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「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

「男と女は違うから別々に取り扱えばよい」…で本当にいいの!? [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて、お知らせブログのほうの記事に書いたとおり、先日甲南大学の授業に出講するのに、久しぶりにJR摂津本山駅経由で行ってみたのです。

そして機嫌よく授業を終えて帰ろうとした、その帰りのJR電車内で、エラいものに出くわしてしまいました。

私が乗った車両の車内広告がなんと………


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!!

    Σ(゚Д゚;)


なんとまぁ……、

【「性別」は《「女」と「男」》ではない

【「男」や「女」といった社会的属性には本質的な根拠はなく、人と人とのコミュニケーションの場において意味づけされ、そこでの相互行為のやり取りの際に解釈されることで有効化されているもの】

【身体の生殖機能にかかわる差異を「性別」にしてしまっているのもまた、社会が構成した「設定」】

【ひとりひとりの多様な性のありようは、じつは単純な男女軸では捉えきれないほど、複雑で混沌したもの】

……といった話をした授業の帰りにコレは、ちょっとダメージ大きいですねぇ(^_^;)


  


たしかに、この『察しない男、説明しない女』(五百田達成 2014)のような書籍の内容は、現実の社会の状況が、人を「女」か「男」かを指標に二分するという体制下にあり、その結果として双方が別々の生き物となってしまっている以上、ある種のコミュニケーションのためのハウツー本として結果的には有用になっている面も否定はできないのは理解できなくはありません。

実際にアマゾンのレビューでも役に立ったという旨が複数寄せられており、また売り上げ面を見てもニーズは高いことがうかがい知れます。

10年余り前にも『話を聞かない男、地図が読めない女』(Allan Pease,Barbara Pease,藤井留美[訳] 2001)が話題になったことは、いまだ記憶に新しいところと言ってよいでしょう。

その他にも類書は数多いようです。

しかし、はたして「現実への対処としては有用な図書のひとつ」と割りきって済ませておけばよいものなのでしょうか。

そもそも「男女」間で相互理解がいちじるしく困難となるほど両者が別個の性質の存在として分断され、激しいディスコミュニケーションが起きている状況は、はたしてどのようにして構築されているのでしょう?

そうした社会体制の一角では、まさにこうした「女と男はちがう」という前提に立脚して書かれた書籍(十歩譲っても、広告・宣伝などの場でのそうした前提を前面に押し出したプロモーション)もまた、その構造の構築と維持に寄与していることになってしまっているのではないでしょうか。

そうした言説が、くり返し叙述されることによって、「女と男はちがう」という価値規準が不断に再生産され続け、そうした社会秩序のもとで人々が行動し合うこととなり、その結果として「女と男はちがう」ようになってしまっている側面は非常に大きいのです。

その意味では、この『察しない男、説明しない女』のような本は、短期的には現実的な対処には役立つものである反面、長期的にはじつはその「現実」を生み出す原因のひとつにもなっているわけで、はなはだしくマッチポンプなことをしでかしていると言えます。

百歩譲っても、『察しない男、説明しない女』で紹介されている各種の指標は、たしかにそのように人をある傾向で便宜上2タイプに分けて考えれば、異なるタイプの人と接するときのヒントが得られるとしても、そのすべてを「男女」で仕切れるかのような誤読を誘うのは、やはり罪深いと言うべきでしょう。


また、最初の写真をよく見ると、撮影した場所が女性専用車両となっています。
(ちょっと画像では不鮮明ですが、向かい側のホームの電車にも当該車両が写っています)
※「てゆーか、オマエが女性専用車両に乗ってるのかよ」というツッコミはナシで Σ(゚д゚lll);

こうした鉄道など公共交通機関における「女性専用」というのは、やはり現実の社会のありようが男女二分的であり、そういう中で各種のパワーリソースが総体的には「男性」に多く割り振られている中では「女性」が被る不利益が少なくないことを抜きに評価することは慎まないといけません。

女性専用車両は、現状では「女性」が安心して乗車できることを保障する方策として非常に有効な現実的対処であり、有意義な取り組みであることは決して否定できません。

そこを難癖つけて「男性差別だ!」などとバッシングするのは不当であるとしか言えないでしょう。

とはいえ、あくまでもこれは緊急避難的な対症療法にすぎないのも事実。

本来は女性専用車両など必要がない社会状況にすることが抜本解決であるとすれば、その基盤は、人がむやみに「男女」で分断されず、同じ人間として対等に関係性を築ける環境に待つべきものであるはずです。

だとすれば、男女を分けておけば万事解決という発想は、目指すべき理想に対してはむしろ逆行してしまっている……ということも理解されなければならないでしょう。

したがって女性専用車両もまた、短期的には現実への対処として効果的である反面、長期的には原因を再生産してしまっているという視点は、もっと顧みられるべきなのです。

※女性専用車両問題については、導入が盛んになった2000年代初頭にも書いていますが、基本的にそちらの内容のほうも今なお賞味期限内と思われます。

 → 女性専用車両は問題解決の切り札か?

 → 暴走する女性専用車両、誰か止められないのか!? ←今見るとちょっと「釣りタイトル」ですね;


ちょうど先月には、「女子大に行きたい男性」についての報道もありました。

かいつまむなら、自宅から通えて、かつ学費も穏当な金額で、そして希望する「栄養士」の資格が取得できる課程が置かれている学校が「女子大」しかないのに、男性であるという理由だけで入学願書を受理してもらえないのは不当だというもの。

→「公立女子大行きたい」男性、出願不受理は違憲と提訴へ(朝日新聞デジタル)
 http://www.asahi.com/articles/ASGCF51QYGCFPPZB00N.html

→「女子大は違憲」? 福岡女子大へ入学希望の男性は裁判で勝てるのか(NAVERまとめ)
 http://matome.naver.jp/odai/2141603054837438101

→女子大に行きたい福岡県の男性の真相とその報じ方について(togetter)
 http://togetter.com/li/745963


この件について、私の観測範囲では、おおむねセクシュアルマイノリティ系の人は一定の理解や共感の姿勢であった反面、シスジェンダー女性にあってはフェミニズムの知見を相応に身に付けている人であっても(だからこそ?)難色を示す例が少なくなかったように思えます。

曰く、せっかくの「女性専用」と区画された安心して過ごせる領域に男性が入ってこようとするなんて! といったところでしょうか。

もちろん、「女子大」がつくられた歴史的な経緯などは無視できません。
現在なお、社会の男女二分構造における弊害が「女性」に多くしわ寄せされがちなことを思えば、大学を含めた女子校全般の意義は、今も健在であると言わざるを得なかったりもするでしょう。

それでも、この件もまた女性専用車両と同じく、何でも男女で分けてさえおけばよいというものではないのだとしたら、あらためて議論の俎上に乗せて、発展的な解決が図られるべきものではあるでしょう。

それに「栄養士」の資格が取れる学校に「女子」専用が多いというのは、そうした資格を要するような仕事を「女性役割」と決めつけて性別役割分業を強いる、ジェンダー化された社会秩序の反映でもあります。

その意味では、やはりフェミニストこそ、今般の件を機に「女子大」の意義を一面的な視点ではなく、ジェンダーをめぐる諸問題との連関で多角的に見ていくべきです。

フェミニズムが目先の「女性」の利得を因習的に固守するように見えてしまうのは得策でないのは言うまでもありません。


そんなこんなで、帰宅すると、今度は中学3年生にして高校受験を間近に控えた我が娘・満咲が、取り組んでいた英語の問題集を持って私のもとへやって来ました。

「この問題、意味がわかれへんねんけど……」

どれどれ~?


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こ、これはっ!!

   (´゚д゚`)アチャー

………まぁ、こういうことにいちいちツッコミを入れていたのではキリがないのも、この世界の実状です。
「ここは戦うところではない」と割り切って「素直に」解答するのが、この場合は最善でしょう。

しかし、たしかに、はたして「女」と「男」は、本当に【対】なのか!? という疑念は拭いきれるものではありません。

佐倉満咲さんとしては、そのあたりの出題のポリティカル・コレクトネスについて疑義が生じるのを禁じ得なかったわけですね。

いやはや、心強いっちゃー心強い(^^)


ちなみに余談ながら、ここだけの話、甲南大学にかんして、本当に見てはいけないものを見てしまったのは、じつはコレ;

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  ( ゚д゚)ポカーン

(たぶんセクハラの相談をしたい教員を学生が探すときなどには有用な項目だったりするんでしょうが……)




 


2014年のアニメが変態すぎる件 [多様なセクシュアリティ]

現実世界では、まだまだ性的少数者・セクシュアルマイノリティへの偏見や差別的な事案が少なくない実情が否定できませんが、ラノベやマンガ・アニメといったポピュラーカルチャーの世界では、そうした現実の一歩先を行く設定や描写が珍しくないのは、よく知られているところでしょう。

むしろ、必ずしも現実世界のそれらの実態を忠実に反映したものではないにしても、同性愛や性転換・異性装といった題材は、積極的に好まれ、ジャンルとして繁栄しているとさえ言えます。

そして、そんな中でも、この2014年のアニメを振り返ったとき、どうも従来よりさらに一段踏み込んだ作品が目立ったのではないでしょうか。


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例えば、この1~3月に放送された『桜Trick』。
(画像は公式サイトからと、以下は放送配信画面よりキャプチャ)

見てのとおり、女の子がいっぱい出てくる、いまどき珍しくはない日常系百合アニメのように見えますし、実際その範疇の作品と受けとめて差し支えはないでしょう。


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そして、特に仲が良いのがこの2人。


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かなりの親密度です。


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そして、ひょんなことからこんなことに…。


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…こうして、女の子どうしのけっこうディープなキスが描かれます。

同性愛をタブー視する人も少なくない中で、「こういうことも関係性のひとつとしてあってよいものだ」とばかりに、このような攻めた描写がおこなわれたのは、評価に値すると考えてよいでしょう。


   


次に、7~9月の『ひめゴト』。

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こちらも、公式サイトのキービジュアル(上。また以下の画像は放送配信画面よりキャプチャ)をパッと見た限りでは、日常系百合アニメの一種のように見えなくもありません。

しかし、この作品の主人公はひょんなことから女装状態で学校生活を送ることになった男子高校生(上の画像の中央)、つまり女装少年男の娘なのです。

原作コミックの掲載は「男の娘」専門誌で、ソコからかようにアニメ化の企画が通るというのは、やはり時代の流れでしょうか。


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しかも、作中で女装少年なのは、ひとり主人公のみならず、他にも複数の異性装者が登場人物として設定されています。
この場面などは、なんと画面の(というか、そもそも登場する主要キャラクターの)過半数が異性装者という事態に!
これが、この作品世界ではごくフツーのこととして成立しているのです。


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こちらの場面も異性装者が過半数を占めています。いわゆる「生まれつきの」「戸籍上」女の子なのは4人しかいません。 一見、数が合っていませんが………よく考えてくださいね(^^ゞ

この『ひめゴト』は、毎回「5分番組」であるショートアニメだったため、なかなか掘り下げた描写は難しく、安易なオチでまとめられることも少なくなかったですが、一方で性別の枠組みというものへの正鵠を突いた批評がさりげなくセリフに織り込まれたりもしていました。
第11~12話では「男性であっても女装すれば性暴力・性犯罪に遭うリスクが格段に増える」という問題にも、原作コミックよりもさらに丁寧に向き合っていたのは、やはり意義あることだったと考えられます。


   


そして、10月から放送中のこちら『俺、ツインテールになります』。

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これは、公式サイトのキービジュアル(上。また以下の画像は放送配信画面よりキャプチャ)から判断すると、女の子が変身して悪者などと戦う、いわゆるバトルヒロインもの、変身美少女戦士アニメだとジャンル付けられましょう。

実際、それは間違いではありません。


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しかし、この3人の変身美少女戦士、


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変身を解除すると……


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じつはレッドに変身しているのは男の子!


「男の子が変身したら女の子になる」

キタ━(゚∀゚)━!

従前より私は、プリキュアシリーズでは変身してプリキュアになるのが女の子ばかりな点については、それゆえの意義もある一方で、一度 何らかの取り組みが必要という観点から、変身後は瞳や髪の色が変わることは通例だし、変身したら若返ったり逆に大人になる事例もあるのだから、変身したら性別が変わることがあったって何の不思議もないと訴えてきました。
しかしながら2014年11月現在、プリキュアシリーズにおいては、男の娘を含めた男の子が変身するには至っておらず、せいぜい男装の麗人が変身するケースが前例としての限界点にとどまっています。

そんな中で【性別くらい変身の前後で変わったって、べつにゼンゼンかまわないじゃないか】というコンセプトに基づく設定を物語の主軸に据えた作品が、深夜枠とはいえ、堂々とアニメ化されたのは、ある意味ものすごく画期的です。

視聴者が思い込んでいる変身の概念と性別枠組みの意味づけを激しく揺さぶる、この『俺、ツインテールになります』は(他にも、さまざまなフェティシズムというものに対する考察のヒントとなる要素が世界観の中核に置かれていることともあいまって)、まさに多様なセクシュアリティの混沌を積極的に追究する観点から刮目に値すると私は思うのですが、いかがでしょうか。


   


ただプリキュアシリーズも、この件を看過していたわけではないようです。

『俺、ツインテールになります』のオンエア開始を約1か月後に控えた8月末、現在放映中の『ハピネスチャージプリキュア』第30話「ファントムの秘策!もう一人のキュアラブリー」では、主人公キュアラブリーの負の側面を具現化した闇プリキュア「アンラブリー」が敵として登場します(以下、画像は放送配信画面よりキャプチャ)

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プリキュアシリーズでは、このような敵として立ちはだかる闇プリキュアと戦うプロットは、しばしば見られます。
自己と向き合い自分自身を見つめなおすことは、プリキュアシリーズ主人公たちのような思春期の少年少女達にとっては重要な発達課題です。自分の中のマイナス部分・ネガティブ要素を引き写した存在と対決し乗り越えることは、成長イベントとして作劇上の意味もあるでしょう。


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で、今回登場したこの「アンラブリー」さん、


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じつは敵幹部の「プリキュアハンター・ファントム」さん自らの変身なのです。

………「男の子が変身したら女の子になる」、キテたよ(*^_^*)


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コレには仲間のプリキュアたちもビックリ Σ(゚Д゚)

視聴者もかなり意表を突かれましたが、大きいお友達にはむしろ好評でしたし、本来の視聴者層とされる幼児たちなら、ごく自然に受け止めたのではないでしょうか。

『俺、ツインテールになります』のように深夜枠ではなく、プリキュアシリーズのような時間帯の作品で、さり気なくこうした「性転換」要素が描かれたのは、かなり思い切ったことであり、その意味ではプリキュアシリーズもいろいろな制約の中で可能な範囲のことには取り組んでいるといえるでしょう。

このほか、本年度の日曜朝の一連の番組の中では、特撮ヒーロー『烈車戦隊トッキュウジャー』第34駅(話)「恋は大騒ぎ」にて、ちょっとした行きがかりから男どうしの濃厚なキスが描かれるのですが、これまたよく見ると、同性愛を安易に用いて笑いものにするような展開は巧妙に避けられており、それが男どうしだったこと自体は、作中では誰も否定的に反応しておらず、決してネタでも「禁断」でもなく、そういうこともフツーにあってよいものとして扱われてるように読むことも可能でした。
近年の「ニチアサ」はこのあたり非常にわきまえた大人の対応をしており、セクシュアルマイノリティがらみの話題は、ゴールデンタイムのバラエティ番組などのほうがよほどいつまでも子どもじみたネタ扱いに終始してると言えるのではないでしょうか。

   


……そして、このまま何もなければ、プリキュアシリーズもなかなかやるではないか~~で話はまとまっていたかもしれません。

しかし!
11月になって、まさかの予想外の展開がやって来ました。

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それが、この『プリパラ』。
(画像は公式サイトからと、以下は放送配信画面よりキャプチャ)

基本的には少女たちがアイドルとして切磋琢磨しながらライブ活動を競い合う、昨今の人気ジャンル、いわゆるアイドルアニメのひとつです。

オンエアは土曜の朝で、やはり直接には幼児が対象であることを念頭につくられている作品です。


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そんな『プリパラ』第18話「レオナ、全力ダッシュなの!」は、主要キャラクターのひとり、レオナ・ウェストちゃんが、双子の姉とともに、他のアイドル仲間たちと同じ学校に転校してくるところから始まります。


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レオナちゃん、舞台ではこんな感じでアイドルしてます。


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双子の姉・ドロシー(青いほうの子)とともに、いっしょに活動しています。

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姉・ドロシーと、もうひとりとともにユニットを組んで、こんなふうにライブをしているのです。


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……が、なんとこの回、転校してきたレオナは男子制服を着ている!?


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え゛、男子だったの!?
…と驚く一同ですが、作中で一同が驚いた理由は必ずしも男の子なのに女性アイドルをしている」ことであるようには描かれていません。
つまりレオナ本人の性別そのものが「衝撃の事実」であるような描写は巧妙に避けられています。


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そうして若干のやりとりを経ると、まぁそういうことがあっても良いよねと、全員が納得します。
そして、この件はこれで終了。この回の物語の主軸は、レオナの性格についてのものに移り、性別のほうはもはやどうでもいいこととして後景化されます。
しかも、その性格問題も、女の子としてアイドルしているという為人も含めて、いわゆる「ありのままで」イイという結論に至ります。

女だ男だというよりも「自分らしく」、それがアイドルとして、人間としての大切な個性なのだという肯定的なメッセージになっているのです。

詳しくはプリパラに精通した人のブログ記事が丁寧にまとめてくれています
 →プリパラ#18「レオナ、全力ダッシュなの!」/君薗ガーデン

これは素晴らしいの一言に尽きます。

このような、すべての人の自己肯定を応援する愛にあふれたアニメが観れるなんて、いまどきの子どもたちは幸せですね。

もちろん、すべての子どもたちにとって良質なコンテンツですが、とりわけ性別違和を抱える子どもたちにとっては、直接的な朗報でもあります。
MtFの多くは、子ども時代に見たいアニメが女の子向けだからと、見られない・見せてもらえないという憂き目に遭っています。
(例えば椿姫彩菜『わたし男子校出身です』中でもセーラームーンについて言及されていますし、私・佐倉智美にあっても『女が少年だったころ』で述べたように ひみつのアッコちゃんに対しては複雑な思いを持っています)
でも『プリパラ』では男の子のレオナ・ウェストちゃんも、フツーにカワイイ女の子としてアイドルしている!
これは性別違和をもつ「男の子」が『プリパラ』を視聴することの障壁を下げる大きな効果がありますし、そうした子どもを大いにエンパワーするものです。
男の子視聴者を排除しないことは、番組としてマーケットの間口を広めるメリットもあるでしょう。

まさか、土曜の朝の子ども向けアイドルアニメが、ここまでさり気なく、かつ丁寧にトランスジェンダルな登場人物を織り込み、ジェンダーの問題に適切に踏み込んだ作劇をおこなってくるなど、ちょっとノーマークでした。

いゃ~、これは読めなかった~!


   


というわけで、この2014年は、同性愛やトランスジェンダーを肯定的に取り入れたアニメ作品が、集中的に目立った形です。

ただ、単純には比較できないにせよ、1980年代にも『ストップひばりくん』や『パタリロ』、あるいは『らんま1/2』などはありましたから、じつのところ定期的に出現する定番の題材だと言えたりしなくもありません。

なにしろ日本は、歌舞伎やタカラヅカは言うに及ばず、クロスジェンダーパフォーマンスが盛んなお国柄です。
明治以降の近代化の過程で移入された西洋的な価値規準に、ともすれば隠されがちなことも少なくありませんが、身近な同性愛やトランスジェンダーにも本来は寛容な文化圏なのです。

このくらいのことは、べつに珍しくないし、古来より培われた、まさに伝統芸能でさえあるのかもしれません。
三橋順子さんが『女装と日本人』などで予て指摘していますし、古事記にも書いてあります

私たちは、この文化圏の特性をふまえ、外来の価値規準をむやみに内面化した風潮に流されて性的少数者を禁忌するのではなく、そこにある性の多様性の豊穣を、誰もが享受していけるようにしたほうが、犠牲者を出すことなくみんなで幸せになれるのではないでしょうか。


……えっ!?
古事記にも書いてある」は忍殺語が元で、根拠なんかない・口から出まかせだという意味のスラングなのでは……ですか?

いえいえ。
古事記といえばヤマトタケルの遠征譚が収められていますよね。

その件については、以前に書きました
ヤマトタケルは元祖◯◯◯だった!?


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ねっ、「男の子が変身したら女の子になる」、古事記にも書いてあるわけです、本当に(*^_^*)。


   



 


桃子ちゃんの鬼退治 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

過日、昔の新聞の切り抜きを整理していると、2000年5月22日の朝日新聞の「アメリカのトランスジェンダー活動家、ジェイムズ・グリーン氏が来日」を伝える紙面が出てきました。

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語られている内容は今読んでも共感できるものです。

そして、さすがのジェイムズ・グリーン氏(FtM)、「ただの毛深いオッサン」にしか見えないのはさすがというべきでしょう(^^)。

てゆーか、当時パッとこの紙面を見たとき、むしろこの写真の「男性」は隣の記事の「暴力やめたい男性」と思い込んだほどです。

◎この隣の記事の、男性DV加害者向けのプログラムというのも、今でこそ必要性・重要性の認識が高まり、それなりに取り組みの機運は高まっていますが、2000年当時としては、かなり先進的な試みだったのではないでしょうか??


一方、この紙面にはもうひとつ興味深い注目点があります。

それは右側の投稿コラム。

大阪の堺市に住む主婦が、毎晩2人の娘におこなっている物語の語り聞かせで、桃太郎や金太郎などのいわゆる昔話は男の子が主人公なものばかりなことにギモンがよぎり、ある日ふと思い立って、桃から生まれたのが女の子なバージョンの桃太郎を語り聞かせたところ、娘たちからは好評を得たというもの。

題して「桃子ちゃんの鬼退治」。

これは、しごくもっともなことで、物語の主人公として主体的に大活躍するのが男の子ばかりではいちじるしくジェンダーバランスを欠くというのは、いわば「メディアとジェンダー」問題の基本です。

これらが、女の子は助けられ守られる受動的な存在でしかない物語と対を成すことで、子どもたちへのジェンダー意識の刷り込みにもなってしまう問題は、改善が図られるべき重大な課題と言ってよいでしょう。

むろん、西暦2000年といえば、アニメならすでに『セーラームーン』後の世界。
ちょうど『おジャ魔女どれみ』シリーズでは、女の子たちが力を合わせて主体的に課題を解決する物語も展開されてた時期ではあります。

しかし、そういった新しく制作された物語ならともかく、いわゆる古典的な昔話などについては如何ともし難いのは、なかなか悩ましいところです。

→[参考]:「漂流する名作 ~ Wrong Love Letter
http://homepage3.nifty.com/tomorine3908/emedia.contents/015.WLL.htm


その意味でも、このように語り聞かせを担当する人が、ちょっといちびり精神を発露させて、「桃太郎」を「桃子ちゃん」に改変したバージョンをつくってみるようなことは、非常に意味がありますし、聞く側の子どもがその内容を正当なものとして受容しうる環境づくりもまた望まれるところではないでしょうか。

もはや10年以上も前のことにはなってしまっていますが、こうした堺市の主婦の方の取り組みは大いに評価されるべきです。


さて、そんなことも考えながら、2014年6月のある日、私が7月始まりの来期アニメに何を見るかを検討していると、『モモキュンソード』なるタイトルの作品に行き当たりました。

→『モモキュンソード』公式サイト
http://momokyun.com/


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(公式サイトからキャプチャして構成)


……………

……………っ!


_人人人人人人人人人人人人人_
桃から生まれた桃子ちゃん!
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


(*゚∀゚)

な、

な、……なんとっ!!


堺市の主婦が朝日新聞に投稿してから14年。

まさか2014年になると「桃子ちゃんの鬼退治」が、本当に公式にアニメになって放映されるようになるとは!

………「私たちは今21世紀に生きている」という言葉の意味があらためてわかった気がしましたw


むろん、このアニメ『モモキュンソード』、桃子ちゃんらのキャラクターデザインにおいて、過剰な巨乳描写がある点などが、いわゆるプチ「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」であり、評価に留保が必要な部分もないではありません。

実際にオンエアが始まったのを視聴してみても、「巨乳描写」を含めて無駄にエロい演出が過剰なのは否めないです。
その種の性的な描写は作劇上の必要・必然や、作品の全体像をふまえた上で慎重な匙加減が望まれるところですが、第2話などを見る限りでは安易な「男目線」に陥っているとの誹りも免れないでしょう。

そういうニーズの存在自体が頭ごなしに否定されることも好ましくありませんが、しかしもっぱらそのニーズに応えるだけでは、このアニメはもったいない

せっかくの「桃子ちゃんの鬼退治」譚のアニメ化です。
そういった「エロい演出」にひいてしまうような層の中にこそ、この作品を観てもらいたい人たちがいると言うこともできるはずです。

そのあたりを勘案した、バランスの取れた演出を期待したいところです。


そして、この『モモキュンソード』におけるプチ「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」を一旦 置くならば、西暦2000年時点では堺市の主婦の方がプライベートで細々と娘へ語り聞かせをするに過ぎなかった「桃子ちゃんの鬼退治」譚が、深夜とはいえ大々的にアニメにまでなる、この2014年の状況、これはフェミニズム的にも評価していいのは間違いないでしょう。


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(第1話放送画面より)
特製の神剣を駆使して平和な村を襲ってきた鬼に立ち向かう


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(第1話放送画面より)
プリキュア的「変身」もあり。見事に鬼を懲らしめます


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(第1話放送画面より)
犬・猿・雉の三神獣をお供に、いざ鬼退治の旅へ出発!


『モモキュンソード』では、桃子らの敵対勢力として設定されている「鬼族」が、一方的に「鬼退治」されるべき存在ではなく、何か事情がある要素もほのめかされていますし、「鬼族」の王の娘である「鬼姫」と桃子の一見すると敵対する関係のうちに「友情フラグ」も順調に進行しています。

そのあたりは今どきのバトルヒロインものの王道要素を外していない、というかプリキュアシリーズの定石を上手に取り入れていると言えます。

原典(←そもそもの昔話の『桃太郎』のこと。※アニメ『モモキュンソード』の直接の「原作」はweb小説)のように、いきなり鬼ヶ島に攻め込んで鬼退治をしたりしないあたりに、女の子を「桃太郎」に据えた意味が現れてると言い換えてもよいでしょう。

評価に留保が必要な部分もあるにせよ、女の子が主人公として主体的に活躍し、女の子であることの意味さえ良い意味に積極的に肯定しながら、鬼退治のような課題もフツーにクリアしていく物語が、今日ではあたりまえになったというのは、やはり良い時代になったと言ってよいと思います。


   


◎オタク的視点で評価しても、『モモキュンソード』は2014年ならではのバトルヒロインものの新たな進化形としてなかなか良い形に捻られてます。
第1話の展開はバトルヒロインものの王道展開をベースにしつつも、昔話モチーフなために桃子が「中学2年生」などではなく学園モノ要素はないところとかは新鮮でした。
第2話以降の日本各地を旅するロードムービー的な要素もこのジャンルでは新しい気がします。
「桃子ちゃんの鬼退治」譚としてジェンダー問題的にも有意義であり、2014年の新作アニメとして相応しい形にバトルヒロインものとしての適切な進化を果たしている『モモキュンソード』は、まさに【 21世紀の桃太郎 】のひとつの理想形なのかもしれません。

ちなみに「21世紀の桃太郎」というと、ワタシの小説『1999年の子どもたち第3巻の文化祭編で、作中(ワタシの娘がモデルの登場人物である、その名も)佐倉満咲チャンがホームルームで担当になってしまって考えた末に書き上げる劇の台本が、じつは『21世紀の桃太郎――美少女フルーツ戦士プリティピーチ』だったりするのです;

「プリティピーチ!」
「プリティアップル!」
「プリティメロン!」
「プリティオレンジ!」
「プリティグレープ!」
「罪もない人々を苦しめる鬼帝国! 私たちフルーツ戦士が許さないっ!!」
「「「「許さなーい!!」」」」
「何をこしゃくな。行け、デイジーカッターにサーモバリックよ、奴らをひねりつぶしてしまえっ!!」

……みたいな場面もあり、当然に作中の満咲チャンは、出来上がった台本を最初に披露したホームルームで

「えーコレなんてプリキュアシリーズのパロディで草不可避」
「こんな桃太郎ありえなさすぎてマジ ウケる~」
「佐倉さんひくわー」

などの反応も受けつつ(セリフは実際のものと多少異なりますw)、全体としては好評を得て、クラスの一致団結に至る文化祭への取り組みがおこなわれていくという、ある意味『1999年の子どもたち』全7巻中でもっとも平穏な「日常系」展開(!?)の文化祭編・第3巻

この『1999年の子どもたち』作中お話の舞台は西暦2015年で、つまり来年なのですが、いやワタシも最初に執筆してた10年ほど前には、まさかその前年に本当に「21世紀の桃太郎」とも言える美少女戦士アニメが放映されるなんて思いもよりませんでしたワ(^o^;)