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[2:女の子がなったものがプリキュアである]女の子は誰でもプリキュアになれるのか? [メディア・家族・教育等とジェンダー]

女の子は誰でもプリキュアになれる」。

それは前記事で見たように、ある意味では真でした。

「誰でも」の「誰」が性別で限定されるモンダイについても、さまざまな方策が試みられている中では、引き続きの検討課題として見守っていくものということになりましょう。

まぁ個人的には、プリキュアに魅了され、プリキュアのスピリットを我がものとしながら、その志を実践しようとする者を、ここでは「女の子」と呼んでいるのだ……というふうに読み替えてかまわないのではないかとも考えます
(てなわけで以下の記事中でも基本的にそういう方針で書き進めますねノ)。

しかし、本当にリアルな現実世界で、プリキュアに憧れる体験を経た子どもが、将来においてアニメの中のような変身ヒーローとしてのプリキュアになれるかというと、実際のところは難しいのも事実です。

中学生・高校生となった暁に、ある日通学路の途上で異世界からやってきた小動物のような容貌の妖精と出くわし、それがきっかけで◯◯王国の危機を救うために伝説の戦士になって悪者が遣わした異形のモンスターと戦いご町内の平和な日常を守ることになる……なんてことが、そうそうあるという話はとんと聞きません。

その意味であれば、「アニメに出てくるような変身ヒーローとしてのプリキュア」になれる人など誰もいません、という甚だ夢のない結論が出てしまいます。

まぁ、現実ってそういうもの。

でも、それじゃぁ、幼少のみぎりにプリキュアに憧れた体験というのは、ただ単にそれだけの、子ども時代の夢物語なのでしょうか?

結論から言って、それは違います

子ども時代にプリキュアに憧れ、毎週のアニメを楽しみ、そこから何かを得た子どもたちが、それを心の糧としながら、将来において何かになるということは、ままあることでしょう。

そんな、プリキュアに憧れた体験を通じて得たものを触媒として、かつての子どもがなったもの、それこそが現実世界における「プリキュア」の実像なのではないでしょうか。

すなわち、「女の子は誰でもプリキュアになれる」というのは、リアルな社会での様相に即して換言すれば「女の子がなったものがプリキュアである」なのです。

そう考えれば「女の子は誰でもプリキュアになれる」も、あながち子どもに向けた「優しい嘘」だとは言い切れないものを内包しているということになります。


え? イマイチ具体的なイメージが湧かない??

それでは「プリキュア」シリーズよりは、もう少し「実際になれそうな」題材を描いたアニメの事例をひもときながら見ていきましょう。

例えば典型的なのはアイドル

『プリパラ』の名前は前記事でも出ていますが、こうしたアイドルアニメにおけるアイドルの意匠や瞬間衣装換装の演出が、アニメ表現上はプリキュアと地続きであることは、昨年「マクロスΔ」の論考「『マクロスΔ』の三位一体とケアの倫理の可能性」で触れたとおりで触れたとおりです。

一般的に考えれば、プリキュアに憧れるのと同じように女の子たちがプリパラアイドルに憧れ、なってみたいと思うだろうことに、相当の連続性があるのも容易に理解できますが、少なくともアイドルという大きな枠組みにまで視野に入れれば、それは現実になることができる職業として実在しています。


これがまさにプリキュア的な戦いであることも前掲「マクロスΔ」論考に述べたところであり、ここでもプリキュアとアイドルの間には連続性が見られます。


 


さらに、この2017年7月からのアニメ作品には、こうしたラブライブ的な「アイドルとしての戦い」としての1バリエーション譚と言える作品も登場しました。

それが『アクションヒロイン チアフルーツ

公式サイト(→ http://www.tbs.co.jp/anime/cfru/ )によると、

とある地方都市が企画した小さなお祭りから(中略)「ご当地ヒロイン」ブームが各地で巻き起こった。その勢いで「ふるさとヒロイン特例法」が成立し、各自治体がステージショーをプロデュース。(中略)「アクションヒロイン」は子供から大人まで愛される憧れの存在となっていた。
フルーツ産地ののどかな地方都市『陽菜野市』はその波に乗り遅れていた。
陽菜野高校3年の城ヶ根御前は危機感を募らせていた県知事の叔母に「アクションライブ」をプロデュースするよう唆される。
とまどう御前だが、「アクションヒロイン」を成功させ、この街に活気を取り戻し、祖父が建設に尽力した文化ホールの閉館を覆すために、立ち上がる!

……が物語の発端として説明されており、そこから仲間が集まり、「アクションヒロイン」としてのステージショー(アクションライブ)に取り組んでいく様子が描かれていくわけです。

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※本記事中、画像は公式の配布画面からキャプチャしたもの


要は、ステージ上で演じるヒーローショーとしてプリキュア的な演目を女性がおこなうのが盛んになっているという世界観のもとで、女子高校生たちが自分たちの住む町の振興のために奮闘するというのがストーリーのアウトラインを成しているものです。

こう見るとまさに『ラブライブ!』の「スクールアイドル」をプリキュア的なヒーローショーである「アクションヒロイン」に置き換えた作品だと受け取ることもできます。
まずもって、ステージパフォーマンスである点は同じです。

「廃校」に直接的に対応する項目として「文化ホールの閉館」も用意されていますし、作中では全国のライバルチームの活動がインターネット上でランキングされており、それを確認して自分たちの順位に一喜一憂する様子などは、いわば今風な必然として共通していたりもします。

そのうえで、、自分たちにとっての守るべき日常を営む場所を、学校という枠から少しスケールを広げて、寂れた地域経済の危機に置いたところがオリジナルなポイントかもしれません。
町おこしが使命とは、じつに現実世界の実状に寄り添ったリアルなテーマです。

そうして、作中では主人公らが結成したチーム「チアフルーツ」が、ステージ上でアクションヒロインとして上演するアクションライブショー『聖果戦士ヒナネクターの内容に着目すれば、これはもうまさしくプリキュアなのです。

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各々のメンバーの個性に応じた赤、青、黄などのパーソナルカラーに色分けされた変身美少女戦士が力を合わせて悪と戦っていく台本は、現実世界の遊園地でのプリキュアショーで子どもたちが大興奮するがごとく、作中の観客の子どもたちにも大人気で、客席からは熱い声援が送られるところとなっています。

その意味で『アクションヒロイン チアフルーツ』は、プリキュアの1バリエーション譚でもあります。

また、現実世界ではプリキュアシリーズと戦隊シリーズの内容がクロスオーバーし相互作用を及ぼしつつ、実質的な内容の差異がない状態になってきている現状にありますが、そのあたりも織り込まれています。

作中での『聖果戦士ヒナネクター』の内容は直接的にはプリキュアっぽいわけですが、同時に戦隊ヒーローっぽい雰囲気もまた上手に統合されています。

客席の子どもたちも性別を問いません。
アクションヒロインが国民的人気という世界観のもとで、それが女性が演じるものだから女の子向けだとは、必ずしも思われていないというのは、非常に好感が持てる世界設定です。

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そもそも前記事で述べたとおり、「ヒロイン」という語は私たちの現実世界ではシンプルに「ヒーロー」の女性形の意味ではなく、主人公であるところの男性ヒーローの恋愛相手、補助・ケア役割、およびときどき敵の人質にされる役回りというニュアンスを付与されてきました。

それゆえに、プリキュアのような「女性のヒーロー」を言い表したいときには《戦闘美少女》《バトルヒロイン》《ガールヒーロー》などの修飾を伴った表現が必要でした。
《魔法少女》にそうした定義を与えて用いていこうとするややこしい流れも発生します。
ちなみにワタシは近年では熟慮の末《変身少女ヒーロー》と言い表すようにしています。

ところが『アクションヒロイン チアフルーツ』の作中では、本当に「ヒロイン」の語が単純に「女性のヒーロー」を意味するものとして使われているようなのです。
フィクション作品の世界観を通して、こうした定義の最適化が図られるのは意義があることでしょう。

誰もが「女性のヒーロー」に特段のバイアスは皆無にあたりまえのものとして受け止め応援している。
アクションヒロインが子どもから大人にまで大人気という世界観は、こう考えるとなかなか深いです。

過去の男性主人公の特撮ヒーロー作品へのオマージュと解せる小ネタが、こうした変身少女ヒーローもののバリエーション譚にふんだんに盛り込まれているのも、ある種の歴史の総括としての機能を果たしているかもしれません。

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ともあれ、作中のこうした世界観が、視聴者に違和感を与えることなく構築できることには、視聴者が暮らす今日の現実世界においてプリキュアシリーズが存在していることが大きく寄与しているのは疑いありません。

チアフルーツ作中は20XX年という設定のようですが、仮にこの2017年であっても、たいていの高校生の年頃というのは、保育園・幼稚園のころからプリキュアを見て育ってきている世代です。

そういう世代感覚の女子高校生たちからすれば、学校の部活のノリで取り組むアクションヒロインの活動内容がきわめてプリキュア的であることは、まったくの自然なことであって不思議はありません。

作中での大人世代も含めた観客や町の人々がフツーに受け入れるのもまた然り。

となると、この『アクションヒロイン チアフルーツ』は、幼少時にプリキュアのアニメを視聴しプリキュアに憧れた子どもたちが、長じて高校生となった時点で実際に「プリキュアになった」様子が描かれたアニメ……だと言うにふさわしいということにもなるでしょう。

これをロールモデルとすれば、女の子がプリキュアになる未来は、まさに今こうして実現するものなのです。


  


そんなわけで「女の子は誰でもプリキュアになれる」を「女の子がなったものがプリキュアである」と再解釈し、アイドルアニメなどを補助線に当てて「現実になれるプリキュア」とは何かと考えたとき、わかりやすい具体例としては、やはり何かステージ等にかかわる職業ということになるでしょうか。

アイドルも該当するでしょうし、遊園地のプリキュアショーの関係者などもかなりビンゴです
(着ぐるみに入ってヒーローとしてアクションをこなすスーツアクターなら、実際のところ男性も多いはず)

あとは声優になってプリキュア役を務めるなどとなれば、ほぼそのものズバリ「プリキュアになった」ことに限りなく近似しているでしょう
(近年では毎年プリキュアの新シリーズの声優が発表された際、若手キャストの中には「子どものころプリキュアに憧れていた……」とコメントする人も実際にいる)

このように比較的万人に納得してもらいやすそうな例だけでも「プリキュアになった」と言える職業はあるものです。

やはり「女の子は誰でもプリキュアになれる」のです。
そこに、かつてプリキュアシリーズを視聴して得られた何かが生きている限り――。


しかし、この上述したような比較的万人に納得してもらいやすそうな職業以外だと、「プリキュアになった」とは言いづらい危惧はある……という意見は出てくるやもしれません。

まぁ真面目に考えればそれもまた現実。
はて、ソコはどうしたものでしょう。

この点、次記事にてもう1例のアニメ作品を見てみることで掘り下げたいと思います。


◇◇


§加えて、「女の子は誰でもプリキュアになれる」の「誰」に身体障害者は含まれるのか? モンダイについて、『アクションヒロイン チアフルーツ』は一定の展望を示していました。
以下は、その点に関連してツイッターで述べたもの。



◇◇


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[1:男の子プリキュアへの中間回答]女の子は誰でもプリキュアになれるのか? [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「女の子は誰でもプリキュアになれる」。

元々は2012年3月公開の劇場版映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち』のキャッチコピー的な位置づけの言葉でしたが、その後も1映画タイトルの枠を越え、プリキュアシリーズ全体に通底するコンセプトとしても通用している言葉です。

番組を提供しているスポンサーの立場からすれば、テレビの前のチビっ子たちが「自分もプリキュアになれるかも!」と思ってくれるほうが関連商品の売上が伸びて都合がいいのです………などと言ってしまうと身も蓋もないですが、他方、子どもの発達課題として、テレビのヒーローに憧れ、自分もなってみたいと夢想する体験は、いろいろ得られるものも多く、望ましくもあるでしょう。

プリキュアシリーズ各作品の内容もまたそれに応えていて、各作中でプリキュアに変身することになる登場人物もバラエティに富んだチーム編成になっています。

見る前に跳ぶタイプの元気印を筆頭に、知性派お嬢様、武闘派や体育会系、引っ込み思案にツンデレさん……。

いろいろなキャラクターに、さまざまな個性が揃っているので、これならテレビの前の個々のチビっ子がどんな性格であれ、たいていの子には、その感情移入先として対応できるというものでしょう。

また、主人公らがプリキュアになるきっかけも、ひょんなことからしかるべき場面に出くわし、そこで「友だちを助けたい」とか「大好きなものを守りたい」といった気持ちを体現することに由来するのが、シリーズ各作にあてはまる通例となっています。

作劇上は番組開始時点で誰がプリキュアになるかは決まっているとはいえ、物語世界の中では、決して「前世の因縁」などによってすでに運命づけられていたりするのではなく(この点は「セーラームーン」先輩にくらべたときにプリキュアシリーズが進化していると言える大きなひとつでもあるでしょう)、あくまでも本人の行動が決め手となり、かつ本人の意志で主体的に選び取ったものとして描かれているのです。

すなわち、プリキュアになれるかどうかは、個々人が心に持っている気概、ないしは日頃からの心がけのようなものがポイントとなっており、これは誰にでも可能性があるものです。

こうした点は基本的に現在放送中の2017年度の最新作『キラキラ☆プリキュアアラモード』にも、もちろん継承されています。


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※本記事中、画像は放送画面や公式のサイトからキャプチャしたもの


そうしたことゆえ、やはり作品を視聴している子どもたちもまた、自分のココロザシしだいでは自分もまたじゅうぶんにプリキュアになれると考え、そのことが作品内容を通じて否定されることはないという仕掛けになっているのです。

まさに、プリキュアに憧れる子どもたちには、誰でもプリキュアになる可能性が保障されているわけです。

ただひとつの、重大なモンダイを除いては――。

そう、「女の子は誰でもプリキュアになれる」とはいうものの、「女の子は」と言ってしまっていることによる、じゃあ例えば「男の子はプリキュアになれないのか!?」案件ですね。

 


もちろん、そもそも30年ほど前には基本的に女の子はヒーローになることから排除されている状況にあったことは踏まえられなくてはなりません。

息をするようにプリキュアシリーズを見て育った今の若い人にはピンとこないのかもしれませんが、当時のテレビの子ども番組では、変身して悪者と戦う主人公は男性に限定され、女性の登場人物はその周縁に存在するのみに留められるのが常識だったのです
(首尾よく5人チームの1メンバーとして入り込めたりしても、他の男性メンバーよりは一段低めに置かれるなど、実質的には同様の問題がありました)。

そんなこともあって、本来の語義的には「ヒーロー」の女性形である「ヒロイン」は、シンプルに「女性のヒーロー」を意味することにはならず、根本的な役割・物語中での存在意義が異にされていたという事実も見逃せません。

ありていに言って男性主人公の恋愛相手として意味づけられ、主人公の補助・ケア役割を担い、作劇上はしばしば敵に捕縛されて人質となりヒーローの足手まといになる役目を負っている、それが「ヒロイン」というわけです。

そういう状況は、21世紀の今日にあっては、ずいぶんと覆ったものです(そんな変革に至るプロセスにおいて「セーラームーン」先輩が果たした功績の大きさは正当に評価されないといけません)。

建前上は男の子向けとして制作されるヒーロー作品――戦隊ヒーローや仮面ライダー、あるいはウルトラマンなど――にあっても、今ではプリキュアシリーズで定石となった諸設定を逆輸入するなど、相互作用は小さくありません。
変身アイテムや武器アイテムの本質的な相同性や、ストーリーについても然り。

ただそれでも戦隊ヒーロー・仮面ライダー・ウルトラマンなどが、過去のフォーマットを改廃しきれずに、いまだに男性中心の構造をまとったまま続いていることもまた否定はできません。

現実世界の全体像に目を移せば、今なお女性を周縁化しようとする権力構造は社会の主流です。

そんな中での、いわばアファーマティブ・アクションとして、プリキュアのような女子限定ヒーロー番組は、たしかに現在でも存在意義を有しているのです。

そこを理解せずに「戦隊ヒーローには女性もなれるのにプリキュアが女子限定なのは男性差別!」などと叫ぶのでは、短絡的な女性専用車両叩きと同様に、あまりにも狭い視野での議論だと言わざるをえないでしょう。


しかし、そうは言っても《プリキュアに憧れる男の子》は、すでに現実にいます。

そこを「プリキュアは女の子だよ。男の子には戦隊やライダーがいるでしょぅ?」とばかりに性別を基準に仕分けして、そうした子たちの願いに応えないのもまた、ジェンダー規範に立脚して人を抑圧する構造であり、それを無批判なまま採用し、改革しないでいるのも不誠実なことです。

プリキュアシリーズも、ここまでこの点から逃げずに、いろいろな取り組みはしてきたのは認められるところです。

女の子が男性に頼らず自分たちでがんばるというアファーマティブ・アクションとしての意義を損なわずに、作中にどのように男の子たちを配置するかの工夫には、いろいろと苦心の跡も見て取れるというものです。

それでも2017年現在、やはりいろいろ難しいのでしょう、男の子がテレビシリーズ本編のレギュラー枠でフツーにプリキュアになるケースは、(『俺、ツインテールになります。』のように)変身したら性別が変わるような方策や、あるいはプリキュアへの変身者が男の娘であることも含めて、いまだ実現していません。

せいぜい、ハートキャッチプリキュアでキュアサンシャインに変身する明堂院いつきが普段は男装をしているというのが、性別撹乱的な前例として数えられるていどです。

 


ただ、この2017年度、この明堂院いつきの新たなる進化形が登場しました。
最新作『キラキラ☆プリキュアアラモード』の主要登場人物のひとり剣城あきらです。

その変身後の姿である「キュアショコラ」ともども、見てのとおりとても中性的で性別不詳感が漂っていま……

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………と言うよりは、むしろ非常にボーイッシュなキャラ造形で、積極的に男性であると誤認させようという方向性です。

演じる声優として元タカラジェンヌ男役の森なな子が配役されているのも、そういう制作側のねらいを反映していると推察可能です。

普段の服装も基本的にボトムはズボン。
私服ばかりか、他のメンバーとお揃いとなるべきパティシエ服もまた1人だけそうなっています
(他にも茶席で着物を着るシチュエーションや、海水浴での水着描写でも、あからさまに女性性を表象する装いは避けられている)。

学校のシーンでは所定の女子制服を着用していますが、そのスカート姿に激しく違和感を禁じ得ないのは、『プリパラ』のアニメでのレオナ・ウェストの男子制服姿と双璧を成すレベルでしょう。

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作中では実際に、筆頭主人公・宇佐美いちかから出会った当初はイケメンお兄さんだと間違われていたりもしました。
あまつさえ、あまりのイケメンぶりに軽く一目惚れ状態になっていたのが、ほどなく女性だと判明して「失恋」する展開も形式的には用意されていましたが、そこは2017年仕様、同性どうしの恋愛が自動的に否定されるような描き方にならないように最大限に配慮されていたのには、時代の進捗が伺えます。

加えて、キュアマカロンに変身する琴爪ゆかりと並んでいると、道行く人々等からはゆかりの「彼氏」だと認識されるという描写も複数おこなわれます。
いやはや「異性愛/同性愛」という軸線すら揺らぎますね(*^^*)。

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あきら自身、「よく(周囲からは男性だと)間違えられる」と説明していますが、その口ぶりはまんざらでもない様子で、「男っぽいこと」「女っぽくないこと」がコンプレックスになっているといった因習的な設定は取り入れられていません。

むしろ、自分はありのままの自分でいるだけなのに、見た目を根拠に勝手に性別を判断し、
それが生物学的な根拠と異なることに無駄なリアクションをおこなう周囲のほうが悪い……というスタンスでいるふうです。

明堂院いつきには、ある種のイクスキューズとして採用されていた「家庭の事情によって男装している」「じつは女の子らしいカワイイものが好き(だけどソレを我慢している)」といった設定もまた今般は導入が見送られています。

まさに【トランスジェンダーに理由は必要ないし「本当の性別」は存在しない】が、プリキュアシリーズにも採用された形になっており、おそらくは直接にはライバル番組である『プリパラ』におけるレオナ・ウェストや紫京院ひびきについての取り扱いを、制作側が相当に念頭に置いたのではないでしょうか。


  


そんなこんなで、この剣城あきらは、性別越境的な属性を持つプリキュア変身者として、相当に新しいキャラとなっています。

これは制作側が「男の子はプリキュアになれない」モンダイに対して、現時点において可能な範囲で最大限誠実に応えたものと捉えてよいでしょう。

すなわちキュアショコラは、プリキュアシリーズの枠内での「男の子プリキュア」のありようとして、現時点で暫定的に示された、中間回答のひとつだと言えるでしょう。

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さて、ということなので「男の子はプリキュアになれない」問題については一旦ここで置くとして、ではそれなら女の子なら本当に「女の子は誰でもプリキュアになれる」のか、について、ここで少し話を進めてみましょう。

まずは次記事に続きますノ


◇◇


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本当は恐ろしい「性の賞品化」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

◇◇
モンゴル民話を元にした『スーホの白い馬』の絵本は、すでに名作の評価を受けて久しいでしょう。
小学校の国語の教科書に掲載されたこともあります。

ただ、これを今日において題材・教材に用いるとすれば、この2010年代に見合った配慮はほしいところです。

具体的にはお姫様が競馬大会の「賞品」に位置づけられちゃってるところ。
ナンですか、競馬大会で優勝すれば姫とケッコンできるって!?

あのくだりは話の本筋ではないせいもあって、わりとあっさりスルーされがちですが、うっかり肯定的に受け取られるのはマズいと言わざるを得ません。

この点についても、「仮に約束が守られてスーホが姫と結婚できて形式上はハッピーエンドになってたとしても、勝手に結婚相手を決められてしまったお姫様の主体性のほうはまったく無視だなんて、その点も現代の価値基準では許されないことだよね」という主旨の、何らかのフォローが切に望まれます。

女性の人格が軽んじられ、あたかもモノのように扱われる社会的文化的慣習は、まさに女性差別構造の根幹を成すものです。
いわゆる性の商品化の問題などとも密接に連関していると考えてよいでしょう。

その意味では『スーホの白い馬』のこのくだりは、逆にそうしたテーマの教材として抜き出して用いてもよいくらいなのではないでしょうか。

そのへんをわかったうえで、あえてサラっと流すという選択もなくはないでしょう。
教科書でも、20年位前のバージョンで、すでにわりと上手にボカしてあったりしました。

とはいえ指導する先生しだいでは、やはりどうしてもミスリードの危惧は拭えません。

作品に多角的にアプローチする姿勢は、やはり心がけたいポイントであります。
◇◇

  


……というような指摘は、わりとかねてよりしばしばしているところです
(本館メディアとジェンダー#015 漂流する名作-Wrong Love Letter」にも少し書いてます)

ただ、この話、入力する際には若干 気を遣うのですね。

上記文中をよく見てもらうとわかるのですが、「賞品」「(「性の商品化」の)商品」と、しょうひん》が2種類登場します。

コレは油断すると変換ミスが起きやすいシチュエーションで、うっかり間違ったままにしてしまうと文意が伝わりにくくなってしまう、地味に致命的な失敗となってしまいます。


…………で、そんなことも考えていて、ふと思い至りました。

「性のしょうひん化」といえば通常は「性の商品化」ですが、もしかしてソレとは別個に、じつはこの社会には性の【賞品】化の問題が存在しているのではありませんか!?

たしかに「競馬大会で優勝すればお姫様と結婚できる」というような意味あいでの「性の【賞品】化」であれば、いわゆるフェミニズムが訴えるところの「家父長制」にかかわる案件でもあり、そこからは「性の商品化」へも地続きであり、その意味では「性の賞品化」という表現は日本語での言葉遊びの域を出ないでしょう。

では、しかし本当に当事者どうしが主体性を持って自由恋愛に基づく意思に従って結ばれる仕組みであれば、みんな幸せになれるのでしょうか?
「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」なら、まったく問題はないのでしょうか!?

そう考えていくと、ソコもまたいろいろ疑義が挟まるところだと思われます。

ざっくり言って、この社会には「男らしさ/女らしさ」規範が強固に敷設されています。

そこでは誰もが「女」「男」いずれかの属性を付与された上で、その付与された属性に応じて期待される役割をプレイすることを強いられています。
いわば「男らしさ/女らしさ」規範という名のゲームです。

そんなゲームのルールのなかで、たまたま資質に恵まれてハイスコアを出した人から順に与えられる prize に位置づけられているのが 恋人~配偶者 ………というふうに、さぁ、なってはいないでしょうか。

それが男女二元的な性別規範異性愛主義に則った現行社会のシステム。

つまり、異性が1人ずつでつがいとなる結婚を自明視した社会通念に則った公の社会制度と、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの悪魔合体で、私たちの「性」があまねく【賞品化】されている……。

換言すれば、この社会では、性愛はすべからく【賞品】として供給されている/性愛の供給はすべて必ず【賞品】としてのものこそが正統で尊いものとされている……。

誰もが社会生活にコミットする限りは、このシステムから逃れられない以上、コレは万人の行動をいつもどこでも規制する結果になっている、けっこう根が深い厄介な問題ではないでしょうか。

この恋人~配偶者という名の賞品としての性にありつくために、誰もが「男らしさ/女らしさ」ルールを遵守するために汲々ととしないといけないのです。

しかも、なんとか上手くやっていける人ならともかく、それが不得手な人にあっては、このゲームをプレイするしか社会に居場所がないという状況は、すざまじい抑圧として機能することでしょう

人文書院「フリーターズフリー 02号に収録されている森岡正博による論考「『モテないという意識』を哲学する」で述べられているような、非モテ男性が人生をネガティブに拗らせていく負のスパイラルに陥る背景などに対しては、まさにこの「性の【賞品】化」概念を当てはめることで適切に名付けができるようにも思えます)

いわゆる非モテの問題はもとより、あらゆるジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会問題の源泉がここにあると言っても、あながち過言ではないかもしれないくらいです。


 


というわけで、この「性の【賞品】化」という観点はなかなか有用な気がします。
「家父長制」と重なる部分もあるとは思われますが、そのエッセンスも取り込んだ、より広い範囲を表しうる言葉として、かなり有望なんじゃないかなぁという期待はしてよさそうです。

それに「性の賞品化」の文脈においては、単純に「性の商品化」を問題にする場合には《良いもの》《尊いもの》《正しいもの》の側に回ることが自明視されている「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」も無謬ではいられず、その背景としてのロマンティック・ラブ・イデオロギーや、基底にある男女二元制と異性愛主義を覆していく変革の未来さえ展望できそうです。

だいたい、性がもっぱら非売品である「賞品」としてしか手に入らないというのはきわめて封建的だという見方もできます。
近代市民社会であるなら、むしろ性はすべて商品として売買されるのを基本にしたほうが自由で平等で民主的だという考えにも一理あるというロジックも成り立つでしょう。

(「性の商品化」において、セックスワーカーの人権が軽んじられたり、あるいは公の場所で例えば「女性」だけが一方的に「見られる性」と位置づけられた表現物が特段の必要も必然もないのに不特定多数へ向けて掲出されるといったようなことは、やはり不均衡な状況でしょうから、避けるための方策が議論されるべきなのはもちろんですが)

現状をドラスティックに覆すことを実際におこなった際の混乱は斟酌されるべきにしても、少なくとも思考実験のツールとしては、この「性の【賞品】化」概念は、ちょっと普及させてみたいですね。

そこからいろいろなものが見えてくる可能性は、じゅうぶんに秘めているのではないでしょうか。


◇◇


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