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さらばドキドキプリキュア・愛の戦士たち [メディア・家族・教育等とジェンダー]

あの『スマイルプリキュア!』の最終決戦から、はや1年。
後を受けて始まった『ドキドキ!プリキュア』の戦いも、本日2014年1月26日、先ほど最終回・第49話のオンエアが済みました。

ある意味そこまでのプリキュアシリーズの集大成ともなった『スマイル』に続き、10年目のプリキュアとしてシリーズの新境地をも拓いた『ドキドキ』は、たしかにこの1年間、私たち視聴者をドキドキワクワクさせてくれたと言えるでしょう。

その、愛をテーマにしたと謳うプリキュアに相応しく、各自の自立と相互の信頼のもとで、互いを思いやって共に力を合わせながら、誰も犠牲にしないで課題を解決していく姿勢は、まさしく「そうか、『愛の戦士たち』とはこういうことか!」と、刮目させられるものでした。

作品世界の隅々まで目配りしながら積み重ねられた描写を繋ぎ、深いテーマにも斬り込んだ物語には深い含蓄もあって、大勢の大人視聴者も考えさせられるところがありました。

今はただ、まずは感動をありがとう、です。


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§画像は放送画面より。以下この記事中同じ


 →ドキドキプリキュア朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/dokidoki_precure/
 →ドキドキプリキュア東映アニメーション公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/dokidoki_precure/


昨年、新プリキュアの「テーマは愛」と聞いたときは、私はどちらかと言えば悪い予感がしました。

『スマイル』の最終決戦編が盛り上がっていたことや、初期に公開されていた『ドキドキ』のビジュアルがどことなくショボくて『フレッシュプリキュア!』の劣化コピーにしか見えなかったことを差し引いても、「テーマは愛です」と言葉にされたときの、そのそこはかとなく漂う陳腐な響きが、過去に実際にあった安易な事例を想起させたからです。

特に「テーマは愛」と大上段に掲げられた印象が濃厚な代表例、かつての『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は、初見でこそ泣かされましたが、冷静に見れば「泣かせる」ことが自己目的化した展開で、最後主人公たちは一種のヒロイズムに酔い痴れたように次々と自己犠牲の特攻をしていくわけです。
そういうのを「愛」だと押し付けられるのは、今の時代となってはまっぴらです。

『さらば』の前日譚にあたる『宇宙戦艦ヤマト』の第1作でも、「僕たちがすべきことは戦うことじゃなくて愛しあうことだった!」というセリフが戦いが全部終わって決着してから取ってつけたように入ったわけですが、コレも今どきは通用しません。

※2013年は、そんな『宇宙戦艦ヤマト』の今風のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』が、奇しくも朝に『ドキドキ!プリキュア』をやっている期間中に、同じ日曜日の夕方にオンエアされることとなっていたのですが、コレについては後日別記事にします

そもそも、「テーマは愛です」とは、じつは中身が薄くて乏しいときにこそ、とりあえずそう言っておけば体裁が取り繕える魔法の言葉だという側面があるとさえ言えます。

そういうパターンがある中で、はてさて『ドキドキ!プリキュア』は、どのような・どのように「愛」を見せてくれたのでしょうか?


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フタを開けてみると「『テーマは愛』は駄作法則」は杞憂に終わっていました。
それどころか、人と人との関係性の深淵まで追究した、「愛」の本質にまで迫るものだったと言えます。

その重要なポイントがいくつかあるうちの1つは、「自己犠牲は『愛』ではない」ことの明示だったでしょう。

『ドキドキ!プリキュア』では「愛」を称揚するプリキュア側に対し、敵は「ジコチュー」と呼ばれ、人間の自己中心的で我儘な気持ちから生まれた闇のエネルギーによって、大ボスである「キングジコチュー」や、「3幹部」が毎回召喚するモンスターとしての「◯◯ジコチュー」が生み出されていました。

たしかに自己愛にのみ執着し他者への配慮がない態度というものは、決して好ましいものではありません。
しかし逆に、自分を顧みない、他人のためにのみ尽くすうちに心身をすり減らし、その生命さえ危険に晒すことを厭わない姿勢もまた、どこか歪なものです。

当然ながら、この両者のバランスをいかに取るかが健康的に生きていく上では大事なのですが、このことはドキドキプリキュア作中でも注意深く取り扱われていました。

基本的には、他者への配慮・思いやりによって相手は喜び自分もまた嬉しくなる・その相互の蓄積によって自分自身も含めたみんなの日常が幸せになる――というような形で、メイン視聴者層であるとされる未就学児童にもわかりやすく猫写されることが多かったですが、ドキドキプリキュア第21話ではさらに踏み込んで、「自分さえ犠牲になれば残りの人は助かる」というのはヨクナイとハッキリ示されたのです。

この2013年6月23日放映の21話では、筆頭主人公・相田マナが変身するキュアハートが、敵の大ボス・キングジコチューの娘とされる少女レジーナと友情の端緒を紡いだ後(という「敵陣営に属する者と友達になる」という展開も、いかにもプリキュア的。シリーズを遡ると前例も多く、中には敵幹部からプリキュアの追加戦士に転身したケースも)、敵の罠によって2人同時に「蜘蛛の糸」状態になってしまいます。
宙吊りになった2人を支える糸は1人分の重みにしか耐える強さがない。下には灼熱のマグマ……。
そこで意を決したレジーナが、マナと出会えてよかったという旨を言い残して自ら手を放すのですが、ソレを見たキュアハートは、そんなのアタシが許さないとばかりに、落ちかけたレジーナをガッシと脚で挟むのです。
「あきらめちゃダメ!」
そしてレジーナへ言うことには、糸が切れたって壁を登ればいい。今までみたくいっしょにがんばればなんとかなる。
こうして、2人のうちのどちらかだけしか助からないという、罠を仕掛けた敵側の設定自体を覆すのでした。

つまり、描かれたのは、自己犠牲の美学ではなく、誰かが犠牲になるしかないという枠組みのほうを相対化するメソッド。
これは、案外と今まではあまり描かれることのなかったことかもしれませんが、じつはとても大切です。


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2つ目は(上述の場面とも関連しますが)、「二択に囚われずに第3の最適解を探せ」ということ。

2人のうちの1人だけを選ばねばという2択自体を拒否して第3の道を作り出すというようなことを、主人公・相田マナは上述21話以外でも常々おこないます。生き方の基本姿勢と言ってもよいでしょう。

二者択一によって捨象されてしまう要素は、じつは多いことを考えると、この態度もまた重要です。
なんとなく強いられた二択を無意識に受け入れて、本当は選べたかもしれない別の道の存在さえ意識できないでいることがありがち(その典型例が、じつは【性別】)な私たちにとって、物事の見方を変えて視野を拡大することで希望を探し出すことは、誰も何も失わずに問題解決していくための大きな力になるでしょう。


さらにこれらを対人関係にまで進めた3つ目として、「複層的な関係性の肯定」があります。

ドキドキプリキュアではプリキュア側の主要登場人物として、筆頭主人公・相田マナの他に、マナの元からの親友である、キュアダイヤモンドに変身する菱川六花、キュアロゼッタに変身する四葉ありす(ただしありすは後述するような立場なため小学校のときと違い中学校は別の名門私立に進学している)の2人、さらに物語の発端の舞台であった異世界トランプ王国に出自を持つキュアソードに変身する(人間界では普段はトップアイドルとして活動している)剣崎真琴らが配置され、初期ユニットを組みます。

ここに、先述の敵サイドから親しくなっていったレジーナや、このレジーナとじつは深い因縁を持ち、追加戦士であるキュアエースに変身する円亜久里(変身すると大人になるのだが、変身していない普段の生活では小学4年生)らも絡んで、複雑な相関関係が発生するのですが、そのプロセスが人と人とのつながりの中の「愛」のあり方と密接に関わることとして、全編を通じて丁寧に描写されました。

基本的には筆頭主人公・相田マナが全員のハブとして位置づけられているのですが、他のキャラどうしも直接の接続を持つ、総体的にはネットワーク型の人間関係であり、それぞれが相当に聡明で各自の人格がしっかりと自立したうえでの、相互信頼が成り立っています。

そして、それゆえにときには軋轢も生じます。

第10話では、マナと打ち解けた剣崎真琴によって親友の地位を脅かされるのではないかと思った菱川六花がやきもちを焼くという展開があります。
同時にそのときそれを見守る四葉ありすもまた、それまでのマナと六花の間の深い絆に対して、同じ親友ながら密かに嫉妬していたこともほのめかされます。
さらに当の真琴は真琴で3人の親密さを羨ましく思い、自分がソコに参画できるのだろうかと不安だったりしました。

その後の16話、タイトルもなんと「レジーナ猛アタック! マナはあたしのモノ!」では、マナを独占しようとするレジーナに、残りのメンバーが翻弄されます。

そんな中で、各自が自分の思いと向き合い、それぞれ相手に対し「その気持ちは自分にも理解できる」と慮り、理想と現実の調整が図られる中で実践されるのは、やはり画期的な方向性だったと言えます。

正解はひとつじゃない
誰のどの気持ちが正しくて、他が間違いなんてこともない
だから、お互いが誰かを好きだという気持ちを認め合いながら、みんなで仲良くすればいい。
そうして、各自が育む胸のドキドキ、それこそがまさに愛――。

ここでの登場人物は、いわゆる全員「女の子」ですが、むろん女子どうしの人間関係におけるトラブル解決にも、この一連の展開はモデルとなりえます。
未就学幼園児の世界にもじゅうぶんに通じるものですし、あるいは作中の主人公らの設定と同様の中学2年生前後にあっても、むしろリアルな現実問題と言えます。

同時に、これは異性愛的な恋人関係に敷衍したときにも、大きな意義を持ちます。
通常は「1対1」が正常で正統なものとされ、そうでないものは不誠実と評価される恋人関係において、「あの人もその人も好き」でもイイんだという(いわゆるポリアモリー)考え方を導入することで、問題ではなくなる問題も少なくないのです。

恋人関係のモノガミー規範にまで斬り込んで問い直す機会になっているという点で、この作品はやはりタダモノではありません。

さらに、「女の子どうし」の関係性に恋人関係のメタファーを読み取る作業を経ると、女の子どうしで恋人どうしでもべつにかまわないことへの気付きにもつながります。
実際、物語は同性愛的な関係性を読み取りたい人がそのように解釈することも差し支えないつくりになっていました。
この2人はもうソコまで深い関係だよナと解釈するほうが自然な関係性も複数ありましたし、もっと言えば友情と恋愛の境目なんて本当にあるのかという命題さえ、制作側は意識してなくもなかったのではないでしょうか。
やはりこの作品はタダモノではありま…(以下同文w)。

ありのままの思い、自分の胸の自然なドキドキ、それにだけ従って人を好きになっていけばいい。
それを妨げる規範があるなら、そっちのほうを組み替えればいい。
……『ドキドキ!プリキュア』は、まさに大きな愛を描いています。


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そして、この3点とも密接に関わりますが、やはり最大のポイントは「愛とジコチューは表裏一体」であることを示したところでしょう。
「愛」は正しく、一方で人間の自己中心的で我儘な感情は誤りであり悪である……とはせずに、前者は後者を包摂できるもの、そして後者の中からこそ前者も生れ出づるもの。

毎回のモンスターであるジコチューが、一般の人の心の負の部分を元に生成されるというシステムは、ハートキャッチプリキュアでも類似のものが採用されていましたし、今どきは平成仮面ライダーシリーズなどでも珍しくはありませんが、ドキドキプリキュアでは、きっかけとなるのはそれこそ誰だってふと思ってしまうようなこと(赤信号を待つのは面倒とか、赤ん坊の泣き声がうるさいとか、リア充爆発しろとか…)であり、しかも一旦はソレを自分でいけないことだと思い直した末に、敵幹部の幻惑によって心を怪物化されてしまう形をとっています。

つまり、「悪」とされるものはどこにでもたくさんあるほんの些細なものが元になっているにすぎない。
そんな気持ちも抱くから人間なんだ。
そんな人間だから互いに好きになることだってできるんだ――。

あるいは、やや適切性を欠いているだけの本来は健全な向上心とされるものがジコチュー化される回もありましたから、何がジコチューかというのも視点や文脈によって変わる状況規定的なものだということが提示されたとも言えましょう。

さらに、敵の大ボスと思われた「キングジコチュー」も、じつは最愛の娘を病から救うか、それとも王国の民の安寧を守るかという二者択一を強いられたトランプ王国国王の葛藤が、闇のエネルギーにつけ込まれただけということがクライマックスで判明します。

そうした2択はどちらを選ぶのが正解とは言えません。
いわばどちらを選ぶのも「愛」であり同時にジコチューです。

こうなると、これらは明確に分別できるものではなく、むしろ渾然一体となっているひとつの存在だと考えるのがもっとも合理的でさえあります。

そして、だからこそ、本作の主人公・相田マナが、2択を迫られたらソレを強いる構造自体をひっくり返そうとする人だったことが大きな意味を持ちます。

要は二項対立に飲み込まれて葛藤してしまわないこと、どちらもOK、それを認めたうえで全部包含できる策を考えればいいんですから。

ソレを象徴するのが、最終回で暴威を揮うラスボスが「もはや全宇宙は自分のものだ」みたいに言い放った際の、相田マナ・キュアハートの反駁です。

自分だけの世界になったら自己中心的な行動そのものが成り立たなくなる。
誰かとともに生きているからこそ自己中にもなれるし、そこから愛も生まれるんだと……。

敵を絶対悪として殲滅するのではなく、それを受け止めて昇華しながら、誰も犠牲にしない論理を提示する、この姿勢は近年のプリキュアの真骨頂です。

そしてこれが、じつは最初に例示した過去の「テーマは愛です」作品『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の類似シーンで主人公が反論したロジックとは対極的だったことも、これがまさに21世紀を生きる私たちにとって必要な考え方であり、「愛」のあり方のひとつの答であることを示しているのではないでしょうか。

『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のクライマックスで勝ち誇った敵、彗星帝国ガトランティスの大帝ズォーダーは
「宇宙の絶対者は唯一人、この全能なる私なのだ。命あるものはその血の一滴まで俺のものだ。宇宙は全てわが意思のままにある。わたしが宇宙の法だ。宇宙の秩序だ」
 などと豪語します。

これを聞いたヤマトの艦長(の任にその時点では就いている)古代進は激しく憤慨して言い返すのです。
「ちがう、断じてちがう。宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は全て平等でなければならない。それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ。お前は間違っている! それでは、宇宙の自由と平和を、消してしまうものなのだ! 俺たちは戦う! 断固として戦うっ!」

……やっぱりゼンゼン違いますねー。

ずいぶんと言葉尻だけで愛の押し売りをしているように聞こえるなどとは言わないにしても、この「お前は間違っている」を言っちゃうと、もはや「どっちが正しいか争い」の泥沼しかなくなってしまいます。

我こそが正義とみんなが言い出すのは、ある意味究極のジコチューであり、最悪な世界です。
そして実際に件の映画のラストは死屍累々。

まさしく、「正義と秩序」で解決できないときはもっと「ケアとキュア」が望まれると痛感される典型例であります。

……というわけで古代クン、ここはツタヤでプリキュアのDVDと、あと「世界の終わり(SEKAI NO OWARI)」の『天使と悪魔』のCDも借りて反省してください(^o^;)。

※コレに比べると『宇宙戦艦ヤマト2199』はやはり随分と「プリキュア化」したものです;(古代クンもまるで本当にプリキュアのDVDで学習したがごとく、すっかり「熱血な正義の人」ではなくなっています)
だからもしも『2199』の後を受けて制作されるという劇場版、その終盤で、高笑いする彗星帝国ガトランティス大帝ズォーダーに向かって、「あ~何言っちゃってるかな。宇宙を独り占めしたら美味しいパフェを皆でいっしょに食べることもできなくなるんだよ」などと山本玲あたりが説教する展開があるんならゼヒ観に行きたいw


◎そんなわけで基本的にプリキュアは「正義」のために戦うヒーローではないのであり、毎シリーズ結果的には世界の危機がプリキュアの活躍によって救われているとはいえ、その動機は正義と平和の使命に燃えて……ではなく【大切な友達との日常を守りたい】が主眼となっているのが通例です。
ところがその中にあって、『ドキドキ!プリキュア』中盤で追加戦士として登場したキュアエースは、変身完了時の名乗り口上にも「正義」云々という文言が入っているし、台詞回しでも「この命に代えても…!」「たとえこの身が滅びようとも…!」のようなものがあったり、その他言動の端々に「ケアとキュア」と言うよりは「正義と秩序」寄りのものが見受けられました。
ただ、これらはキュアエースの出自にまつわる設定をふまえた、制作側による意図的なズラしだったと思われます。
じつはトランプ王国の滅亡に際して気持ちが折れそうになったプリンセス・アン王女の心が2つに分かれた、そのいわば「正義と秩序」のほうが元となって転生した姿こそがキュアエースだったのです。
私も視聴していて当初は不安だったのですが、このことが判明した後は、やはり制作側はよくわかっていた! と思い直しました。


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さて、そんなシリーズ10年目の『ドキドキ!プリキュア』は、キャラクターの設定にも今までの「女の子アニメ」にはない斬新で画期的な要素が取り入れられました。

ここでは、そのうちでも特に、筆頭主人公としてキュアハートに変身する相田マナと、その親友にして大金持ちのお嬢様でもあるキュアロゼッタ・四葉ありすについて見ておきましょう。

他のキャラには魅力がないというわけでは決してないのですが、やはり『ドキドキプリキュア』の物語世界の大きな支柱を成していて、かつ従来の「女の子アニメ」の枠組みを大きく越えた、もっと言えば全プリキュアシリーズやアニメ特撮ヒーロー全体を見渡してもなかなかいない人物像なのです。


まず相田マナですが、ここまで説明してきたことからうかがい知ることのできる特長に加えて、成績優秀にしてスポーツ万能な生徒会長という基本設定があります。

「相田マナは少しドジだけど元気で明るいが取柄の中学2年生♪」という定石を、あえて激しく外した、なんという高スペック!
当初は優秀すぎるキャラだと視聴者の子どもたちが感情移入しづらいのではという心配もありましたが、これも杞憂だったと見てよさそうです。

それよりも、「女は少しバカなほうがカワイイ」というような価値観の押し付けに異議を唱え、男女を問わず能力に応じてスキルアップして活躍することのロールモデルを示した意義は大きいでしょう。

あまつさえ、小さいころはサンタクロースになりたかったというマナが、中学生である現在、思い描く将来の夢は内閣総理大臣!

余談ですが、『プリキュア5』のオープニング主題歌をフルで聴くと、終わりのほうに「女の子だからってカワイイだけじゃダメ」という趣旨の歌詞があります。
で、今般『ドキドキ』のOP主題歌では、毎週テレビでオンエアされる1番の歌詞中に同様の内容が歌い込まれているのも、さりげなく意義深いかもしれません。

という超優秀娘なマナさんですが、当然ながら嫌味な感じはまったくせず、今日も同級生の他校生とのケンカを仲裁したり、部活の助っ人を頼まれたり、迷子の世話をしたりと、誰か困っている人の面倒を見ることに大忙し

ちなみにコレらの行動は、しなくてはいけないことのために自己を犠牲にしているのではなく、どちらかといえば本人が思わずそう行動してしまい、結果本人はそのことで幸せを感じているので、まさしく愛とジコチューの渾然一体を体現してもいます。

そんな、まるで『輪廻のラグランジェ』の京乃まどかさんを彷彿とさせるジャージ部魂な相田マナさん(いわばプリキュアをロボットアニメに置き換えたのが『輪廻のラグランジェ』でしたが、それをもう一度プリキュアに持ってきたのが『ドキドキ!プリキュア』だったと言えます)
プリキュアとしての活躍が世界に認知された後の最終回ラストでは、政府から出動依頼の電話がかかってくるなど、「どちらの国連事務総長さん?」という名言(迷言!?)を残した京乃さんと、これまた似たようなエンディングを迎えるのですが、1年を通じたキャラとしての安定感では、マナはすでに第1話開始の段階でラグりん2期最終回時点の京乃さんの域に達しています。

それはおそらくは、六花やありすという、心の支えたりえる親友が早くから存在したからなのでしょう。

マナとのつきあいは幼少からである六花は、達観したように、マナの「ジャージ部属性」を童話になぞらえて「幸せの王子」と呼ぶほどです。

………幸せの王子。もはや「王子」かよ(^o^;)

この「王子様認定」も視聴者的には作中の六花同様に納得の行くもので、相田マナが、ひたすら白馬の王子様を待つだけの受動的な女の子キャラという古典的設定のはるか上を行っていることの証左です。

そうして、プリキュアシリーズの主人公として無理は感じさせない一方、敵にも臆せず物を言い、変身前の状態での素面アクションさえこなす姿は、「男の子向け」の特撮ヒーロー主人公であったとしても、違和感がないくらいでした。

※実際、同時期の戦隊シリーズ『獣電戦隊キョウリュウジャー』のレッドとの相同性を感じる機会は複数回ありました

かように相田マナは、女の子の憧れのアニメの主人公としての新境地を拓き、イケメン女子キャラとして、前例のないモデルを提示できたのではないでしょうか。


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一方、四葉ありす

私は番組放送開始前、公式サイトのキャラ紹介文を読んだ段階では、ありすにはほとんど注目していませんでした。

「四葉財閥のお嬢様。やさしく、おっとりした女の子…」
「小さい頃から、たくさんの習い事をしてきたから、じつは何でもできちゃう……」
「執事のセバスチャンが身の回りの世話を……」

はいはい。
テンプレどおりのお嬢様キャラね。
育ちの良い上品でおしとやかな為人で金銭感覚などがちょっと世間とズレていて……ってやつ。

ところが、第1話の舞台となる世界一の高さを誇るという「東京クローバータワー」、そこでそのタワーのオーナーが、他ならぬありす本人だという事実が判明し、私は少しだけお゛っと思いました。
これは、ただ単に家が金持ちで、その家の深窓の令嬢に過ぎないのではなく、自分ちの会社の経営に相応に深く主体的に参画する立場にあるということです。
何やら経営会議のような場で大人たちにあれこれ指示を出す様子や、じつはそうした仕事の一環でどこかの国の大統領との晩餐会への出席もこなすことがあるという驚愕の事実こそ、もう少し先の回での描写になりますが、相田マナが京乃まどかを彷彿とさせるところから、同じ『輪廻のラグランジェ』でノウムンドゥス財団の実質的な会長職を務めている「見た目は子ども、頭脳は大人」な少女アステリア(←中の人はありすから見て先代の黄色プリキュアである『スマイル』のキュアピース黄瀬やよいと同じ金元寿子さんv)が脳裏をよぎることは禁じえません。

それでも1~3話の間は四葉ありすの出番が少な目なこともあって、私もこのことを大して気にもとめませんでした。

大方の視聴者が度肝を抜かれたのは、やはりありすがキュアロゼッタに初変身する第4話だったでしょう。

マナと六花を自分の屋敷に呼んだありすは、おもむろに切り出します。
ここで執事のセバスチャンがボタンひとつで室内に映像設備がセットアップされるのは、まだ驚くところではありません。
「クローバータワーの防犯カメラの映像……」
なんとマナがキュアハートに変身しているプロセスがガッツリ映っているではありませんか。
「私が気付いてクシャポイしたからよかったものの…」

_人人人人人人_
> クシャポイ! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄

しかもクローバータワーはまだしも自分がオーナーだとして、他の街中の防犯カメラやインターネット上の情報にまで密かに手を回して削除したりすることもできるようです。

後々の回では自家用の人工衛星まで保有していることが判明。

なんという「カネは権力」!!
一歩まちがうと、コレ悪者のほうです(^o^;)。

さらに妖精が敵の出現を察知すると、セバスチャンは何やら手元のタブレット端末を操作して即座に位置を特定。、
ありす曰く、
「四葉財閥の情報網を侮ってもらっては困りますわ」
そしてセバスチャンが別のリモコンを操作するやいなや地下格納庫からありす専用車がせり上がってきて、マナたちを現場へ送り届けるためにスタンバイ。

……どこの光子力研究所ですか!

そうして、マナと六花を的確に後方支援したありすは、今後も自分はこのようにプリキュアのプロデュース役をしていきたいと申し出ます。

一方、妖精たちはありすにもプリキュアになってほしいのですが、ありすはその申し出を頑なに固辞します。
いったいなぜ?
その理由と推察される過去をマナと六花が妖精たちに語るところは、これまた予想の斜め上でした。

なんでも、小さい頃からさまざまな習い事をしていて空手・柔道・剣道・合気道の心得もあったありすは、小学生時代のあるとき、いじめっ子たちがマナに対する人格攻撃をしてマナが泣いてしまったのを見たとき、怒りのあまりいじめっ子たちをフルボッコにしてしまったのでした。

だから、プリキュアのような強大な力を自分が手にしたら、また怒りで我を忘れたとき、誰かをより激しく傷つけてしまうのではないか………それを恐れているのだと。

…………なんかもうすっかり少年マンガです(^o^;)。

てゆーか公式プロフィールの「たくさんの習い事」ってソレ!?

たしかにピアノや社交ダンスの素養を見せる回もありましたし、テニスなどのセレブっぽいスポーツはこなせることから、バレエなどもできそうですし、おそらくは茶道・華道などもひととおり修得しているのだろうとは思われます。

それでも後々の回では、成層圏から攻撃を仕掛けてくる敵ジコチューのもとへ向かうために、自家用ジェット機を自ら操縦して単身出撃したりしてますから、そういういわゆる「お嬢様が女子力を高めるため」の習い事の範疇をはるかに超えるものを身につけているにちがいありません。

ということは、やっぱりきっと戦車道も極めているにちがいない!
(ありす役の声優は『ガールズ&パンツァー』の西住みほ役と同じ渕上舞さんという中の人ネタ)
というより『うる星やつら』の面堂家という過去の前例に鑑みると、日曜朝の東映のアニメだから明示的に登場しなかっただけで、四葉財閥ゼッタイ私設軍隊も持ってそうw

……少なくともその成層圏へ向かう自家用ジェットが専用カタパルトから発進するシーン、もはや『プリキュア』でも「女の子アニメ」でもなかった(^^ゞ。

そんなこんなで、ドキドキプリキュア4話の後段では、ありすは無事にキュアロゼッタに変身することになります。

変身完了時の名乗り口上は「陽だまりポカポカ、キュアロゼッタ!」
……ぃや、ソコだけ絶対に初期設定の段階の名残りだろw

かくして、その後1年の物語の間、執事セバスチャンによるサポートを通じて、四葉財閥が持つさまざまなリソースがプリキュアの戦いを支援することになります。

前述の人工衛星による索敵、女子中学生が通常利用可能な交通手段で到達できる圏域を超える場所への移動のために航空機などの提供、さらには科学の力で誰でも変身可能な人工プリキュアの研究開発(まぁ2時間前の番組『聖闘士星矢Ω』でも「鋼鉄聖闘士」が出てきましたから; というよりそのお話における女神アテナにしてグラード財団を取り仕切る城戸沙織さんと、四葉ありすは、財界のパーティか何かで面識がある………という裏設定とかありそうですね、東映アニメーション的にw)……。

それこそ巨大な敵と戦うための5大のマシーンが合体するロボットが出てきそうな勢いでさえありました。

そしてこれらが、単に『うる星やつら』の面堂終太郎的なギャグとして効果的に作品を盛り上げる、あるいはプリキュアの活動範囲を空間的および質的に拡張して作品世界の奥行きを広げることに寄与するのみならず、四葉ありすというキャラクターの魅力を支える要素として肯定的に作用していたのは評価に値します。

一般的なジェンダー観念に沿った従前の作品であれば、「お嬢様キャラ」に対して何かズラしを試みるにしても「(上品でおしとやかなお嬢様なはずなのに)お転婆」設定などが定石です。
「ドキドキプリキュア」と同時期放映である戦隊シリーズの『獣電戦隊キョウリュウジャー』のピンクであるアミィ結月などでも、ズバリ、このパターンが適用されています。

しかし四葉ありすは、そもそもお嬢様とはいえ、いつかは他家にお嫁に行く存在としては扱われていません
(『ドキドキ』の秋の劇場映画版は主人公らの将来の「結婚」が意識されるストーリーでしたが、それ自体は「親から子へ受け継がれていくもの」の価値を描くうえで一定の意義はありました。そして、そこでもヨソのイエへ「嫁に行く」という概念は一切提示されませんでした)
どう見ても「四葉家次期頭首」の立ち位置にいます。
そしてその地位に在る者が女の子であることが何か問題であるかのような描写は一切ないのです。

また、そうした何かしらの由緒ある家柄で後継ぎの立場に在る登場人物が、こうしたアニメ特撮ヒーローものに配置される場合の定石という観点でも、それは一般的には
「俺は家を継がなくてはならない。だから俺には自由がない。将来の夢なんて持てない……」
といったマイナス要素として機能させられることが多いのではないでしょうか。

「ドキドキプリキュア」と同時期放映のものを見渡しても、『ウルトラマンギンガ』の一条寺友也クンはバッチリこのパターンでしたし、『仮面ライダー鎧武』で仮面ライダー龍玄に変身するミッチも、これまでのところは概ね該当するでしょうね。

ところがありすの場合は、そうした葛藤をも超越していて、自分の家柄を、自分の自由を束縛する足かせがごときマイナス要素として捉えてはおらず、逆にそうした門地を、自分がやりたいことを効率よく執りおこない、以て自らの夢を叶えるためのリソースとして活用しています。

相田マナらとの交流を通じて、自分もマナと同様に、世界中の人が幸せで笑顔になれるようにしたいとありすは思い、そうしてそのための手段として四葉財閥の力を存分に活用しようとしているわけです。

将来はきっと、総理大臣になったマナを財界から強力に支えるサポート役になるのでしょうね。
…時の野党からは癒着だと追及されるかもしれませんが(^o^;)。

そんな次第で、巨大多国籍コングロマリット四葉コンツェルン(という言い回しはややこしいからか実際には登場せず、作中ではあえて「財閥」と称されたと推察される)の総帥として、世界の人々の福利向上に貢献するのが将来の夢という四葉ありす。
なんと壮大な将来像なのでしょう。

こうしたモデルが、女の子の夢としてあってもよいものとして示されたことは、いやいやすでに庶民の家に生まれてしまっている視聴者の子どもにとっては意味がない……なんてことは、きっとないと思います。


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かくして、10年の蓄積のうちに、今や日本のすべてのヒーローものの頂点に立った感もあるプリキュアシリーズ。

次作『ハピネスチャージ プリキュア!』からは、いったいどのくらいの幸せを、私たちは受け取ることができるのか、今から楽しみでなりません。


   

   


◎ドキドキプリキュアに関してジェンダー的に問題視された案件がもうひとつ。
小動物型の妖精とは別枠の、赤ちゃん型妖精の「アイちゃん」を主人公たちが「お世話」する描写は、ある種の固定的ジェンダー役割を女の子に押し付けるものであったという批判は多少は当てはまるものと言えるかもしれません。
しかし、番組の制作コストを負担しているスポンサーがその費用を回収しビジネスモデルを成立させるために「アイちゃん」を模した玩具を商品化し、その販売促進を、実際の購入決定権を持つ(幼児本人ではなく)大人、とりわけ祖父母世代へアピールするためには、世に現に存在するジェンダーバイアスを利用することもある程度はいたしかたない側面もあるでしょう。そうなるとこれは、あとは視聴者側のメディアリテラシーの問題となります。
そして、「アイちゃん」玩具のCMにおいては「赤ちゃんのお世話をするママって楽しい~」と訴えられる一方で、作品の物語中ではアイちゃんが「イヤイヤ期」を迎えて主人公らが翻弄され、食べ物の好き嫌いへの対処、歯磨きの習慣付けへの奮闘など、微妙にリアルな子育ての困難が描かれたりしていました。
じつは赤ちゃん型妖精を主人公たちが「お世話」する設定は『フレッシュプリキュア!』や、プリキュアシリーズ以前に同じ放送枠で人気を博していた『おジャ魔女どれみ』シリーズにもありました(つまり数年おきに採用される定番の設定とも言える。また赤ちゃん型ではない妖精に対しても主人公らによるお世話要素が付加されることはある)。いずれも作中での様子を再現・体験できる玩具がスポンサーから発売されるのは同様ですが、一方で作中のストーリーをじっくり読み解けば、これらの作品でも、単純に女の子に女性の育児役割を自明のものとして教化するものにはなっていません。
実際の制作現場では、「番組」を提供するスポンサーと「作品」を創るスタッフとの間で、ジェンダー化されている社会構造を背景に、さまざまなせめぎあいがあるようです。

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CM↑と↓作中では描写の文脈が必ずしも同じではないです

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僕はホモちゃん [多様なセクシュアリティ]

前記事では昨今の情勢には改善が見られる旨を書きましたが、今なおセクシュアルマイノリティが差別や偏見にさらされる機会はなくなったわけではありません。

油断していると、侮蔑や嘲笑、揶揄、そうでなくても憐憫の視線や言葉は飛んでくるものです。

そんな中では「ホモ」「レズ」「オカマ」といった用語は、元々はそうではなかったとしても、長らく否定的な文脈で使われてきたがゆえに色がついて、言われれば当事者が不快に感じる言葉となっています。

略さずに「ホモセクシュアル」「レズビアン」とした場合はこの限りではないですし、例えば当人が自分で「われこそは伝説のオカマ・◯◯である!」とプライドを込めて名乗るようなケースも認められないといけません。

とはいえ、特に必要もないのなら「ホモ」「レズ」「オカマ」の語は使うべきではないし、うっかり使うと思わぬ人権侵害になってしまいかねない、取り扱い要注意ワードであるということは、ここにあらためて申し上げておきたいところです。

……間違ってもツイッターのホモネタのハッシュタグで遊んだりしないように!


ところが、そんな折、意外なことを小耳にはさみました。

この森永の製品によくあしらわれているマーク、というかキャラクターなのですが…

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……なんと名前が【ホモちゃん】だそうなのです!

ぇえ゛っ、マジっすか!?

いったいどういうことなのでしょう??

事の次第、その前に真偽のほどを確かめるべく、googleで検索してみると……出ました。

これですね。

 「牛乳プリンとホモちゃんのひみつ 森永乳業」
http://www.morinagamilk.co.jp/products/brand/milkpudding/secret.html

ではクリック(おそるおそる)

 


「……………」

 


な、なんじゃコリャ~~っ!

ビックリです。

ここまで堂々とホモホモ言われたら、かえってすがすがしいとさえ言えましょう。


+++++++↓上記リンク先サイトから引用↓+++++++

 《誕生のひみつ》
こんにちわ。ぼくはホモちゃん。
今は牛乳プリンのキャラクターとしておなじみだけど、もともとは、昭和27年に発売したビタミン入りの「森永ホモ牛乳」っていうびん牛乳のキャラクターとして生まれたんだよ。

 《どうして太陽なの?》
牛乳と太陽は、実はとっても仲良しだって、知ってる?
牛乳に含まれるカルシウムの吸収を助けるビタミンDは、日光浴することで体内で作られるんだ。牛乳を飲んで太陽の光を浴びると、丈夫な骨が作られるんだよ。
ぼくの顔は、ビタミンD入り牛乳のキャラクターとして、明るくさわやかな太陽をイメージしてデザインされたんだ。

 《名前のひみつ》
ぼくの名前はホモちゃん。
「均質化」っていう意味の「ホモジナイズド」が由来だよ。
今でこそ市販の牛乳のほとんどが均質化されて売られているけど、ぼくが登場した昭和27年当時は珍しいことだったんだ。

++++++++++↑ 引用ここまで ↑++++++++++


そして、よく読んでみれば森永乳業にも同性愛者への悪意などはもちろんなく、「ホモちゃん」の由来は牛乳プリンの「牛乳」における、いわゆる「ホモ牛乳」。

そして「ホモ牛乳」の「ホモ」というのも、成分中の脂肪球を特製の装置を用いて「均質化(=ホモジナイズ)」していることを表していて、ホモセクシュアルとはまったく無関係であることがわかります。

※「ホモジナイズ」が意味する「均質化」は脂肪の粒の大きさを「同じにする」ことのようなので、ホモセクシュアルの「ホモ」とソコのところの語源は共通と考えられますが


なるほど!

よくわかったよ、ホモちゃん!!


しかし、こうして見ると、「森永ホモ牛乳」が発売された昭和27年(1952年)当時って、こんなにも堂々とホモホモ言っても、特段の問題はなかったということになります。

あまつさえ「昭和28年3月にはサトーハチローさん作詞の『ボクはホモちゃん』の歌が民間ラジオ放送で全国に流れたよ」とあります。

何やらものすごく牧歌的な印象さえあります。
今なら絶対に炎上モノですよねぇ…(^_^;)。

言い換えると、この1952年以降になってから、ホモフォビアの風潮が強まり、同性愛的な表象に対して「お前らホモかぁ!」などという投げかけが主流化され、以てこの語がセクシュアルマイノリティ当事者にとっては暗い記憶とつながる用語となったことになります。

※年代的には高度経済成長期に当たりますから、そうした時代背景と、社会の趨勢が「ジェンダー化」されていったことの相関関係などを、歴史社会学的に研究してみるのもオモシロイでしょう

「ホモ」の語には罪はなく、それを差別的な文脈で使うことを許容した世の風潮こそが悪だったことが、あらためて再確認できますね。

だから、逆に考えれば、世の趨勢が変われば、「ホモ」をめぐる現状もまた、将来に対して可塑的であり変更可能なものであることがわかります。


セクシュアルマイノリティの生きづらさは、「性別は男と女である」「恋愛や性的交渉は男女間でおこなうものである」といったジェンダーやセクシュアリティの諸規範によって、社会的に構築されています。

したがって、セクシュアルマイノリティの生きづらさを改善するのであれば、その責任をセクシュアルマイノリティの本人に負わせるのではなく、社会を構成するメンバーであるひとりひとりがより豊富な知識に基づいて責任ある言動を心がけ、以て、社会が変わることをもってすべきなのです。


 


性別違和感の語られ方への違和感 [多様なセクシュアリティ]

2014年になった昨今の情勢を見渡すと、セクシュアルマイノリティを取り巻く情勢は、依然として厳しい部分もあるものの、例えば(ワタシが男性としての生活がいよいよ煮詰まってどうしようもなくなりつつあった)20年前などと比べれば飛躍的に向上したと言ってよいでしょう。

去る1月19日には「LGBT成人式」という催しも、東京と大阪で、それぞれ開かれました。

これは時期的なかねあいで「成人式」と銘打っていますが、基本的には年齢を問わず参加できるイベントで、レインボーパレードの類と同様に、一種のセクマイプライドにかかわるイベントだと言えるものです。

とはいえ「成人式」と言えば、通常のものは中学校区単位で集められておこなわれたりすることが多いはずです。
それゆえ、セクシュアルマイノリティにとっては、そのことゆえに周囲とあまり馴染めなかった学校時代の仲間と再会するモチベーションが上がらないこともままあります。
イジメられていたりしたならなおのことです。
すでに普段の生活の性別が変更済みで、往時とは男女が逆転しているトランスジェンダーの場合は、なおのこと悩ましいことになります。

しかも成人式には振袖などの衣装もつきもの。
男女別にジェンダー記号を普段以上に強いられる機会だというのも、参加への障壁たりえます。

その意味で、安心して集まれる場が設定され、自分と同様のセクシュアルマイノリティの仲間の存在を確認しつつ、自らの成長の節目とできるという点で、LGBT成人式の類は、現状やはり大いに意義がある催したりえると言えるでしょう。

大阪を会場とした「関西LGBT成人式」には、公式発表によると、200人を超える参加があったとのこと。
参加者の声をツイッターなどで拾ってみても、意義深かった旨が数多く語られています。

幾人ものセクシュアルマイノリティがこうした会に集うことで喜びと明日を生きる勇気を得られることを、ワタシもセクシュアルマイノリティのひとりとして嬉しく思わずにはいられません。

……ぃや、というか、真っ昼間から、そんな大勢のセクシュアルマイノリティが大っぴらに集まれるようになったというのは、やっぱりスゴイと言うべきでしょう。
時代は進んだ! (^o^)ノ

「関西」の会場となった大阪市内では、特に淀川区はセクマイフレンドリーを公に掲げていたりもします。

また世田谷区に会場を設ける東京のLGBT成人式には、当然のごとくご当地の区議会議員・上川あやさんも出席されるわけですが、彼女もすでに10年以上あのような公職にあるわけです。
同性愛をカミングアウトした上で活動している議員も、さらに何人も存在します。

他にも世間を見渡すと、自身の立場を表明した上で活躍するセクシュアルマイノリティは、作家、音楽などのアーティスト、大学教員……などなどの分野にも複数見られます。

むろんそうした見えやすい事例はセクシュアルマイノリティの中でも少数派なのかもしれませんが、しかしそのことが、何よりそれぞれの場で生きているひとりひとりのセクシュアルマイノリティの生きやすさの向上にもつながっていくと信じたいです。


さて、そんな昨今ですので、セクシュアルマイノリティがテレビ番組などでも「真面目に」取り上げられることが増えてきました。

昨年のNHKの「多様な性と生きている」シリーズなども、大変丁寧なつくりの良心的な番組だったと言えるでしょう。

特にこのシリーズタイトル、『多様な性生きている』ってのがイイです。

うっかりフツーに【を】にしていたら、大多数の視聴者にとっては他人事になってしまっていたところを、そうじゃなく、そんな「マジョリティ」も含めて、この社会を構成するすべての人が、そういういろいろな人の多様な性のあり方とともに生きてるんだよということを、端的に簡潔に言い表せているではありませんか。

ただ、そのような良質な番組にあっても、どうしても何かの拍子に世の男女二元制と異性愛主義に絡め取られて、私などから見れば気になってしまう点が出てくることもまたありがちではあります。

中でもしばしば遭遇するのが、トランスジェンダーが語るライフストーリーを紹介する際、性別違和を意識したきっかけとして「恋心をいだいた相手が『同性』だった」にフォーカスした編集です。

これを公然と提示されると、どうしても違和感を覚えてしまいます。

言うまでもなく、自分がどんな自分でありたいか、と、恋愛や性的関心の対象がどんな相手か、は、それぞれ独立した別個の変数です。

例えば「自分が男だから、恋愛対象は女なはず」というのは悪しき異性愛主義による誤った通念です。

したがって「自分は男なのに、恋愛対象も男なのは、もしかして自分が女だから?」というのも論理的に成り立ちません

コレは、語る本人にも注意を払う努力は望まれますが、当人にとっては実際に自分史の中で印象的な出来事なのでしょうから、一連の語りから除外はできないという事情は顧みられてよいでしょう。

あるいは、こうした当事者の「自分語り」は、本人も言語化が難しいような胸の奥に渦巻く混沌とした思いもあるでしょうし、一般の理解がまだまだ深い域には達していない中では、標準的な男女二元制・異性愛主義の枠内に生きる人にも理解可能なかたちに「翻訳」せざるをえないという事情もあります。

それゆえ、最後は番組をつくる側が、しっかりとコトの次第を理解して、いろいろミスリードを招きやすいポイントに最大限の慎重な配慮をしながら構成していってほしいところなのです。

また、テレビもバラエティ番組などでは、セクシュアルマイノリティ系タレントを「オネェ系」と単純に一括りにした上で、恋愛対象が「男性」なのが本物のオネェ、恋愛対象が「女性」ならオネェとして偽物………であるかのような設定が、まだまだ幅をきかせています。

それは、まさに市井で日常生活を送る、多くの人々のすぐそばにも居る隣人としてのセクシュアルマイノリティ像とは、かけ離れた架空の想定に基いています。

これらが一般での誤解を再生産し、偏見と差別の要因にもなっていることは想像に難くありません。

いまだ非常に影響力の大きいマスメディアであるテレビにあっては、こうした点の総合的な改善を、ぜひとも早急に推し進めていってほしいと、強く要望したいところです。