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[3:戦隊ヒーローの先見と仮面ライダーの転身]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて、プリキュアシリーズの興隆によって既存の「男の子アニメ」も進化を迫られている問題。
その最前線はといえば、やはり同じ日曜日の朝に継続的なシリーズとして年々続いている戦隊ヒーロー平成仮面ライダーシリーズでしょう。
※ここでのカギ括弧に入れた「男の子アニメ」にはアニメーション作品に限らず特撮なども含みます

実際、戦隊シリーズは最終回や新シリーズの初回がプリキュアシリーズの2週間ほど後というタイミングが通例化しておるため、2013年度の『獣電戦隊キョウリュウジャー』でも、終盤のせっかくのクライマックスとして盛り上がった熱い展開が「なんかコレ、先々週にドキドキプリキュアでも見たなぁ…」という印象によって減殺されてしまうという事態がなきにしもあらずでした。
キョウリュウジャーのクライマックスもヒーローものの王道として本当に熱く盛り上がっていたのですが、それに負けず劣らぬドキドキプリキュアの最終決戦編が2週早くあったため、こんなことも起こりうる、そういう内容がプリキュアシリーズでは展開される時代になったということですね。

ただ、プリキュア的なエッセンスを取り入れるという点では、むしろ戦隊シリーズには大いに先見性があったとも言えます。

つまりスーパー戦隊第1作とされるゴレンジャーの当初からモモレンジャーという女性戦士をレギュラーメンバーに加えていた点は、すでに先駆的であり、それがしかし紅一点であると指摘される問題に応えるためのさまざまな工夫もまた、シリーズの進捗とともに重ねられてきているのです。

特に、当初からレギュラー登場する基本ユニットである5人のうち2人が女性戦士という、近年の鉄板構成においては、その2人の女性戦士の部分を切り取った際、多分に擬似的な「ふたりはプリキュア」要素が見て取れます。

性格や得意分野が異なる2人の女性が、その差異ゆえに惹かれ合いつつも摩擦を起こし、そしてそれを乗り越えて紡がれる親密性。
そんな2人のコンビネーションが戦いにおいて大きな力になる――。

近年では、『侍戦隊シンケンジャー』(2009)や『特捜戦隊デカレンジャー』(2004)での女性2人組にスポットがあたる回も良エピソードでした。
(→「ふたりは侍♪スプラッシュ☆モジカラ!」)

『デカレンジャー』のピンクとイエローであるウメコとジャスミンの2人組には、作中半ば公式に「ツインカムエンジェル」というユニット名もついていたくらい(元々はEpisode.17のサブタイトル)なので、この2人組をメインに据えたスピンオフ作品も作れるよなぁ……とは10年前の本放送当時ひそかに思っていたものです。

こうした要素は、最新作『烈車戦隊トッキュウジャー』にも受け継がれていますが、もちろん『デカレンジャー』以前の『電磁戦隊メガレンジャー』(1997)まで遡ることも可能です。

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§画像は放送画面より。この一連の記事中同じ

つまり「女性2人戦隊」には、プリキュアシリーズが始まる以前から「ふたりはプリキュア」要素が包含されていた!

すなわち、この点では本家プリキュアシリーズに対してさえ、一定のアドバンテージを持っていると言えるでしょう。

……そう考えると、「基本ユニット5人中 女性2人戦隊」には、そうでない場合に比して名作率が高いような気がするのもあながち的外れではないのかもしれません。

基本ユニットが3人編成のパターンも近年多いですが、この場合、女性は1人だけになるため、女性どうしの関係性描写という観点からは、どうしても薄味になってしまいます。
上述の『獣電戦隊キョウリュウジャー』も全体としては面白かったにせよ、こちらは基本ユニット5人のうちでは女性は1人だけだったので、この点ではかなり弱かったと言わざるを得ません。

いずれにせよ、「戦隊内プリキュア]をどう描くか」は、毎年の戦隊シリーズ各作品の方向性を決めるうえで、今後さらに重要なポイントとなっていくのはまちがいありません。


一方、仮面ライダー

仮面ライダーは戦隊シリーズとちがってチームヒーローではありません。
1作品中に複数のライダーが登場する場合でも、いわばメンバーが1名のチームが複数という位置付けですので、したがって、メンバーのうちの何人かを女性にするというような取り扱いは難しい構造上にあります。

女性の仮面ライダーも、すでにいくつも事例は挙げられるようになってきてはいますが、基本的にはレギュラーではなく、あくまでも例外的な位置づけです。

そんな中で、配置されるレギュラー女性キャラは、仮面ライダーに変身して戦う主人公の近くにいる親しい女性として、主人公を手助けし心の支えとなる「ヒロイン」という役回りで配置されるのもまた、定石として採用され続けるところとなっています。

表面的にはこのような状況ですから、作品の主軸として変身して戦うメンバーの中枢に「女性の物語」を配置することは、仮面ライダーシリーズでは構造的に困難ということもできましょう。

ただ、平成仮面ライダーシリーズは、当然に平成の時代に合わせて、第1作の『仮面ライダー クウガ』(2000)の時点からすでに、作品世界の設定をいろいろと工夫して練り上げているのも事実です。
(→「#013 いまどきの仮面ライダー」)

中身をじっくり観察すれば、悪い意味で昭和的な汗臭い「男のドラマ」は慎重に脱色され、視聴者の性別にかかわらずに感情移入可能な、今日的な価値規準に基づいたテーマが設定されています。

『仮面ライダー電王』(2007)では、「変身」のシステムが明らかに、「なかよし」連載の少女マンガが原作である『しゅごキャラ!』と同じだったりもしましたが、のみならず、テーマ等々でも重なるところは、仔細に見るといろいろ見つかるでしょう。

また、象徴的なのは『仮面ライダー フォーゼ』(2011)が仮面ライダーとしては初めて主人公らを高校生として学園ものの要素を導入したことです。

プリキュアシリーズでは主人公たちは概ね中学生となっていますが、このように、どこにでもいるごく普通の中学生や高校生が変身して戦う主人公となることは、「守るべき大切な日常」をわかりやすく強調する効果があり、以て、主人公らの戦いを、お題目に従っただけの「正義と秩序」のためのものではなく、自分自身の心の声に沿った本当に守りたい大切なものを守るための「ケアとキュア」の戦いとして描くこととの親和性を高めます。

その意味でも、『フォーゼ』はプリキュア的なヒーロー物語のエッセンスを仮面ライダーシリーズにも大胆に導入したことを宣言した作品だったと言えます。
2012年の5月の放送回での京都へ修学旅行へ行くという展開が、同日放送の『スマイルプリキュア』とカブったのも、そう考えると必然だったのかもしれません。

なお、戦隊シリーズでは前述の『電磁戦隊メガレンジャー』が、すでにこの「普通の高校生が変身」という設定を採用し、学園もの的な要素も取り入れていましたが、その前例はさらに『高速戦隊ターボレンジャー』(1989)まで遡ることができるという点では、やはり一歩先を進んでいたと言えるでしょう(戦隊の場合、メンバーの一部が高校生というケースならさらに事例は多い)。

あと、『仮面ライダーW』(2009)あたり以降、特に顕著なのですが、仮面ライダーが倒す直接の敵が、何らかの人格を持った生物ではなく、いわゆる闇のエネルギーが実体化した無生物モンスターのようなものだったり、その倒し方も「殺す」というよりは、取り憑いている闇のエネルギーを除去して「浄化する」という形式をとることが主流化しています。

人の心の中の負の要素が闇のエネルギーにつけ込まれてしまうようなパターンでも、実体化したモンスターは無生物で、その間そのモンスターの元となった心に闇を抱えていた本人は気絶して傍らに倒れていたりしており、モンスターが浄化された後には無事に正気に戻って救済されるのが通例です
(こうした設定ゆえに逆にモンスターが倒されるときに豪快に爆発させるような映像表現上は派手な描写も問題なく可能になる)。

この方式は、旧来からありがちだった「ヒーローは正義のためと称して敵を容赦なく殺害している。傲慢で残酷だ。教育上よくない」というような批判に対する、一定の回答ともなりうるものです。
また、変身して戦うのが普通の中学生や高校生である作品では、主人公らに「殺し」をさせるわけにはいきませんから、そのための作劇上の配慮としても有効に機能することになります。

そして、この方式の普及には、これを初代『ふたりはプリキュア』(2004)以来ずっと常用するところとなっているプリキュアシリーズの存在が、大きな影響力を及ぼしているのはまちがいないでしょう。

つまり、元は「女の子にあまりに乱暴なことをさせるとクレームも来るだろう」からと工夫され採用された設定が、今では他のヒーローもの・「男の子アニメ」にも導入され、なくてはならない方式となっていると解釈できるわけです。

やはり今やプリキュアシリーズに学ぶことは、あらゆるヒーローものにとって必須となってきたと言っても過言ではないのかもしれません。


このように日曜朝のプリキュアと並ぶ2大シリーズ、戦隊ヒーローと平成仮面ライダーシリーズは、プリキュアシリーズと適度な距離感を保ちつつ、相互に研鑽しながら進化を続けていると言ってよさそうです。

今後とも多面的に観察を続けつつ、とりあえずは楽しく視聴を続けてみたいところです。

それでは次記事からは、日本を代表するヒーローものとして、他の定番モノも見ていくことにしましょう。


  

 


◎チームヒーロー内の性別比率という点では、プリキュアが逆に男性には解放されていない問題が現状では指摘可能ではあります。
もっとも男装の麗人」がプリキュアに変身する前例はすでにあります。
あるいは、プリキュアに変身したら瞳や髪の色や形も変わる(変身前は子どもで変身したら大人になるキュアエースの例などもある)ことが通常ですから、この先男の子がプリキュアに変身して女の子になったとしてもじつは何の不思議もないのです。
せめて「男の娘プリキュア」くらいは、そろそろ真面目に検討してもよい気はします。
プリキュアシリーズが今よりもっと一皮むけて、さらに発展的に広がっていくためには、「男の子はプリキュアになれない」問題とは何らかの形で折り合いのつけどころを見つけて、それを明らかに描写していく必要はあるでしょう。
ただ、その結果プリキュアのチームが安易に男女混成になって、あまつさえチーム内恋愛もかまびすしい、因習的ななラブコメチックな話になっても困るというものです。
男性キャラが主人公の直近の対等な立場に配置されるとどうしても現実世界のジェンダー秩序の影響を受けるし、下手な恋愛ボケ展開にも陥る危険があるのは、ぜひとも留意されねばなりません。
ジェンダー規範に邪魔されずに個々の女性キャラを生き生きと動かせる舞台を整えるためには、やはり女の子だけに限定することが物語の設定上有効であることは認めないといけないでしょう。
そもそも、ほんのちょっと前までは、あらゆる物語において、女の子は主体的な主役になれなかったのです。
「女」「男」の置かれた立ち位置が現実に不均衡なジェンダー構造の中で、それを勘案せずに個々の事例の表面だけを見て「男性差別だ!」などと主張する愚を、この「男の子はプリキュアになれない」問題にまで持ち込むのは適切ではありません。

 

◎プリキュアシリーズではメイン主人公の周辺にいる女の子たちも、たいていは皆プリキュアになって仲間になるので、仮面ライダーシリーズの「ヒロイン」のようなポジションの人物がプリキュアシリーズに配置されていたらどうなるのかについて、仮面ライダーシリーズとの比較が難しかったのですが、ソコのところを上手いこと描き出してくれたのが、『戦姫絶唱シンフォギア』の立花響に対する小日向未来の存在なのではないでしょうか。

 

◎作中にじつは「ふたりはプリキュア要素」が包含されている――という観点では、例えば2013年の10~12月に放映された実写ドラマ『ミスパイロット』も注目したいところです。
全日空旅客機の操縦士をめざして訓練生となった2人の女性(演:堀北真希×相武紗季)をめぐる物語は「タイプの違う2人の女性が軋轢を乗り越えて親密性を育み、やがてそんな2人の絆がなくてはならない大切なものになる」というまさに「ふたりはプリキュア展開」が主軸となっていました。
もとより女性が操縦士という「男性職種」に挑戦するという点でも意義深いドラマなのですが、訓練生の同期の男性たちも、過剰な恋愛感情もセクハラも控えて、対等な「仲間」という落としどころに(つまり戦隊ヒーローの「女性2人」に対する「男性3人」のようなテイストで)描かれていたのは好感が持てます。
主人公と教官との恋愛も、それを期待した視聴者には見事な裏切りで、最終回には主人公の「逆告白」でキッパリ否定さえされており、主人公の主体性が上司である男性との恋愛に回収されてしまうことも避けられていました。
…なのでワタシが「なんだ、画期的なドラマかと思ったけど、結局は職種を客室乗務員から操縦士に移しただけの因習的な『スチュワーデス物語』にすぎないじゃん!」と失望する事態も、無事に回避されました(^^)v
ゴールデンタイムの実写ドラマは、どうしても多数派層向けの男女二元的異性愛物語に陥りがちな気がして、日頃はどちらかというと避け気味なワタシですが、たまにこういう掘り出し物があるので油断はできないですね。


 


 


[2:天空の城ラピュタの凋落]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

2013年の10~12月に放映されたアニメ『ガリレイドンナ』は、ガリレオ・ガリレイの子孫にあたる三姉妹が、政府機関さえ動かす力を持つ黒幕の大企業や空中海賊の一味に追われながら、謎に包まれた先祖の遺産を探すというストーリーでした。

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§画像は放送画面より。この一連の記事中同じ

このあらすじを最初に知ったとき、私はどことなく、宮崎駿監督作品にしてスタジオジブリアニメの代表作のひとつでもある『天空の城ラピュタ』を連想しました。

ある意味『ガリレイドンナ』は、いわば「大胆な脚色を加えてリメイクされた今どきの天空の城ラピュタ」だったと言えるかもしれません。

※この他このクールでは、『凪のあすから』が「大胆な脚色を加えてリメイクされた今どきの崖の上のポニョ」、『のんのんびより』が「大胆な脚色を加えてリメイクされた今どきのとなりのトトロ」であったような気がするとかしないとか……(笑)

『ガリレイドンナ』では、三姉妹の移動手段であり、家であり、追手に反撃するための武力でもある金魚型の飛行艦艇「ガリレオ号」を設計・制作したのは、メカ大好き少女である三女の星月ちゃん。
ガリレオ号の他にもいくつもの発明品があり、それを裏打ちする理論面での学識も相当なレベルです。

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このように、いわゆる「リケジョ」――理系女子のひとつのあり方がキチンとアニメキャラとして好ましく描かれていた点は、ジェンダー観点で評価した場合にも非常に意義深かったです。


  


一方、本家『天空の城ラピュタ』のほうはどうなのでしょうか。

2013年の夏、新作『風立ちぬ』の劇場公開を盛り上げる一環で、宮崎駿監督ジブリアニメの過去作がテレビ地上波で放送された中に『ラピュタ』もありました。

『ラピュタ』はすでに何度か観たことがありますし、映像ソフト化もされ、レンタルもされていますから、その気になればいつでも見れるっちゃー見れるのですが、このときはたまたまタイミングが合って、ひととおり視聴することとなりました。

ジェンダー観点で評価すれば、『ラピュタ』の前作である『風の谷のナウシカ』をはじめ宮崎駿監督作品には女性主人公が主体的に活き活きと活躍するものが相応に多い中で、この『ラピュタ』は相対的に、男の子のパズーがかよわい女の子であるシータを守って奮戦するという趣が多分に濃厚な点がマイナス部分なのは確かです。

さりとて、そういう小難しい案件をひとまず横に置くなら、この『天空の城ラピュタ』は傑出した冒険活劇であり、宮崎駿監督作品として、スタジオジブリアニメとして、屈指のエンターテイメント作品である――、


……そう思っていた時期がワタシにもありましたw


ぃや、この2013年夏のオンエアで『ラピュタ』を見直すと、マジなんか違いました。
記憶の中にある印象ほどには、面白くないのです。
むしろつまらない!?
どうも視聴者としてカタルシスを得られる展開になってくれないのです。

シータはたしかに芯の強さを持った女性キャラクターです。
宮崎駿が言うように、意味もなく水浴びに行っては悪者に誘拐されたり、いざというときには「キャーッ」と悲鳴を上げて卒倒して後は主人公(←男性)の足手まといになるだけのヒロインではありません。
しかし、じゃあ何をするかといえば結局は勝ち誇るムスカに向かって気丈に睨みつけながら「卑怯者!」などと罵倒する程度。
この点、あらかじめわかっていたはずのこととはいえ、やはり何かもどかしく物足りません。

そしてパズー。
シータのために獅子奮迅の大活躍をするはずの男・パズーさえ、よくよく見ると、たいして何もしていなかったのです。
どっちかというと状況に流されるまま、その場しのぎの行動をしているようにさえ見受けられます。

いやはや、なんということでしょう。

これは、ひとつには久しぶりの複数回目視聴だったことも基本的な一因と考えられます。

また、私自身のジェンダーやセクシュアリティに関する知見の蓄積によって、その方面からの鑑識眼が高次元化してきたこととも背景にはあるでしょう。

しかし、今回のもっとも大きな原因は、やっぱりおそらくはアレです。
すなわち前記事の『聖闘士星矢Ω』の問題とも通底する、いわば「プリキュアシリーズを見慣れてしまったことによってプリキュア的展開がスタンダードになってしまったモンダイ」。(^^)

それが『天空の城ラピュタ』から受ける印象を大きく変えてしまったのではないでしょうか。

思えば『ラピュタ』とは企画のルーツを辿ったときに母体を同じうする『ふしぎの海のナディア』の「デジタルリマスター版」が2012年度にNHKでオンエアされたのを視聴したときも、同様の感想を抱いたものです。

まぁ、そうですよね~。
今なら『ナディア』にせよ『ラピュタ』にせよ、絶対ナディアもシータも、ブルーウォーターや飛行石の力でプリキュアのような何かに自分で変身して自分で戦うでしょうからねー
(^o^;)
(ついでに付け加えるなら『未来少年コナン』のラナも。彼女の場合そもそも「博士の孫娘」であり、しかも「超能力者」。絶対にそのスジの属性持ちではありませんか!w)

つまるところ、『プリキュア』はおろか『セーラームーン』さえまだだった『ナディア』や『ラピュタ』(および『コナン』)の時代的な限界ということなのでしょう。

ともあれ、こうした『天空の城ラピュタ』のような名作の誉れの高い作品の評価さえ変えてしまいうるプリキュアシリーズの影響力。
相当に侮れないものなのかもしれません。

 

◎というわけでプリキュア時代の今風にリメイクした
『天空の城ラピュタ1889』 by佐倉智美、考えてみました(^o^;)
(舞台が1889年ってのはナディアのほうの設定から借用)

身寄りのない少女シータは、謎のあしながおじさんの厚意で全寮制の女子中学校に通っている、聡明で闊達、かつ友達思いの心優しい少女だった。
シータがじつはラピュタ王国の末裔であるという事実を知っているのは、「謎のあしながおじさん」の正体であるムスカのみ。ムスカは厚意で学費を出すと装って、シータを自らの目の届くところに置いているのだった。

そんなシータの親友にしてルームメイトは、アリス・パズー・ヨツバ
大財閥の一人娘で、物心両面からシータの支えとなっている。

「ねぇシータ、今日は日曜日で、学校の行事も何もありませんわ。よかったらいっしょにお買い物に行きませんか?」
「ありがとうアリス。ぜひ行きたいわ」

ある日、そうやって出かけようとしたシータたちに、空中から飛行戦艦が立ちはだかる。
ラピュタを再起動するための三種の神器のうち2つまでを手に入れたムスカの依頼で、残りの1つを回収するために雇われた空中海賊の一味だった。

飛行戦艦から空中ディンギーで地上に降り立つ海賊たち。
そのキャプテンと思われるのは以外な人物だった。

「ど~も~、キャプテン・マリカでーす。三種の神器の残りのひとつ。いただきにきましたー。とっとと渡しちゃってくださ~い!」

なんと、同じ学校の高等部の先輩で、空中ヨット部の部長でもあるイケメン女子高生、マリカ・ドーラ・カトウではないか。

(中略)

「お願い、飛行石に三種の神器、もう少しだけ私に力を貸して!」

リュシータ・トエル・ウル・ラピュタギアを身に纏って、さしずめ「伝説の戦士」とでもいった姿に変身したシータの神々しい輝きは、さらに増していた。

コントロールを失ったロボット兵が迫ってくるのを、できるだけ優しく排除しながら、シータはラピュタ中枢部をめざして飛ぶ。
先刻の軍隊との一戦での、一般の兵士たちに極力危害を加えずに戦力を殲滅する匙加減とは、またちがった難しさだ。

ラピュタのエネルギーコアの暴走は、更に進んでいた。
周辺の重力場さえ歪めながら強力な電磁パルスを撒き散らしている。

「弁天丸、聞こえる? シータさんを援護、ロボット兵を引きつけて。それから軍隊がバカなことしないように威圧しといちゃって」

マリカが軍艦の甲板上から飛ばした通信はなんとか届いたようだ。

同じように自分の端末を操作していたムスカは、通信が途絶したと知るやいなや端末を投げ捨て、そしてマリカたちに向かって叫ぶ。

「おい、ヤツはどこへ向かっている? 何をしようとしているんだ!?」

アリスがゆっくりと一歩前に出ると静かに口を開いた。

「シータがよく話してましたわ。おばあちゃんからいろいろな呪文を教わったって……。その中には普段は絶対に使ってはいけない封印の呪文……、いわばすべてを無に帰する滅びの言葉もあったとか」

「な、なんだと」

驚くムスカに少しだけ顔を向けると、マリカは言葉を継いだ。

「シータさんは、それを使ってこの場を収めるつもりなんでしょうね」

「そ、そんな、この貴重なラピュタの……すべてを無に帰するだと? ぃやダメだ。ダメだ、絶対にダメだ」

ムスカは狼狽した。

「そ、そうだ海賊! オマエなんとかしろ、ヤツを止めろ、封印の呪文など使わせるな!」

しかしマリカは応じず、その場を動こうともしなかった。

「お、ぉい、雇い主の命令が聞けないのか!」

苛立つムスカの恫喝。
それでもマリカは微笑をもって、それを受け流した。
代わりに説明を引き受けたのはアリスだった。

「……残念。じつは少し前から雇い主が変わったんです」

「な、なにぃ?」

マリカの後方で静かに微笑みながらアリスは続けた。

「こちら、私とマリカさんとの間の契約書ですわ」

アリスがおもむろに取り出した書類を掲げる。

「ば、ばかな。俺との契約はどうなる。……ぉ、おぃ海賊、契約の途中放棄か!? そんなことをしたらどうなるか、わかってるんだろうな」

これにも直接回答したのはアリスだった

「こちらはアナタとマリカさんの契約書。この17条に定められているとおりの違約金、すでにヨツバ銀行のアナタの口座に振り込み済みです。こちらがその証書……」

「なっ……」

「これで法律上、何の問題もありませんわ」

表面上はぽかぽかした陽だまりのような笑顔でそう宣告するアリス。ムスカは歯ぎしりしたが、もはやどうしようもなくなっていた。

「こ、この小娘ども……」

マリカはそんなムスカを念のため拳銃で牽制しながら釘を差した。

「そんなわけですから、シータさんの邪魔はさせません。しばらくそこで地団駄でも踏んどいちゃってくださ~い」

この間にシータはラピュタのコアブロックに到達していた。

「リテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール」

シータのラピュタギアが金色に輝き、コアブロック内部への動線が開く。

「これ以上……ラピュタの力を、これ以上、悪い人に利用されたくない。かわいそうなロボットの兵隊さんたちを、もう苦しめたくない」

シータは思いを巡らせた。

「……そして世界中に、昔の私のような悲しい思いに囚われる人をいないようにしたい。平和に、みんな楽しく、アリスやマリカさんといっしょに暮らしたい!」

煮えたぎるように渦巻くエネルギーコアの核心が目の前にあった。

腕を伸ばし、掌をかざすように掲げたシータは、渾身の願いを込めて唱えた。

「……バルス!」

(後略)


なんか各方面から叱られそうな気がしてきた(^^ゞ
(スミマセン、スミマセン;)


 


[1:聖闘士星矢Ωの迷宮]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

2年間にわたってオンエアされた『聖闘士星矢Ω』が、去る2014年3月、最終回を迎えました。

最終話をチラ見した限りでは、新旧キャラ総出演での大団円を迎えた模様。
まずは良い形でのエンディングだったと言ってよさそうです。


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§画像は放送画面より。以下この一連の記事中同じ


……とはいえ、じつはワタシは視聴脱落組
放送開始から半年ほどで視聴モチベーションが切れてしまっており、2012年の10月からの「新十二宮編」よりこちらは要所要所でどんなことをやっているのか確認はしたものの、それが視聴モチベを再燃させるには至らず、そのままオンエアのほうが終わってしまった形です。

なぜ、そんなことになってしまったのか?

細かい点はいろいろ挙げられましょうが、要するに、原因をひとことで言えば、やはりこういうことでしょう。
プリキュアシリーズの盛り上がりで割を食った――。

なにせ同じ日曜日の朝、2時間後には『スマイルプリキュア』や『ドキドキプリキュア』をやっていたわけです。
そこでは主人公たちが「聖闘士星矢」の世界と同じように等身大装着系変身によって悪役とのバトルアクションを繰り広げており、友情・努力・勝利の物語が描かれていました。

つまり「聖闘士星矢」で見たいものは「プリキュア」でじゅうぶんに供給可能であったのです。

実際、『スマイルプリキュア』23話などは、中盤の「暫定最終回」とも呼ばれ、その充実したアクションにも裏打ちされた熱い展開が高く評価されているところですが、この回のシナリオは典型的に、じつは「聖闘士星矢」にも――囚われの身だった妖精キャンディが女神アテナで、それを助けに行くプリキュアたちが聖闘士だと置き換えれば――問題なく流用可能なものでした。

逆に言えば、「聖闘士星矢」的な物語のエッセンスを今の時代に合わせて消化吸収し、発展的に継承するという仕事をもしているのがプリキュアシリーズだと解することもできます。

いわば、本来この時代に『聖闘士星矢Ω』として描くべき物語を、より適切な形で描写してしまったのが『スマイルプリキュア』(およびその後番組の『ドキドキプリキュア』)だったのではないでしょうか。

こうした危惧は、番組開始当初からないではなかったものの、最初期には、いわゆる女聖闘士ユナの仮面問題の扱いなどに代表されるような見どころも少なくはなかったです。
(→「新世代の聖闘士星矢はじまる!」)

しかし、いかんせんプリキュアシリーズを見慣れてしまうと、せっかく集めたコスモクリスタルが、それを収納する「箱型アイテム」のパワーアップアイテムとしての登場(笑)を見ないまま、取り扱いが回収されてしまったのは、何やら肩透かしを食らった気分になってしまうものです。
こうしたことが冗談の域を超えて物足りなさにつながるようなことは、地味にじわじわ効いていたのではないでしょうか?

また反対に、もっとハードな「男の戦い」を期待する層に対しては、『Ω』の展開は何やら生ぬるい・甘いと感じられることもあったやもしれません。
(→「聖闘士星矢Ωがプリキュアみたいなのではない」)

つまるところ、位置づけが中途半端。
むしろ、もう少し思い切ってプリキュア寄りの展開を取り入れるか、さもなくば少年マンガ原作の(例えば『刃牙』みたいな)マスキュリニティをを前面に出した格闘ものと割り切ったテイストに徹するか。
いずれかの道を明確にしないと難しかったのかもしれませんね。


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もとよりオリジナルの原作コミック『聖闘士星矢』は1980年代の作品。
少年ジャンプへの連載開始時期的に見れば、ポスト『キン肉マン』、ポスト『北斗の拳』として期待された作品です。
時代背景的にはバブル経済の絶頂期へ向かって景気がのぼりつめようとしていた頃合い。

そんな当時の少年マンガのトレンドは、戦いが自己目的化した、延々と続く格闘自体を楽しむもの。
当時ワタシが卒論の資料にと読んでいた『新人類がゆく~ニュータイプ若者論・感性差別化社会へ向けて』(アクロス編集室編著 PARCO出版 1985)でも、次のように述べられています。

『キン肉マン』の闘いにも『北斗の拳』の闘いにも目的がない。
……キン肉マン……の闘いはリングの中で繰り広げられ……テレビ中継までされる……。「地球を守るための闘い」という部分には、ほとんど意味がない。彼らは闘うために闘っているのであり、面白いのはどんなキャラクターが登場してどんな技を使うかなのだ。
……『北斗の拳』の闘いもまた、闘いのための闘い。究極的な目的などない。『北斗の拳』の面白さもまた“北斗神拳”というワザそのものの中にある。
(p.171~172)

このような趣向のジャンル自体は、それはそれで面白いものでしょうし、これが1980年代に限られた特色なのかどうかも検証が必要なところです。
とはいえ『聖闘士星矢』もまた、こうした路線の延長上にあるのは否めません。

実際、女神アテナを守って戦う聖闘士といっても、守らなかったらどうなるのかという点は、じつはけっこう抽象的です。
聖闘士となる少年少女たちひとりひとりの戦士である意味・動機付けの部分も、どこか曖昧で漠然としています。
何より聖闘士である少年少女たち自身には「守るべき大切な日常」がありません。

そうしてこの点が、今日における日曜朝のアニメの原作としてはフォーマットが古いという問題を醸し出していたというのは大いにありえます。

先述の『スマイルプリキュア』23話のシナリオはキャラクターを置き換えれば聖闘士星矢としても流用可能という件ですが、その前段、22話の後半に目を向ければ、そこでは主人公たちが一時的な敗北を受けて、自身がプリキュアである意味を問い直し、自分にとって何が大切で、何を守りたいのか、そして今どうしたいのか? そのためには仲間とどのようにつながりたいのか? を内省する展開が時間をとって描写されています。

このことは「守るべき大切な日常」(とソレに立脚した「仲間」)を持つプリキュアシリーズの主人公たちだからこそ可能な描写であり、例えば「聖闘士星矢」の枠組みでは、ちょっと考えづらいプロットだったと言えるでしょう。

これがまた、2012年度という、震災の傷跡も生々しい時代状況の社会において、視聴者のニーズにマッチしていたことは想像に難くありません。


   


むろんこれらは「個人の感想です」の範疇を多分に含むところではあります。

しかし、ひとつ確実に言えるのは、2014年度には10周年を迎えたプリキュアシリーズが、すでに女児向け「女の子アニメ」の既成概念を大きく超え、幾多の「少年マンガ」「男の子アニメ」の要素を取り込みながら成長を遂げ、日本を代表するヒーローものの一角を占める地位に至った現在においては、既存の「男の子アニメ」シリーズも安穏とはしていられないということです。

かたや「女の子アニメ」、こちらは「男の子アニメ」だから……という区分はもはや何の根拠もありません(ので、一連の本稿での当該表現も、あくまでもあえての便宜上のものです)
同じ土俵で競いながら切磋琢磨しあい、プリキュアシリーズの優れた部分は取り入れていかないと「男の子アニメ」も時代から取り残されてしまうにちがいありません。

というわけで、次記事からもしばらく、この問題を順を追って考えていきたいと思います。

 

◎上述の『スマイルプリキュア』23話付近では、プリキュアに力を与えている源がメルヘンランドの伝説の聖獣「ペガサス」であることが判明し、23話でのパワーアップによる新必殺技では背景のイメージ映像に星座のペガサス座もあしらわれるのですが、これがまた「聖闘士星矢」とモチーフがカブるという事態になっていました。
『ドキドキプリキュア』でも最終回においてキュアハートが変身した最強フォームである「パルテノンモード」というのが、どうやらギリシア神話の女神アテナの鎧に元ネタがあるらしく、同様に「聖闘士星矢」とのモチーフカブりを起こしていました。
このあたり、制作側がどこまで意識的に何かを暗示しようとしていたかなどは不明ですが、結果的には、ある種の象徴的な符合なのかもしれません。

 

◎『キン肉マン』や『北斗の拳』では、キン消しバトルや「北斗の拳ごっこ」を通じて、作品世界が読者の日常生活と地続きになる現象が読み取れる旨、前掲書では指摘されています。これはまた別口で、今日にも続く興味深い切り口だと言えます。