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「ジェンダーとは何か?」をあらためて考える [多様なセクシュアリティ]

ジェンダーとは何か?」。

…………いやぃやいゃいや!
な、何をいまさらっ!?
(^o^;)

たしかに「ジェンダー研究所」を名乗って延々とさまざまな薀蓄を重ねてきたwebサイト上で、この期に及んで、まさかそんな基本的な大前提を再確認されても困るというものです。

今どき大学の廊下を少し歩けば、社会学系の学生どうしが、
「卒論テーマ、決まったん?」
「ぅん、やっぱり[ジェンダー]にしょうかなぁって思うねん」
……なんて会話をこともなげにしていたりさえします。

少なくとも、教養科目のどこかあたりでこの言葉を知る人は、もはや少なくはないでしょう。
ワタシが学部学生だったン十年前にくらべれば、「ジェンダー」も随分と人口に膾炙したものです。

ですから、
社会的・文化的に 構築・強化された 性別・性差 】、
ジェンダーとは何かと問われれば、このあたりの「教科書的な意味」については、相当数の人々の間で共有されていると考えるのも、そうそう差し支えのある話ではないでしょう。


しかし、そのような状況だからこそ、逆になんとなくわかったつもりになっているだけということもありえます。
人によって捉えている意味がまちまちで、そのバラつきに結構な幅があったりする可能性も高まっているでしょう。

だいたい、「社会的に強化」されるとか「文化的に構築」されちゃうというのはどういうことなのか、はたまたそもそも「性別」とは何のことで、「性差」とは何を指すのかなどなど、つきつめだすと、たしかによくわからない。

上述の大学の廊下での学生の会話にしても、「ジェンダー」が社会にあまねく張り巡らされている性別にまつわる秩序であり体制であるとすれば、それは当然に世の中のありとあらゆる物事と関わってきますから、たとえ「卒論を[ジェンダー]にする」と決めたところで、それは調査や分析の観点が性別・性差に着目したものになるという方針が決まっただけで、では具体的なテーマとして何を研究するのかという点は、じつは未だほとんど何も決まっていないようなものではありませんか。

そういう意味では、むしろここらへんで今一度、「ジェンダーとは何か?」について、軽く再考しておくのも悪くないはずです。

もちろん本記事が、読めば「ジェンダーとは何か」についてのすべてが理解できる、そういうものとしてまとめられるわけでもありません。
……例によって、むしろよけいに「わけがわからなくなる」かもしれません(^o^;)。


とはいえ、それこそ大学の「ジェンダー論」の授業の序盤3回分くらいに相当する内容をガッツリ叙述するのは、この場ではダルすぎます。

なので、

→元々は「男性名詞」と「女性名詞」の区分がある言語圏で、その名詞の「性別」概念を表す語が「ジェンダー」だった

→20世紀のフェミニズムの進展の中で、生物学的な男女の差異とは別に、それを補完・強化するものとして、社会的につくられた人を男女で分けて捉える体制・文化として規範化された性差意識等々が存在することが可視化され、生物学的性別「セックス sex 」に対して「ジェンダー gender 」と呼ばれはじめた。

……といった(超ザックリした概論)あたりは、もう飛ばしてイイですね? (^^ゞ

思えばシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれない、女になるのだ」という言葉は、後年において「ジェンダー」の語が充当されることになる概念を、その「女」の立場から先見的に言い表していたと言うこともできるでしょう。

ただ、gender の概念と語の使用に関しては、細かく見ると各分野ごとに相応の異なった経緯もあるようです。
また、例えば英語圏での[ gender ]と日本語圏での「ジェンダー」では、やはり意味合いが必ずしも完全一致しない現状となっていて、「誤訳だ」との指摘も出ています。
実際には、日本に移入された時点以降、さまざまなところで使用され普及する過程で、日本語(の外来語)として独自に発展を遂げたというところでしょう。
同様の用法の変化が欧米でも起こっている可能性もまた否めません。

また、生物学的な「セックス」としての性差以上に、「ジェンダー」として社会的・文化的に構成されている性別制度のありようや規範化されている性差の、具体事例としてどのようなものがあるのかについても、本記事ではあらためてとりあげることは省かせていただきましょう。

◎1点だけ、前記事(およびそれに連なる6記事)などとの整合性で補足しておくと、テレビの子ども番組なども、対象を男児女児で分けて制作され、各々が異なる内容となることで、結果的に男児か女児かで異なるメッセージを受け取ることで性差が社会的文化的に構築・強化される状況のもとにある、という「ジェンダー」問題の典型例でした(が、近年は「ジャンル・プリキュア」とでも呼べる作品群らによってそれが撹乱され、さまざまな変化も起きているのは時代の流れでしょう)



  


いずれにせよ、生物学的に明白な身体的な性別である「セックス sex 」がまずプラットフォームとして存在し、それに対して、そうした基盤上で展開する「社会的・文化的」な要因によって後天的に構成される性別にまつわるあれこれが「ジェンダー gender 」……という認識は、ここまでの「基礎的なレベルの説明」としては定石となっています。

このテーマについて語る際に共有される、いちおうのコンセンサスとして無難な基本線と言ってもよいでしょう。
これを守っていれば、初学者がいきなり「わけがわからなく」なったりすることも避けやすくなるというものです。

問題はここからです。

はたして それでよいのでしょうか?

「セックス sex 」と「ジェンダー gender 」は、本当にそういう位置関係なのでしょうか??

つまり、「社会的・文化的」な性別にまつわるあれこれであるジェンダーの問題は社会や文化のありように応じて可塑的なものであり、それゆえにフェミニズムなり男女共同参画なりのテーマに応じた議論の俎上に乗せうるものである一方、生物学的に女であったり男であったりすること自体は確固として存在する事実であって疑う余地がない……という前提には間違いはないのだろうか!? ということなのです。

生殖にかかわる身体のタイプというものはたしかにあります。

しかしそれはあくまでも「タイプの違い」。
有性生殖において、小さい配偶子を出すほうか、それとも大きい配偶子を担うほうか。
あくまでも、それにまつわる「タイプの違い」
それ以上でもそれ以下でもありません。

なのに、その違いを「オスとメス」と概念化し、さらにはそれをヒトの社会生活にとっても重要な「男と女」という性別の区分にまで発展させているのは、結局は人間による後天的な解釈ではないでしょうか。

だとしたら、それも――「生殖にかかわる身体のタイプ」を基に分かたれる「男と女」もまた「ジェンダー」ということになります。

だいたい生物学的性別とか言っても、そもそも「生物学」だって人間社会の文化の所産のひとつです。
そこでの知見が人類による解釈をまったくまじえない純然たる普遍的真理(というものがありうるかどうかは問わないにしても)であるかは大いに疑わしい。

こう考えると、「セックス sex 」と「ジェンダー gender 」を二項対立的に対等なものとして並列的に配置して認知するのは、大変に誤りだということになります。

すなわち、「生物学的に明白な身体的な性別」とされるものもまた、べつに人が生まれつきその「性別」で生まれてくるわけではなく、出生時に「生殖にかかわる身体のタイプ」にもとづく身体の特定部位の差異を目視で判断(が可能でないケースももちろんあるが)した結果を根拠として、社会が、その文化の基準に則して各人に付与していたものにすぎなかった、と考えることができるのです。

まずは人間社会に、「性別」を「男と女」として認識する文化的な価値体系があり、それを概念化している言語体系があり、それに基づいた現実認知のプロトコルが敷衍されているがために、それを通して見たときには、じつは単に「生殖にかかわる身体のタイプ」による差異にすぎないものを、「男と女」という「性別」であるかのように捕捉することが、あたかも真理であるように見えるだけ――と言い換えてもよいでしょう。

少しばかり「応用編」なジェンダー論の講座になると、元はジョーン・スコットの論考に起源する「ジェンダーとは『身体的差異に意味を与える知』」という定義が紹介されることもあるかもしれませんが、この言葉などは、このような考え方をふまえて初めて腑に落ちるものとなります。

ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』――非常に難解な本で、バトラーの論を正確に理解するには哲学などの知識も必要になりますが――に記した「セックスは、つねにすでにジェンダー」という知る人ぞ知る言葉もまた、この系譜に連なるものです。

そうして多くの人がこれらにインスパイアされ、今日では、こうした考え方も相応に広まってきているところです。

このように、「セックス sex 」か「ジェンダー gender 」か……ではなく、「なんだ、全部ジェンダーだったんじゃん」と解することで得られる視点の転換の意義は、ひとつ大きなポイントとなるのではないでしょうか。

◎なお、人は「性別」が身体的に確定した状態で生まれてくるのではなく出生後の解釈によって「男」or「女」という社会的属性=ジェンダーが付与されるのだ……という考え方に沿って、このように各人に(社会によって)付与されている「男」or「女」という「性別」属性自体のことを「ジェンダー」と呼ぶような表現も存在します。
例:「女というジェンダーを生活する」/「男ジェンダーに対して特に…」


「ぃや~、そうは言っても、やっぱり男と女では、まずは身体から違うし……」

たしかに、このあたりでそういう感想も出る頃合いかもしれません。

しかし、だからこそ、なおのこと私たちの社会における「男女」という指標を相対化する意義があるのです。

現に私たちが生きる社会システムが「男女」を区別する前提で構築されている以上、あらゆる物事を「男と女」という補助線に沿って捉えるほうが、理解しやすいのも事実です。

しかし、それこそがまさに物事の別の見え方を見えなくしているとも考えられないでしょうか。

ニクラス・ルーマンが言うところの観察上の盲点ということになりましょう。

ルーマンの「社会システム論」の言を借りるなら、ジェンダー問題においても、何がシステムで何が環境かは相対的なはずです。
単純に切り分けることは、むしろ複雑に絡み合った本質を捨象してしまうことになるでしょう。

結局のところ、「ジェンダー」にまつわるあらゆる事物は社会のシステムであり、「生物学的に明白な身体的な性別」とされるものであっても、その外部にアプリオリな環境として存在するわけではないと考えられます。


◎ルーマンの名が出たところで、ついでに言及するなら、本来はひとりひとりの性のありようは多様で混沌としているのに、ソコを「男女」という二元的性別制度に回収し、その男女間で恋愛や性行為をおこなうことを規範化する異性愛主義が、この社会でシステム化されていることには、ひとつ「複雑性の縮減」の機能があることは考えられます。
たしかに、それによって多すぎる可能性が整理され、選択肢が選びやすく提示されて助かっているケースも少なくないかもしれません(じつはそのように「複雑性が縮減されている」状態こそが、まさにルーマンが「複雑性の縮減」で言うところの「複雑性」だというのが後期ルーマン理論の核心なのでは……というような話は、とりあえず置いといて;)。
ただ、その「縮減」のされ方に不合理があると判明したならば、何らかの改良が施されることもまた不可能ではないはずです。社会のシステムであって、アプリオリな環境ではないのですから。


   


さて、ここで「ジェンダーとは何か?」について、もうひとつだけ、重要な観点を挙げておきましょう。

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の要諦として、先の「セックスは、つねにすでにジェンダー」と、表裏一体的に双璧をなすのが、「ジェンダーはパフォーマティブ――行為遂行的なもの」ではないでしょうか(これもまた難解なせいで各所にて誤解もあるようですし、ワタシ自身キチンと理解しているかはアヤシイですが;)。

人間は社会的な動物ですから、個々人のさまざまな特性に対する意味付けも、社会のいろいろな場で交流する他者とのやりとりのうちにおこなわれます。
必然的に「性別」にかかわることも。

そして、ここでアーヴィング・ゴッフマンらの相互行為論などもふまえれば、社会関係の場で呈示される自己というのは、他者に認識され解釈されてはじめて意味を持つわけですから、各人の性別についての自己表現の呈示もまた、互いにやりとりする相互作用の中にのみ成立することになります。

例えば、社会通念に則して「男らしい」あるいは「女らしい」行動をとった際、それが社会的に意味を成すのは、そのことを周囲がその意図どおりに受け止めて解釈してくれるからです。

周囲に自分の行動を解釈する他者がいてこそ「男らしさ」も「女らしさ」も成立するのです。

だから無人島でサバイバル生活をしているロビンソン・クルーソーには、いわば性別がないのです(無人島に漂着する以前の社会生活での知識に基づいて「男らしい」「女らしい」と自己解釈することは可能であっても、仮想的な他者の視点を設定し、それを通して解釈していることには変わりない)。

「ジェンダーは行為遂行的」というのは、概ねこういうことを言っていると解釈できるはずです。

上述したボーヴォワールの「人は女に生まれない、女になるのだ」になぞらえるなら、このバトラーの「ジェンダーは行為遂行的」というのは、いわば「人は女になるのではない、女をするのだ」と言っているようなものと考えられるでしょう。

私たちは日々の生活の中のさまざまな場面で、各自それぞれの場面に「ふさわしい」立ち居ふるまいを心がけることが社会生活上の配慮として求められます。
ゴッフマンらの論における「相互行為秩序」と呼ばれるものです。

これをみだりに乱すことは、「空気の読めない奴」等々の烙印を押されることにもつながるわけですが、そうならないように各々が注意を払うことで、実際には各場面がスムーズに進行し、全体がうまく行っているという現実もあります。

そして、この「ふさわしいふるまい」に性別がかかわるということは、各人が、その出生時に割り振られた「性別」に応じた行動を求められることとなり、多くの人がそれに従った行動をくり返すことで、その行動の「性別」に応じた「ふさわしさ」が意味付けされ直され続けるということでもあります。

主流化された「ジェンダー」規範情報に基づいて、その場の相互行為秩序を乱さないと思われる適切な自己呈示を互いにおこない、解釈し、評価しあう。
そうした、日々の社会生活の中で、行為され、演技されながら、再生産され続ける、性別にかかわる規範情報の大系が、まさに「ジェンダー」だと言うこともできるのです。

もちろん、これらに従うことで社会関係が円滑に動く側面もあるでしょうが、やはりこれもまた、本質的に固定されているものは何もなく、全ては社会における約束事なのであれば、時宜に応じて不都合を改めていくことは決して不可能ではないことでしょう。


[番外:セーラームーン先輩の当惑とビビッドレッドオペレーションのお尻問題]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

というわけで、プリキュアシリーズの興隆にともない、いわゆる「男の子アニメ」ジャンルの作品も各種の影響を受け、さまざまな革新が必要になっている様子を見てきました。

そしてそれは当然「女の子アニメ」の範囲内においても同様に言えることかもしれません
(正確には、「女の子アニメ」「男の子アニメ」という区分自体が無効化し、汎ジャンル的に相互作用が起きているのでしょうが、一連の本稿ではあえてジャンルを区切って述べてきました)

昔ながらのラストで「王子様と結ばれて幸せ」というようなオーソドックスすぎるプリンセス譚などは、今どきディズニーだって作りません
(ここ最近で言えば『アナと雪の女王』の相当な捻られ方がけっこう話題になっています)

そうでなくても、主人公の女の子にどのようなパワーリソースを付与し、いかなる課題を解決させていくのか、そのバリエーションはますます広がっていると言えるでしょう。


さて、そんな中で、元祖「女の子が自分で変身して戦う話」とされ、プリキュアシリーズから見て東映アニメーションで直系の先輩にあたる、『美少女戦士セーラームーン』の位置付けは、今日どうなっているのでしょうか?

ある意味では「プリキュア時代の困難」に「男の子アニメ」以上に直面する作品だとも言えそうです。

実際、セーラームーン20周年プロジェクトとしてセーラームーンの新作アニメが制作されることとなったものの、その公開は再三延期され、ようやく来たる2014年7月からニコニコ動画での配信が決まったところです。

理由は本当のところはいろいろあるのでしょうが、プリキュアシリーズが堅調な中で営業的にはわざわざ制作にリソースを割くインセンティブが東映アニメーションになかったからではとか、公開がネット配信のみでテレビ放送されないのもプリキュアの存在が遠因では?? …といった邪推は不可能ではありません。
たしかにテレビ放送枠という面では『聖闘士星矢Ω』の後番組というスッキリちょうどいい地位があったはずなのに、そこへ充当されなかったのは、やはり2時間後のプリキュアとのかねあいが理由だと言われれば、その真偽のほどにかかわらず、なんとなく説得力があるのは認めざるをえないでしょう。

『セーラームーン』旧作の功績は多大なものがあって、これがあってこそ「女の子だって変身して戦っていい」ということが人口に膾炙しました。

女の子主人公が主体的に何らかの力を持って自分で課題に立ち向かい成長していく物語の数々が以後つくられていくうえで、その地ならしの効果は絶大だったことでしょう。

また、男性との恋愛に回収されることなく複数の女の子キャラどうしが仲間として友情を紡ぎ親密性を育んでいく描写の嚆矢でもありえました。

加えて、変身や必殺技のバンク演出の定石を示し、「カワイイ女の子がかっこよく変身して戦う」様子を爽快に描写するための、アニメ表現上の基本メソッドを確立した点も評価すべきかもしれません。

とはいえ、プリキュアが10年間シリーズを重ねてきた今日、視聴者がソレを見慣れてしまった現時点の感覚で『セーラームーン』旧作を見直してみると、どこか物足りない感覚は禁じえません。

むろん、今日のデジタル制作と比べれば画面がもっさりしてる、とか、第1話のプロットも改善点が多々見つかったりするというのは、しょうがない面もあります。

しかしそれでも、主人公の「月野うさぎは、ちょっとドジで泣き虫だけど、元気いっぱいの中学2年生の女の子」という設定は、今となってはものすごく捻りのないプリミティブすぎるパラメーターに感じます
(そりゃまぁ『ドキドキプリキュア』の相田マナさんのプロフィールのほうが捻られすぎてるってのもありますが)

ストーリーの進行とともに謎が明かされていくのにともない、結局は旧来の「お姫様と王子様の物語」をかなりシンプルに引き写していることも判明します。
要するに、タキシード仮面との恋愛要素を含めて、話の大枠は守旧的な「女の子アニメ」の域を出ていない部分が意外と大きいわけです。

それを象徴するのが主題歌で、「ごめんね素直じゃなくて……思考回路はショート寸前……だって純情どうしよう」「占う恋の行方……ミラクルロマンス♪」という歌詞(作詞:小田佳奈子)は、つまるところ恋愛ソングです。

「可愛いだけじゃないのがガールズの約束」「君を信じる、ために戦う。無敵な 優しさ あつめて」と力強く歌うドキドキプリキュア主題歌(作詞:藤林聖子)などの歌詞と比較すると、かなり頼りない印象は否めないでしょう。

旧作のこうした点をきちんと総括したうえで、今般の『セーラームーン』新作アニメを、今日のプリキュアシリーズと見比べて遜色ない、それらを凌ぐ内容にしっかりリメイクするというのは、じつは『宇宙戦艦ヤマト2199』以上にハードルが上がりきっていると言っても過言ではないのかもしれません。

さしあたり、7月の配信開始を見守りたいところです。

(2014/07/14)
新作『セーラームーンCrystal』ついに始まりました。
が、あくまでも「個人の感想です」ですが、端的に言って「がっかりした!」です。
主題歌「MOON PRIDE」だけは、たしかに今の時代に合ったものになりました。旧アニ「ムーンライト伝説」の問題点を改善し、2003年実写版主題歌「キラリ☆セーラードリーム」と比べても、より踏み込んだ歌詞に進化してます。脱「王子様を待つだけのか弱い女子」!
しかし第1話本編のストーリーラインは旧アニ第1話とほぼ同一で、本当に「画面がキレイになっただけ」。いゃそのデジタル画質の「画面」も、原作により忠実になったキャラクターデザインの絵柄とあいまって、むしろよけいに全体の「古さ」を目立たせる結果にも…?
例えば、学校のシーンで「廊下に立たされる」のも、今どきリアリティのある描写なのかギモンです。それこそ20年前の時点ですでに「一昔前はこういうこともあったらしい」くらいの認識なのではないでしょうか?
聞けば「原作に忠実なアニメ化」が目指されているとのことですが、それでも2014年の新作アニメとしての矜持はもう少しほしいです。むしろ旧態依然とした内容を改めないままの状態で今の時代に放り出すほうが原作への冒涜です。
何より良くないのは、うさぎちゃんの初変身がルナに言われるままに自室でとりあえず……な点。コレはマヌケだし視聴者も燃えられないです。「友達を助けたい!→その強い思いに不思議な力が応える→変身!」でなければ本当に主人公の主体性が描けてることになりません。
旧アニ当時は、この展開の穴も「女の子が自分で変身して戦う」ことの画期的さと相殺できたのかもしれません。でも、すでに人々が例えばスマイルプリキュアやプリキュア5の第1話を知っている今では通用しません。
スマイルプリキュアもプリキュア5も、第1話はドジで泣き虫で勉強は苦手な主人公の遅刻しそうな登校シーンから始まり、その途中で妖精と出会い、その後いろいろあって初変身→戸惑いながらも戦って敵を撃退…という基本プロットもセーラームーンと共通しているので比較しやすいのですが、各主人公みゆきものぞみも確固たる意志をもって襲ってきた敵と対峙していて、ソレにプリキュアの力が応えることで初変身という形になってます。
だからこそ、主人公として自分はこうしたいんだという明確な主体性の描写にもなっているわけです。対照的にうさぎちゃんはほとんど何も自分で考えていないことになっちゃってるのです。
その意味では「Crystal」よりも11年前の2003年実写版のほうが適切な改変をキチンとしているという点で健全な進化形となっているとさえ言えるでしょう。
2014年の新作アニメが「これでいい」とするのは、あまりにもおざなり。いわば「今の時代にも見劣りしない内容にしっかりリメイクするには上がりきっているハードル」、その1コ目を、せめて盛大に蹴り倒すくらいさえすることなく、あろうことか堂々と下をくぐってこられた感を禁じえません。
(2014/07/14)


※【参考】美少女戦士セーラームーン20周年プロジェクト公式サイト
 →
http://sailormoon-official.com/


  


一方、この「プリキュア時代」ならではの、いわば「ジャンル・プリキュア」とでも呼べる作品群のほうは、どんな具合なのでしょうか。

例えば『輪廻のラグランジェ』がプリキュアをロボットアニメに置き換えた内容だとはすでに指摘しましたが、より典型的な近例としては、まずは『戦姫絶唱シンフォギア』が挙げられます。

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そして『ビビッドレッドオペレーション』。

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両作品とも深夜アニメですから、関連商品等の対象者がプリキュアシリーズのように直接的に幼い女児というわけではない点が異なりますが、内容は、まぎれもなくプリキュア的コンセプトを取り入れています。

そしてきちんと勘所を押さえつつも、深夜ゆえに、昼間のアニメなら受ける制約がない分、より挑戦的なつくりになっている部分だってあるのです。

『シンフォギア』のように戦いを指揮する政府機関の秘密基地が学校の地下に作られていたりするのは、女の子主人公の作品ではやはり斬新です。

科学者である祖父の発明品のパワーで、その孫娘である主人公が変身する『ビビッドレッドオペレーション』なら、[ 科学←→魔法 ]軸線が大きく科学寄りに振れています。

警察や自衛隊との協力・共闘のような描写には賛否両論あるかもしれませんが、その作品世界のリアリティの構築に一定の効果を上げるという側面は否定できません。

いずれにせよ、さまざまなバリエーションが試みられることで、作品群の中での多様性が広がっていくのは悪いことではないでしょう。

ただ、「深夜番組ならではの制約のなさ」というのは、特定のニーズ向けの「サービス」もふんだんに盛り込まれるところともなります。

プリキュアシリーズでは禁じ手となっている水着や入浴シーンも逡巡なく描写されます。

このため「ジャンル・プリキュア」作品群にあってさえ、いわゆる「男目線による女性キャラクターに対する性的消費」という問題とは無縁でいられません。

むろん、例えば入浴シーンというのも、結果的には「サービス」として機能するにせよ、いっしょに入浴する女性キャラどうしが「裸のつきあい」を通じて親密度を上げるプロセスであるという、作劇上の意味がある(この下の画像も、入浴中に右側の少女の身体に目立つアザがあることを知った左側の少女が「アザぐらい誰にだってあるよ! 気にしないで無問題!!」と自分の蒙古斑を見せようとお尻を突き出している……という場面であり、入浴にも左側の少女のポーズにも、描写として合理的な必要と必然がある)場合が普通です。

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またたとえ「サービス」シーンが一切なくても、単純にそれによって性的消費の視線が抑止できるわけでもないでしょう。

例の『宇宙戦艦ヤマト』旧作でのアナライザーによる森雪へのスカートめくりのように、もっぱら女性キャラを男性の性的対象としてのみの存在に貶めた価値観が作中にビルトインされていた時代に比べれば、少なくとも現在では作品世界の内部においては、相当にセンシティブな考慮がなされているほうがデフォルトです。

したがって、深夜アニメの中の「サービス」シーンに対して過剰反応を示すことは、注意深く戒められなければなりません。
これら、作品の中の性的表現の問題は、いろいろな要素が複雑に絡んだものですから、この場ではすべて考察しきれませんが、この点はまた追って取り組んでいきたいと思います。

しかし、それでも『ビビッドレッドオペレーション』の「お尻描写」に関しては、いささか過剰だったのではないかという思いが拭えません。

はたして、ここまで執拗に「お尻」にこだわった画面構成が必要だったのでしょうか?

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繰り返しますが性的な要素が作品に含まれること自体が直ちに悪いとは思いません。

しかし「お尻」はジャンルもタイトです。
どこか監督のフェティシズムに付き合わされたような気分が残ります。

身も蓋もないことを言うなら、べつに作品内に直接そういう描写がなくったって、見る人がいろいろ自由に妄想することはできます。
それを「2次創作」で再度作品化することだって可能ですし、そうした作品が発表され、見たい人がそれにアクセスする道も、今日では容易に確保されています。

そうした点も計算に入れて、『ビビッドレッドオペレーション』という作品について、より幸福な形で世の中に送り出すにはどうしたらよかったかを考えると、むしろ「お尻描写」は封印したほうが、その結果「土曜の朝の1年もののアニメ」としての制作が可能になり、より多くの人にこの作品の良さを知ってもらえたのではないでしょうか。

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§画像は放送画面より。この一連の記事中同じ

「お尻描写」だけが豊満に肥大した結果、『ビビッドレッドオペレーション』の評価がそのことに矮小化されてしまうのは、残念でなりません。

  


 


[6:宇宙戦艦ヤマト2199の試練]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

『ドキドキプリキュア』の総括記事の中でも少し触れましたが、2013年には、往年の『宇宙戦艦ヤマト』を今風にリメイクした『宇宙戦艦ヤマト2199』が(イベント上映→パッケージソフトウェア発売という流れの中で)地上波でテレビ放送されることとなりました。

旧作『宇宙戦艦ヤマト』は、たしかに一世を風靡した作品であり、日本のアニメブームを語るうえで避けて通ることのできない重鎮と言える存在です。

ただ旧作が制作されたのは1974年。
その時代的な限界か、全体像を概観しただけでもジェンダー観点からの評価には耐えないことが明らかな作品でもあります。

ヤマト乗組員が紅一点の森雪以外はすべて男性で、必然的に艦内での「ケア労働」および「補助的労働」は全部 森雪の役目となっています。

あまつさえロボットのアナライザーにスカートめくりをされるなどのセクハラ被害に遭ったりしますし、その点を直訴されたときの沖田艦長の対応もまた(現実の企業社会で女性構成員がセクハラ被害を訴えても男性上司が真剣に応対しない事例を引き写したように)のらりくらりとしたものだったりするのです。

そうして、全体を貫くテイストはあくまでも「戦う男、燃えるロマン」(←主題歌2番の歌詞[作詞:阿久悠]より)。

山場であるドメル将軍との艦隊戦などは、まさに「男と男の戦い」といった雰囲気で価値あるものとして描かれたりしていたものです。

そんな『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクである『2199』が、多少の設定とストーリーの改変を施され、絵柄がキレイになったくらいで、見る価値のあるアニメに生まれ変わるのかどうかは、はなはだ疑問でした。

いっそのこと、女子が嗜む武道・宅配道に勤しむ黒猫女学園の女子高校生たちが、廃校の危機を回避するために16万8千光年の彼方まで荷物を集荷に行って戻ってくるミッションクリアに挑む物語『宇宙宅急便クロネコヤマト』!」くらいまで翻案する(…それはソレで見てみたい気も(^o^;))ならともかく、『2199』は旧作に忠実なリメイクというふれこみです。

しょせん骨組みは旧作の『宇宙戦艦ヤマト』。それをちょっとリフォームしたところで、あたかも「戦艦大和」を「宇宙戦艦ヤマト」として甦らせるがごとく、上手いこと今どきの鑑賞に耐える『2199』に再生できるものでしょうか?

ましてやオンエアされるのは日曜日の夕方。
同じ日の朝には『ドキドキプリキュア』も放映されており、かつての『ヤマト』と同じ「テーマは愛」を標榜したうえで、相応のクォリティを保った物語が進められているのです。

朝にソレを観たばかりの視聴者をじゅうぶんに納得させるには、旧作のような、勢いでガミラスを全滅させ、すべてが終わった後になってから、とってつけたように「僕たちがすべきことは戦うことじゃなくて愛しあうことだった!」というようなセリフを入れてお茶を濁す展開では、到底無理なことも明白です。

生半可な姿勢でのリメイクだと、映像だけは美しい、見るに耐えない作品が1本出来上がるだけ。
そうならないように、本当にしっかりと取り組むのだとしたら、そのハードルは相当に上がってしまっている――。

そんなわけで、元々、旧作にはハマり、続編の劇場版『さらば』には涙し、しかしそのラストを改変した『2』以降節操なく続編が作られ続けて興ざめして以来、『ヤマト』はすでに自分の中では「終わコン」となっていたワタシとしては、『2199』にもさしたる期待を抱くことはありませんでした。


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§画像は放送画面より。この一連の記事中同じ


はたして、放送開始から数話にわたってチラ見したところでは、その予測はおおむね外れていませんでした。

たしかに映像はキレイです。
旧作の設定の杜撰だった部分はしっかり造り直され、全体として今風のアニメに仕上がっています。

そして「ジェンダー」面でも今の時代に合わせた改善が図られています。
数的にも質的にも女性乗組員が増強されていました。

それでも、この時点では、あくまでも類型的な「女性の社会進出」描写、男目線の男女共同参画。「ジェンダーの問題も配慮してあげましたよ」という恩着せがましさが、かえって鼻につくような印象さえしないではありません。

当初は「女性らしい」部署に配属された山本玲が念願どうりに艦載機パイロットに配置替えされるまでのエピソードも、深夜アニメのようなカッとび方とは、まだまだ乖離がある凡庸さを感じました。

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そうして、端々に滲むホモソーシャルのマッチョな価値規準。

やはりしょせんは「ニッポンの男のアニメ」。
その骨組みはいかんともしがたいのでしょうか。

沖田艦長も、油断すると「これは男と男の約束だ」みたいな台詞を口にします。

話数としては後半にあたる、ドメル将軍との決戦編のくだりも、その意味では旧作のテイストがほとんど忠実に再現されることになります。

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ドメル将軍が、決戦を前に、待ち伏せするためにヤマトの航路を推理する際などは、「もしヤマトの艦長が、私が思ったとおりの【男】なら……」なんて言ってます。
その数話後ではデスラー総統までが、人質状態の森雪に、「ヤマトの艦長はどんな【男】だね?」と尋ねたりします。

しかし、その時点ではドメルもデスラーも、沖田艦長に会ったことはないわけですし、その人物像についての情報もほとんど得ていない(だからこそ推測や質問をしている)わけです。

それなのに、なぜ【男】と決めつけている!?

……………。

いゃー、コレ、ヤマトだから結果的には正解してますけど、もしも相手が「弁天丸」だったりしたら、どうするつもりだったのでしょう!?
顔を合わせたときにめっちゃ気まずいでっせ(^o^;)。

「ど~も、加藤茉莉香でーす。コスモリバースシステム、受け取りにあがりました~」

冗談をさておいても、女子高生海賊・加藤茉莉香の弁天丸船長ぶりを総合評価すれば、沖田艦長にも決して引けを取りません。

そういう女性キャラクターが、日本のアニメ界にはすでに存在するにもかかわらず、このような決めつけをセリフに織り込んでしまうのは、あまりにも不用意だとの思いを禁じえません。

そういった雰囲気を、最初の数話で感じたワタシは、やはり『宇宙戦艦ヤマト2199』には見る価値ナシ――、そういう判断に至りつつあったのです。


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そんな評価が覆ったのは「第10話:大宇宙の墓場」でした。

※【参考】NAVERまとめ《宇宙戦艦ヤマト2199》旧作との相違点[第10話 大宇宙の墓場]
 → http://matome.naver.jp/odai/2137050341406711201

この回は、ヤマトが次元断層に陥ってしまい、偶然近くにいたガミラス艦と協力しあう以外に脱出の方法がない……という状況になるのです。

さりとて敵を信頼しても大丈夫なのか?
そんな約束が本当に成立するのか??

そんな中、交渉のためにヤマトへやって来る1人のガミラス人。
それが若き女性将校、メルダ・ディッツ少尉でした。

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ここで、それまでは「謎の敵」であったガミラスが、地球人と同様の人間体であることが、作中の地球側にとっては初めて判明します。
しかも女性! …と驚くヤマト乗組員も少なくありません。

旧作での、このシークエンスに該当するエピソードでは、ガミラス人の捕虜は「普通に」男性でしたから、ここでもリメイクにあたってのジェンダー配分の再考が見られます
(次元断層とそこからの脱出という枠組みの部分に関しても、旧作とは異なる経緯に変えられています)。

そしてこれが、兄を殺されガミラスを憎んでいた山本玲と、ガミラス将校メルダ、『2199』へのリメイクによって初めて女性キャラとして配置されることになった2人の邂逅でもあったのです。

仇敵だと思っていたガミラスは「同じ人間」で「同じ女性軍人」、しかも今から協力しあう関係。
はたして、そんな敵だったはずの相手と確執を乗り越えて手を取り合い親交を深めることが可能なのか!?

……………。

驚きました。

なんとこのとき提示されたこれらの命題
すなわち「敵との約束は信頼してもよいのか」と「敵と仲よく友だちになれるのか」。

同じ日の朝の『ドキドキプリキュア』とまるカブりではないですか!!

※【参考】東映アニメーション公式サイトあらすじ
「第19話 クリスタルをかけて!ジコチューのゲーム!」
 → http://www.toei-anim.co.jp/tv/dokidoki_precure/episode/summary/19/

まさかの『宇宙戦艦ヤマト2199』がプリキュアと同じ題材に挑戦っ!?

たしかに、同じ日にそこまで内容が重なったのは偶然かもしれません。

それでも、この一件で、『2199』がプリキュア的な何かに取り組もうとしているという手応えは明らかになったと言えるでしょう。


そう思って、ひとつ前の回「第9話:時計仕掛けの虜囚」を見直すと、これは旧作には直接対応するエピソードがないオリジナルなストーリーだったのですが、テーマ的には「ロボットにも心はあるのか?」という問題を扱っているという点で、上述したアナライザーが森雪にスカートめくりを仕掛ける回と対応します。

※【参考】NAVERまとめ《宇宙戦艦ヤマト2199》旧作との相違点[第9話 時計仕掛けの虜囚]
 → http://matome.naver.jp/odai/2136991241174413201

つまり旧作当時は、人間と同様の感情があることを示唆するためにアナライザーにさせることがスカートめくりだったわけです。
これは往時の制作者の発想の貧困と言わざるを得ないでしょうし、1974年というのがそうしたセクハラ行為描写がまったく問題視されずに許容される時代背景だったのも確かです。

しかしそんな「ロボットにも心はあるのか?」という同じテーマの回が、旧作のようなセクハラ回から、『2199』では9話の見事に叙情的で美しいエピソードに改変されてたあたりからも、制作陣がリメイクにあたって何をすべきかよくわかっていることを窺えたかもしれません。


そうして、11話で反目を乗り越えて一定の親睦を深めた山本玲とメルダは、後半で再会した後は、さらに信頼関係を強めていき、地球とガミラスとの和解へ向かう流れの象徴的な存在となります。

他の女性キャラも含めた関係性描写も、どんどん厚くなっていきました。

そして歴史に残る22話。
山本玲とメルダたち女性キャラがヤマトの食堂に集って、みんなで特製のパフェを食べながら女子トークを繰り広げるという場面が描かれます。

「地球のため、も大事だけど、友だちといっしょにチョコパフェ食べたりする、ごく普通の日常が大切で、それこそが何よりの平和……」
初代『ふたりはプリキュア』の第1期エンディング主題歌では、後々のプリキュアシリーズ全体にも通ずる、そんな趣旨が歌い込まれているように、【パフェ】を囲む女子というのは、まさに象徴的です。

『宇宙戦艦ヤマト2199』が、もはや旧作『宇宙戦艦ヤマト』ではない別の何かに変容したことが確実になったことを高らかに宣言するシーンだったと言えるでしょう。

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この後のガミラス本星での最終決戦では、メルダの協力のおかげもあって、ヤマトは有利に首都攻略をすることができます。
余裕のある状態ゆえに、民間人の被害も抑えられ、旧作のように必死の反撃を続けた結果ガミラスを壊滅させてしまうこともありません。

そして逆に、狂気にとりつかれたラスボス状態のデスラー総統によって破滅のピンチに瀕してしまった首都を、(ヤマトだけとっとと脱出するという選択も可能だったにもかかわらず)波動砲で危機を除去し、以てガミラスの大勢の人々を救うという結果をもたらしたのです。

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あと、山本玲×メルダの他にも、地球・ガミラス両陣営間での女性キャラの関係描写として森雪×ガミラスの諜報を司っていたセレステラの交流がありました。

地球への途に就いたヤマトが、じつはまだ生きていたデスラーの追撃に遭い、艦内で白兵戦となった際に、森雪が命を落としてしまう原因は、旧作では「だって古代くんが死んじゃう」と試運転が済んでいない「放射能除去装置」を動かしたことですが、『2199』では、銃撃からセレステラを庇った結果になっています。

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すなわち、女性キャラにとって守るべき大切なものが、異性愛的な価値規準に基づいた「男」よりも、女性どうしの関係性のほうに改変されたのだと読むことが可能です。


というわけで『宇宙戦艦ヤマト2199』、たしかにいわゆる「熱い男のドラマ」が見たい層に対してはアリバイ的に旧作そのままの昭和仕様と思える部分も入れていましたが、つまるところ特に中盤から終盤にかけては、物語を動かしていく鍵となったのは、女性キャラどうしの関係性進展を取り巻くものでした。

大切なのは、相手との関係性の中で相互に配慮しあい、気持ちを尊重しあい、ときに癒しあうこと。
そしてそんな中で、より多くの人々との間で共感・協調・共生の輪を広げていくことこそが問題解決の糸口となることが提示された展開は、まさに「ケアとキュア」に立脚した物語です。

そうして、そこで何が描かれたのかを端的にまとめれば……
敵とも友だちになる
敵陣営の人々をも助ける

……………。

これはもう、

なんというプリキュア展開! (^o^;)

地球とガミラスの間で起きた紛争を、おそらくはプリキュアであればこんなふうに解決したにちがいない、その様子を『2199』は、『宇宙戦艦ヤマト』の枠内で可能なかたちで描き出したのでした。


こうして、旧作に忠実なリメイクという体裁を維持しつつ、旧作とはまったく異なるコンセプトの別の物語に生まれ変わった『宇宙戦艦ヤマト2199』

誤解を恐れずに極論すれば、『ヤマト2199』は【宇宙戦艦ヤマトの皮を被ったプリキュア】だったと言えるでしょう。

  


◎そんなわけなので、2014年12月に公開されるという『宇宙戦艦ヤマト2199』を受けて制作される劇場版新作、その内容はもう『2199』のストーリーをプリキュア風に再解釈したオリジナルアニメでイイんじゃないかなという気がしてきました(^^ゞ
サーシャとユリーシャというイスカンダル王国から来た妖精に請われてユキ、マコト、ユリア、アキラらが「伝説の戦士」に変身、ガミラスランドの繰り出すユウセイバクダーンと……w
てゆーか、仮にそこまでの改変を加えたとしても、『2199』の基本的なストーリーラインは維持できそうなところが、もはや何をか言わんやですね。


◎ヤマトがイスカンダルまで受け取りに行くのが、旧作の「放射能除去装置」から『2199』では「コスモリバースシステム」なるものに変更され(その理由はいろいろあり、各種の大人の事情が絡んでいることも推察されるものの、旧作のように海が干上がり生態系が壊滅してしまった地球から放射能だけ除去しても元のような青い地球になるのは無理なので、それも考慮すればやはり正しい改変ということになる)ましたが、その設定もまた、まさかのプリキュアで敵を倒したら破壊された箇所も元どおりになる、いわゆる「謎修復」を、もっともらしい科学的説明をつけて装置化したものとでも呼べるものだったりしました。