきます。

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ズバリそこが御堂筋線「昭和町」駅の北改札口へ下りる階段(1番出入口)です。

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……なんともあっけない!

地図で見ても、コレだけのことです(線ルート)。

ちなみに、帰りはこの昭和町駅1番出入口を上がってきたら、すぐに右手の路地に入って、ほどなく交差する商店街のアーケードの道へ左折するのが迷いにくいと考えられます。
アーケードの道の突き当りを右へ曲がって少し行けば、文の里7番出入口に至ります(線ルート)。

 BL170612mapE.png

※商店街のアーケードの道を淡くピンクで色づけておきました


コレは絶対にラク♪です。
天王寺や梅田での乗り換えよりもオススメのルート決まりでしょう。

大阪の下町の風情を味わいながら少し歩けば乗り換えができてしまうのですから、地下道・地下街であっぷあっぷするよりは断然に快適。
商店街(どうしても昨今の情勢からシャッターは目立ちますが)の肉屋さんの店頭では揚げたてのコロッケも売られていたりします。

都心での人混み酔いが心配な郊外民にとっては、もはや一択とさえ考えられます。


◎文の里駅の4番出入口のほうを利用すれば、あびこ筋沿いに歩く一本道でよりいっそうわかりやすいという考え方もありますが、当記事では【郊外民がアウェイ感を感じずに落ち着いて歩ける】ことを主眼に上記ルートを推奨しました
(「片側2車線の車道がある大きめの道」自体が郊外民には都会体験になりえますので、それがなるたけ少なくなるように)。
距離は同等です。


とはいえ、ひとつだけネックがあります。
それは ¥¥運賃¥¥

この文の里→昭和町は、物理的にも一度改札口を出てまた入り直す改札外乗り換えの体裁をとることになりますが、東梅田→梅田のように正規の乗換駅とは設定されていないので、運賃計算は打ち切られて、初乗り運賃をそれぞれの乗車に対して支払うことになり、合計金額が割高になってしまうのです。
要は書類上は《乗り換え》ではなく、各々独立した2つの乗車だと取り扱われてしまうわけですね。

実際、大日からなかもずまで素直に乗れば370円。
ところがこのルートを採ると、大日から文の里が320円、昭和町からなかもずが280円で、なんと合計600円(゚∀゚)!
 ※各片道

う゛~む;
この差はちょいとばかしデカいですね。


しかし!!
その問題をクリアする方法も、さほどの難なく発見できます。

そう、定額で1枚購入すれば当日中は乗り放題の1日乗車券

大阪市交通局では「エンジョイエコカード」という名前で販売されており、これが大人1枚800円。
これで往復するのなら、370円×2とも、そんなに大きな差ではなくなります。
もしも帰りに地下鉄沿線のどこかに立ち寄る用事があったりするのなら、その正規運賃は軽く総合計800円を越えるので完全におトクになります(いくつかの美術館・博物館などの料金が割引になる特典も「エンジョイエコカード」の提示で受けられます)。

しかもこの「エンジョイエコカード」、土日祝なら600円(子ども料金なら全日この半額の300円)
それなら仮に素直なルートで往復するだけよりさえも安上がり。



というわけで、この公式には案内されていない乗換ルートと1日乗車券の合わせ技。
機会が巡ってこられた方は、ぜひ検討してみてください。

何事につけ、「これしかない」と思い込まずに、創意工夫アイデアを具現化することは、かように人生をラクにすることに資するのではないでしょうか。


◎冒頭で述べたような阪急や南海などと地下鉄の間を乗り換えるのも、都心部に不慣れな郊外民はできるだけ梅田やなんばターミナルでの乗り換えを避けるのがコツです
(ソコ自体に用事があったりする場合はしょうがないですが)。
例えば、阪急京都線の高槻市あたりから南海電車沿線へ行く場合なら、(阪急「淡路」で梅田方面行きとは分岐し)「天神橋筋六丁目」経由で相互乗り入れの地下鉄堺筋線に直通して、その終点の「天下茶屋」から南海に乗り換えるルートを使うのがスムーズです。

◎このほか乗り換え駅の検討には「始発駅から乗るほうが座りやすい」「快速停車駅でないと後が不利」といったファクターもからんでくるので、むろんそのあたりも勘案して決めることになるでしょう(あと「バリアフリー」とかも…)。
ちなみに大阪の地下鉄は基本的にすべて各駅停車です。


◇◇
◇◇


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