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今年も絶賛継続中!Googleのバレンタインデーには性別がない [多様なセクシュアリティ]

さて、今年もバレンタインデーが過ぎました。
チョコレートをめぐる攻防に一喜一憂した方も少なくないやもしれません。

心温まるエピソードも生まれた反面、さまざまな面倒くさい事態に巻き込まれて深く傷つき、もうバレンタインはこりごり……というケースももしかしたらあるでしょうか。


そんなバレンタインデーには、インターネットのGoogleのトップ画面のロゴが、他の何らかの謂れのある日と同様に、特別仕様に変わるのは例年のこととなっています。

一昨年2013年には、大変に興味深い仕様となっていたりもしました。

 → Googleのバレンタインデーに性別がない!件
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2013-02-15_Google-Valentine


この方針は引き続き継続していて、昨年2014年のバレンタインデーは、このように人を象ったイメージからジェンダー要素を極限まで脱色して、ある意味「異性愛/同性愛」という二項対立にさえ巻き込まれない、多様で混沌とした愛のありように対応していたとさえ言えます。

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さらに2014年の場合、「七夕」という、これまた極めて異性愛至上主義に満ちた年中行事にあっても、同様のメソッドでもって、例えば「牽牛も女の子だったらイイのに」というような百合妄想にも、余裕で対応できるつくりになっていました。

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いやはや、スバラシイ


そうして、2015年。

そのバレンタインデーロゴはいかなるものだったのでしょうか!?


……………。


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  https://g.co/doodle/kjsjn8

※キャプチャ画像の他、いくつかのバリエーションがありました。


………なるほど!


この方針はまだまだ続くようです。

いいぞ、もっとやれ! (*^_^*)


そもそも、例えばバレンタインデーのような機会に面倒くさい事案が発生してしまうのは、人と人との関係性を「男女」で切り分けようという風潮が卓越的な規範として蔓延している社会のありようだからこそ。

そんなせいで、バレンタインデーをはじめとする「せっかくの」イベントも面倒くさいものになってしまうのは文化的な損失だとも言えます。


人と人との親密な関係性は、すべての人が「女」と「男」に仕分けられたうえで、その「男」と「女」の間で成り立つもの……でなくても、べつにイイんだということが、こうしたインターネットを利用する大半の人が訪れるポータルサイトのトップ画面で、継続的反復的に提示されるというのは、やはり大きな意味があるでしょう。

こうしたGoogleの取り組みを通じて、「男女で」「一対一で」なくてもかまわないんだという気付きに至り、より多くの人がラクになれるといいのになと思います。


異性カップルならOKなことが同性カップルだと不可なのは差別 [多様なセクシュアリティ]

というわけで、お知らせブログの方で紹介したとおり、ワタクシ佐倉智美の『性同一性障害の社会学』のことが2015年2月13日(金)の朝日新聞「天声人語」にて言及されたのですが、そのきっかけとなったのが、東京の渋谷区が同性カップルに対して「結婚に相当する関係」と認定して証明書を発行するべく条例化を目指すという取り組み。

→ [参考]東京新聞webサイトより
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015021202000140.html


これは、素直に考える限りは、大変に画期的で喜ばしいことでしょう。

異性カップルなら当然の権利が同性カップルだと認められないのは明白な差別。
そういう困った状態を、少しでも補完して、同性カップルの社会的な福利の向上が図られるのは、人権の観点からも大いに評価されるべきです。
まずはこの条例、成立するよう期待したいところです。


だいいち(参考に示した上記のリンク先の東京新聞の記事にもありますが)日本国憲法24条というのは、そもそも「親どうしが決めた許嫁」のようなことはダメであって、誰でも本人どうしが望む相手と結婚できるべきという趣旨のはずです。
したがって、これが同性婚を否定する根拠に使われるのは、その趣旨と真逆な解釈なのではないでしょうか。

「憲法解釈を変える」というのであれば、まずもってこういうところからというのがスジだと言ってもよいでしょう。


もちろん、また別の次元での問題提起として、まぁ結婚とか家族とか、あと戸籍をめぐる諸制度の抜本的な作りなおしが、まずもって必要になってきてるよね……というのもとみに重要な論点です。
が、現状で異性カップルと同性カップルが異なる取り扱いを受けている事実が、法の下の平等にも反しているだろうと指摘することは、それらともじゅうぶんに両立します。


◎『桜Trick』でコトネちゃんに許婚がいるという設定は、憲法24条が同性婚否定の理由に使われることへの風刺とも読めますね

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(アニメショップ「アニメイト」フリーペーパー
「きゃらびぃ」Vol.322(2014/06/05)によるまとめより
 原作コミック『桜Trick』タチ:作)


恋愛・結婚、性、そして家族や共同体のあり方にかんしても、多様性を肯定して取り込んでいったほうが、文化として豊穣になり、社会の制度だってより盤石になりえます。

徒に同性愛を忌避したりするよりも――すなわち「同性婚が家族制度を破壊する」などと言うよりも、さまざまな結婚や家族のカタチが用意された社会のほうが、例えば「少子化対策」等々にしても、むしろ上手くいくのではないだろうかという発想は、今まさに求められているものではないでしょうか。


……思えば、すでに拙著『性同一性障害の社会学』の中でも、じつはそのようなことは述べてあったりします。
今般はモリゾー&キッコロの性別の件が言及されたわけですが、その意味では、ぜひこの機会に、多くの方にあらためて手にとっていただけると幸いです。


そうして、元の話題である渋谷区の「同性カップル証明書」についても、こういうニュースをきっかけに一般の関心が高まり、セクシュアルマイノリティがより生きやすい社会になっていくことにつながればいいなぁと思います。


  ☆ 



ハピネスチャージプリキュア恋愛(異性愛)要素再投入の収支決算 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

今年度はプリキュアシリーズ10周年。
10年の節目だった前作『ドキドキ!プリキュア』の感動を引き継いで始まった、11年目にして9代目のプリキュア『ハピネスチャージ プリキュア!』も、1年間の放映が進み、本日2015年1月25日の先刻、最終回のオンエアが終わりました。

今作でも、主人公ら女の子たちが、相互の友情に裏打ちされた強い意思で行動し、溌溂と物語の主体になっていくという作品の主眼は揺るぎません。

また、自分たちの大切な日常を守るために戦うということが基盤に据えられていることや、敵を正義の名のもとに殲滅するのではなく、愛と癒しのスタンスで昇華し救済して、誰もが尊ばれる共生の大団円が導かれるところなどでも、プリキュアの真骨頂は引き継がれています。
いわゆる『宇宙戦艦ヤマト』の旧作が台詞だけでとってつけていた「僕たちがすべきことは戦うことじゃなかった、愛し合うことだった」を実践するとしたらどういうことなのか……を『ハピネスチャージ』もまた、きちんと体現してくれた、と言ってもよいでしょう。
(いゃまぁプリキュアもアニメ表現上は、さしあたりは戦いますが;)

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§画像はプリキュア・他作品とも放送配信画面より。
 以下この記事中同じ


シリーズが積み重ねられる中で培われてきた定石をしっかり押さえながら、子どもも大人も楽しんで納得できる手堅い仕上がりであったのは間違いないでしょう。

具体的な良かった点、好きなところなど、挙げだすとキリがないほど多数ありますので、本記事ではそのあたりは割愛することにいたします。
もしよろしければ、各位 作品をお確かめいただければと思います。


  

  


ただ、今作『ハピネスチャージ』が、前作『ドキドキ』をはじめとする過去作に比して、これまでにない新しい何かを描き、この2014年度にこそ求められるテーマに斬り込んで、過去作を超える感動をもたらしえたかというと、いささか疑問となる点も少なくなかったのではないでしょうか。

そして、その最たる理由は、恋愛(異性愛)要素の描き方が上手くまとまらなかったことに収斂されると、私は考えます。

当初の触れ込みでは、この恋愛(異性愛)要素こそが、『ハピネスチャージ』のシリーズの他の作品と異なる特長となるようにも読める説明もありました。

むろん過去作でも、主人公らが男性に対して恋愛感情を持つことが皆無ではなかったです。
ただ、どちらかと言えば、そうした恋愛(異性愛)要素はアリバイ的に登場するものの、物語のメインストリームからは後景化されていて、逆に主たる人間関係は主人公たちの女どうしの絆のほうに焦点化されることが通例でした
(その少女たちどうしの親密性の描写がすこぶる濃厚なことをもって「百合キュア」といったスラングもできたほどです)

特に、このところの過去5作くらいはその傾向が強く、主人公らプリキュアチームの誰かが男性に対して恋心を抱くことが(ほとんどなく、あっても)話の本筋に大きく絡むことはありませんでした。
そして、その傾向が極限まで究められることで、むしろ普遍的な「愛」のありようを示したのが、前作『ドキドキプリキュア』だったとも言えるでしょう。

『ハピネスチャージ』は、そういう慣習から一歩踏み出すことで、新たなプリキュア作品としての特長を創ることを期して、恋愛(異性愛)要素を意図的に再投入しようと試みたのかもしれません。
ただ、結果的には、その点については目論見が効果的に奏功せず、どちらかというと蛇の足を描いてしまった形になっているところも多いように見受けられるのです。

 → ハピネスチャージプリキュア朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/precure/happiness/
 → ハピネスチャージプリキュア東映アニメーション公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/happinesscharge_precure/


念のため確認しておくと、プリキュアシリーズのような「女の子アニメ」に恋愛(異性愛)要素を取り入れることで起きることが予測される(≒プリキュアシリーズ以前には「起き」ていがちだった)問題点は、基本的には以下の2点と考えられます。

1:主人公ら女性キャラの主体性が、恋愛対象である男性キャラに奪われる
2:異性愛を恋愛の標準として規範化してしまう危険性がある

[1]については、恋愛というものは構造的に「惚れた/惚れられた」という権力関係が生じてしまううえに、男女間の関係性というものは意図するしないにかかわらず社会の男性優位構造の影響を受けてしまうので、男性キャラに恋愛感情を持ってしまった女性キャラは、相手の反応に束縛され、主体的に生き生きと行動できなくなってしまうという難点が生じます。

「恋愛」が正面切っての主題であるような作品はもとより、一見するとプリキュアシリーズと同類の作品に見える『セーラームーンでも、タキシード仮面の存在が、今にして思うと主人公らが自ら伸び伸びと思い切り活躍するうえでの障害になっているようにも感じられてしまいます。
特に2014年はちょうど『セーラームーン Crystal』が新たなリメイク版アニメとして公開されましたが、デジタル制作での美麗な画面になって最新のアニメ作品と同じ土俵に乗ってしまうと、月野うさぎがタキシード仮面をめぐって右往左往して泣き叫んでいるだけの惰弱な物語にしか見えず、主人公性が非常に希薄なものとなってしまっています。
これは、例えば同時期放映の「ジャンル・プリキュア」作品であった『結城友奈は勇者である』では、主人公・結城友奈が自らの強い意志で、友だちとともに暮らす世界を守るために行動する様子が明確に描かれていたのと、まさに対照的です。

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§タキシード仮面との恋愛が強調される『セーラームーンCrystal』

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§すぐ側まで迫る怪物。怖い。でも友だちを置いては行けない。
 だから私ががんばる! …な『結城友奈』

 → 『結城友奈は勇者である』公式サイト
http://yuyuyu.tv/


[2]に関しても、異性間の恋愛を当然に価値あるものとして全面に押し出して憚らないプロモーションは、いまだにあとをたちません。『セーラームーン』旧作アニメ中でも「女の子はイケメンに恋心を抱くもの & 格好いいカレシをゲットしたいと思っていて当然」的な価値規準が折にふれてアピールされます。

そのような描写がスタンダードなプロットとなることで、そうした「異性への恋愛感情を持つこと」が半ば義務となり、それができることがある種の資格となり、そこにコミットできない者を社会から排除する圧力となってしまいます。

以前に映画『図書館戦争』の宣伝手法が気になった際にまとめたこちらも参考に
 → 「図書館戦争」はメディア良化委員会検閲済み映画か!?


ただ、では『ハピネスチャージプリキュア』が、そうした「<ヘテロ>セクシズム」とロマンチックラブイデオロギーの陥穽に堕ちてしまっていたかというと、必ずしもそうだとは言えなかったりもします。

上記[1]をめぐっても、最初に述べたとおり、主人公らの仲間としての結束のもとでの自発的な行動は揺るぎがないものです。

メイン主人公・愛乃めぐみには、たしかに「男性」への恋心を自覚する展開が用意されていましたが、それが彼女の行動原理のすべてを支配することにはなりません。
あくまでも、プリキュアとしても、ひとりの中学生としても、それは自分の日常生活の一部分を占める要素に過ぎず、他の何よりも優先すべき事項ではないのです。

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他のキャラについても、なるほど、異性への恋愛が話題の俎上にのぼって何らかの動きが描かれることは、シリーズ従来作よりは目立ったのかもしれませんが、かといって話の本筋に大きく関わる各々のキャラの大きなテーマになるわけでもありませんでした。

[2]のほうも、やはり従来作に比べれば、多少は鼻につくこともないではなかったですが、異性愛だけが絶対の価値であるように断言されることは慎重に避けられていたと見てよいでしょう。

従来作に負けず劣らない「百合キュア」名場面の数々さえ生み出されていましたから、異性との恋愛こそがすべての人間関係の頂点であるかのようなメッセージを発する誤謬は、実際のところ、なかったと言うことができます。

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その意味では、『ハピネスチャージ』が従来作に比して甚だしく趣が変わったわけではなく、特に何らかの深刻なマズい点が顕現したということもないわけです。

もっと言えば、この異性愛要素投入の真意は、一見すると恋愛(異性愛)の称揚のように思わせておきながら、じつは恋愛のあり方をめぐるさまざまな現行ルールの不合理を再考しようという狙いがあるのではないか――、そういう意気込みさえ読み取れる作劇も終盤間際までおこなわれていました。
※個人的希望としては「もぅべつに男女で1対1でなくてもエエやん!」と既存の恋愛規範――ヘテロノーマティビティとかモノアモリーとか――を思い切りチャブ台返ししてくれないかなぁと期待していたのですが、さすがにソコまでは日曜朝の番組の枠組みでは難しかったようです;

したがって、正確を期して言うならば、『ハピネスチャージプリキュア』は、恋愛(異性愛)要素を上手く描けなかった……のではなく、効果的にコトを運べなかったのは、むしろ守旧的な恋愛(異性愛)要素を対照群として見せることを通じて、そうした「男女」二分法に基づく異性間恋愛至上主義に囚われることの愚かさを炙り出してやろう、という企図のほうだったのではないでしょうか。


そう考えれば、『ハピネスチャージプリキュア』のウィークポイントも、おおむね次の2人のキャラをめぐるところへ集約できます。

そう、恋愛(異性愛)要素のために、わざわざ「男性」として設定されたのであろう、相楽誠司と、「地球の神」ブルーです。

はたして、この2者を男性キャラとして設定したことで何が描けたのか、逆に女性キャラでなかったためにどういう支障が出たのでしょうか?


まず相楽誠司。

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彼は、メイン主人公でありキュアラブリーに変身する愛乃めぐみ家が隣りの幼なじみとして設定されています。
飾らない人柄で学業成績も優秀、周囲の誰とも誠実に接するという、まさに今日の理想の草食系人格的イケメン男子です。

めぐみのほか、キュアハニーに変身する大森ゆうことも小さい頃からの仲、キュアフォーチュンに変身する氷川いおなとは同じ空手道場(←いおなの家)に通っている、キュアプリンセスに変身する白雪ひめともめぐみを通じてすぐに打ち解けます。

必然的に、ほどなく4人がプリキュアであることを知るところとなる誠司は、4人を物心両面から後方サポートする裏方を買って出ることになります(空手の腕を生かして、敵の下っ端の戦闘員の何人かくらいならやっつけたりも)

これは昭和の仮面ライダーで言えば立花のおやっさんらのポジションと言えるでしょうか。
あるいは平成ライダーにも引き継がれている「ヒロイン」ポジションのキャラが、プリキュアシリーズであるがゆえに男女逆転していると解釈できるかもしれません。

いずれにせよ、こうしたプリキュアチームを身近なところから支援する役回りのキャラが、主人公らと同年代の男の子というのは、今までになかったことで、『ハピネスチャージ』の斬新なポイントたりえました。

ですから、そのうえでキュアラブリーめぐみとの恋愛関係進展描写も、上手く工夫して織り込めば、非常に興味深い展開も可能だったかもしれません。
実際、最終回のラストなどは、なかなか趣のある良い感じのシメになっていました。

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ただ全体としては、2人の親密性を古典的な恋愛関係としてベタベタに表現するのか、それとも「恋愛と友情の境目」自体を超越した深い関係性に持っていくのか、そのあたりの匙加減が中途半端になってしまったきらいはあります。

そのせいで、終盤の展開において、誠司が敵ラスボスの甘言によって悪堕ちし、敵としてプリキュアに立ちはだかることになったときにも、その理由がいささかピントがボケてしまった感がありました。

はたして誠司が闇堕ちするきっかけとなる、その心の闇の深層は何だったのでしょうか。
めぐみが異性として自分を見てくれなかったから?
めぐみ自身の(他の「男性」への)恋の悩みに手が届きにくい立ち位置のジレンマ??
めぐみたちを守りたいと思ってもむしろ自分がプリキュアに守られる立場???
もしくは誠司がプリキュア4人の絆に加わり難かった疎外感!?
もっと言えば男の子だからとプリキュアにはなれなかったメタ的な不満!?!?

……そのあたりが、視聴者にしっくり納得のいく形で提示されることが、誠司が恋愛要員なのかソレを超越する存在なのかの描写の振れ幅によって、難しくなっていたように思えます。

そう考えると、相楽誠司もまた女性キャラとして設定してあったほうが、例えば『戦姫絶唱シンフォギア』における主人公・立花響のいわば「腹心の友として寄り添う小日向未来の立ち位置のキャラを、プリキュアシリーズにおいても描いてみる機会となり、こちらもまた(仮面ライダーの「ヒロイン」ポジションのキャラをあえて男女逆転させずに変身少女戦士モノに女性キャラとして登場させるとどうなるのか……という実践という意味で)画期的なことだったかもしれません。

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§『シンフォギア』の小日向未来と立花響

『シンフォギア』でも響と未来の仲違いや、未来が「敵として立ちはだかる」展開がありましたが、女性キャラどうしであるがゆえに、異性愛にまつわる厄介な現行ルールに邪魔されることなく、仲直りも、悪堕ちからの帰還も、スッキリと見せることができていました。

誠司の終盤での闇堕ちとそこからの帰還は『ハピネスチャージ』の大きなヤマ場です。
そこを的確に演出するうえで、誠司が女性キャラでなく男性キャラだったことは、やはりマイナス方向に働いていた側面のほうが大きいのではないでしょうか。

また、そもそも誠司が女性キャラであれば、プリキュアの4人の絆から一歩距離が生じてしまうことも軽減できたでしょうし、プリキュアシリーズの定石からすれば誠司もまたプリキュアに変身することになったのではないでしょうか。

あるいは、ソコをさらに逆に考えて、男の子である誠司を、ソレに拘らずプリキュアにしてしまうというような手もあったかもしれません。

途中まで大森ゆうこが変身主であることが秘匿されていたキュアハニーは、制作側からは驚くべき意外な正体であるように語られていたので、視聴者からの「もしかしてハニーは誠司なのでは!?」という予想は、半分冗談ながら少なくありませんでした。

「もしかして相楽誠司と大森ゆうこでウルトラマンエースみたいに2人で変身するんじゃ? …てーか[せいじ]と[ゆうこ]なのはソノ伏線!?(ウルトラマンエースに変身する2人は[北斗星司]と[南夕子])

……なんて意見もあったものです(^^)。
※「ハニー」に寄り添う「せいじ」という点では『キューティーハニー』へのオマージュでもあったという説も

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かくして『ハピネスチャージプリキュア』における相楽誠司という魅力的な男性キャラの動かし方については、いささか消化不良感が残る結果になり、いろいろともったいないです。
それが作品全体のパワーにも負の影響を及ぼしているのであれば、なかなか遺憾なことではあるでしょう。


次に「地球の神」ブルーのほうを見てみましょう。

えぇー、というか、結論から言って、コイツがA級戦犯ですw、いろんな意味で;

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仮にも地球全体を管轄する神様という立場の存在なのに、こんなビミョ~な感じの残念系イケメンに設定されてるせいで、世界が大変なことになってしまったわけですから。

まずは、このビジュアルで思わせぶりな態度をとるもんですから、愛乃めぐみがうっかり恋心を抱いてしまい、それが終盤の相楽誠司悪堕ちの一因につながってます。
めぐみ自身の行動が制約を受けるということも、おそらく閾値以下では頻繁に起こっていたかもしれません。
それでいてブルー氏本人にはあまり自覚がなく、そのあたりの補償となるような行動にも乏しい。
まさに、主人公である子どもたちから見て役に立たない系の大人キャラの典型です。

それから、敵のトップであったクイーン・ミラージュも、やはり(誠司と同様にラスボスからの唆しがあったとはいえ)悪堕ちし、世界を不幸に染めようと画策する悪の帝国を指揮するようになった原因は、このブルー氏との恋がかつて儚くも叶わなかったせい。
まぁ基本的に子ども番組ですから生々しい表現では語られませんでしたが、実態は「ヤるだけヤって捨てた」みたいな印象でもありましたから、少なくともミラージュさんの主観ではかなりブルー氏が極悪非道です。
その後のブルー氏の対応も後手後手で、事態のさらなる拗れを招く結果となっています。

あと、最終的なラスボスとして登場した、ブルー氏と同様に「別の星の神(だった)」レッドさん
この人も、ブルー氏に負けず劣らず面倒くさい人でしたが、憎しみに燃えて愛と幸せを否定し続けたその動機の背後には、どうやらブルー氏への嫉妬とか、もっと言えばブルー氏に対する秘めたる恋心が(え、「男どうし」? それが何か??)あったのではないか? …というような愛憎が行間に垣間見え、でもっておそらくは今までブルー氏がそういうレッドさんの思いに適切に対応してこなかったんだろうなとも推測されるところでした。

もちろん、これらは作中でのブルー氏のヘタレっぷりですし、めぐみが恋愛感情を抱いてしまう展開は本来的にそういうプロットを狙っていた通りのものです。

主人公らの味方サイドの重鎮としての大人キャラには、しかるべき役割を果たしてほしいところではありますが、そこをあえて逆に、そのポジションの存在として相応しくなく造形するというのも、何かを描くためのあえての定石外しならアリでしょう。

しかしブルー氏については、制作側が何を狙ってこのようなキャラ描写にしたのか、その意図が見えにくく、そのために、視聴者はブルー氏を見ていて落ち着かない、居ずまいが悪い思いを強いられたのではないでしょうか。

その点『結城友奈は勇者である』では、主人公たちの住む世界を護持する「神様」は、(「神樹」と呼ばれる)何やら禍々しささえ湛えた巨大な樹木状の存在でしたから、主人公たちの大切な日常を支える恵みの源という側面と、主人公たちに変身能力を与えて戦いに赴かせる真意の謎めいた胡散臭さが、バランスよく成立して、効果的に物語にかかわることができていました。
※『結城友奈は勇者である』も、世界の暗部を仄めかしつつ、途中はかなりの鬱展開に振れ、最後は幾ばくかの謎が残されたままになりましたが、今般のアニメで描かれた範囲では、友だちと、その友だちとともに日常を生きる世界を、自分たちで守るんだという女の子たちの強い願いが一本芯として通った物語でした。

そうなると、『ハピネスチャージプリキュア』で、「地球の神」ブルーを、このように恋愛対象にもなりうるような人間体の成人男性に設定したことは、やはりデメリットのほうが大きかったと思えてしまうのです。

十歩譲っても、光の園のクイーンやメルヘンランドのロイヤルクイーンなど、今までのプリキュアシリーズの前例の中に、倣うべきモデルケースはあったはずです。

百歩譲って等身大の人間体だとしても、あのような残念イケメンではなく、女性キャラであれば、プリキュアシリーズらしくキレイにまとめられる確度は上がったでしょう。

例えば『プリパラ』アニメ第24~25話では、生徒たちのプリパラでのアイドル活動を執拗に校則で禁止し取り締まっていた校長先生――にまつわる演出がプリキュアに登場する悪者っぽく表象されていた――が、なぜそこまでプリパラに否定的な感情を持っているのかが明かされます。
じつは若かりし頃、自分もまたプリパラに出入りしており、そこでは親友と呼べる出会いもあったのですが、ちょっとした行き違いと誤解が重なり、その親友と会えなくなった挙句、裏切られたと思い込んで絶望した校長先生は、プリパラのすべてを憎むようになった……という事情があったのです。
そして、その後ひょんなことから、その親友との再会が果たされ、思いもよらなかった真相を知って誤解は解け、プリパラ活動を通じた友情の素晴らしさをあらためて噛みしめた校長先生は、生徒たちへのプリパラ禁止校則も撤廃するに至るのです。

クイーン・ミラージュさんとブルー氏の過去の経緯とその超克も、これと同パターンであるほうが、「男女の恋愛」のこじれに由来するよりは、プリキュアシリーズ視聴者のニーズに合っていたのではないでしょうか。
あるいは、あえてそのパターンを外したのだとしたら、結果的によりよいものが出来なくてはなりません。

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§『プリパラ』の校長先生、運命の再会で誤解が解けて……


それに、ミラージュさん、つまるところ男にフラれたくらいで絶望してやさぐれてしまう、かよわく哀れな古いタイプの女性像になっちゃってますよね。
これも、21世紀の新しい女性像を提示してきたプリキュアシリーズでは、ある意味異質です。
しかも、近年のプリキュア路線で、最後は浄化され救済されちゃうわけですが、ミラージュさんとブルー氏の場合、別れた男女が元の鞘に収まってめでたしめでたし的なことになってしまうので、安易にそういう異性間恋愛至上主義的なオチに陥るのは地味に問題です。
最終回ラストでも、ミラージュさんがブルー氏に追随していく様子には、あまり自分の意志に裏打ちされた主体性が感じられませんでした。

このあたりは、「地球の神」ブルーが成人男性の人間体であったマイナス面が顕著に現れているところでしょう。

あと、まがりなりにも、味方サイドにも敵サイドにも「恋愛」にまつわる登場人物たちの感情の揺れを配置し、終盤まで引っ張ってきておきながら、最終決戦でのレッドさんの気持ちには、そういうものが不足していたように思えたのも逆によくないでしょう。

レッドさんも「ブルーーーーっ! 好きだぁぁぁーーっ!!」と叫ぶくらい(*^_^*)してもよかったのではないでしょうか。
そのくらい、レッドさんの個人的な対人関係に由来する動機は、行間から深読みでもしない限りは、明示的には説明されませんでした。
これではミラージュさんとのバランスが取れません。
ブルー氏も、もっとそういうレッドさんの言動を引き出すだけのリアクションができなかったものでしょうか。
最終回のひととおり決着がついた後になってから「じつは兄弟でした」と唐突に言われても困ります。

これはブルー、レッド、双方が女性キャラであれ男性キャラであれ、異性でも同性どうしでも、言えることです。

ミラージュさんをめぐっては恋愛ベースの愛憎を軸にシナリオを進めてきたのに、最終決戦のラスボスのレッドさんだけ、なんかもっと普遍的な「愛」の話になってしまっていては、レッドさんを説教するプリキュアたちの反駁ロジックも、どこか言葉が上滑りしたお題目に聞こえてしまいかねません。

いわば、『ハピネスチャージプリキュア』は、エロスにかかわる「愛」のストーリーに挑戦したはずだったのに、最後の最後のシークエンスでアガペーについての話にすり替わったと言ってもよいでしょう。
そしてそれなら前作『ドキドキプリキュア』がじゅうぶんに取り組んだわけなので、それを越えることは、生半可では難しくなります。
結果、最終バトルでの台詞の応酬が「愛の大安売り」に陥ってしまったのが、ラスボス・レッドさん救済への一連の演出の違和感につながっていると思われます。

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まとめるなら、プリキュアシリーズで「恋愛」に挑戦するなら、慎重に周到に準備した素材を、軸がブレないようにしっかりとアレンジする必要があるところを、『ハピネスチャージ』は、いささか詰めが甘くなってしまっていた……というところでしょうか。


ともあれ、『ハピネスチャージプリキュア』は、一定の水準をもって1年間の物語を紡ぎ終え、日曜朝のひとときに、またひとつ愛と幸せをもたらしてくれました。

そうして、それを引き継ぐのは次作『Go!プリンセス プリキュア』。
はたして今度は、どのような感動が生まれるのでしょうか。


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◎余談1:世界はプリキュアを待っている
『ハピネスチャージプリキュア』の今までのシリーズにはなかった特徴として興味深いのは、世界各地にもその地域を守るプリキュアがおり、その存在は人々に認知され、たくさんのプリキュアの活躍がテレビなどで報道されたりしている……という世界観でした。
これはプリキュアの活動が社会と交差する描写であり、プリキュアシリーズ全体としての、今後の展開の可能性を大きく伸ばすものだったと言えます。
過去シリーズでは、プリキュアの戦いがあくまでも友だちとの日常を守る範疇に収まり、女子中学生の手に余る拡がりを持ってしまわないように、バトル中の「都合のいい結界」や、バトル終了後には敵が破壊した街並みなどが元どおりになる「謎修復」などが設定されていましたが、これらは「ケアとキュアの論理」に依るプリキュアの戦いが「正義と秩序の論理」に回収されることを防ぐ機能があった反面、物語のスケールに限界が生じるという制約もありました
(いちおう『ハピネスチャージ』でも「謎修復」はありました。「都合のいい結界」と「謎修復」の両方がなかったのは、今のところ『フレッシュプリキュア』のみでしょう)
あと、世界各地にもプリキュアがいるというのは、単純にオモシロイです。
『ハピネスチャージ』では終盤の主人公たちのピンチに世界各地のプリキュアたちが応援に駆けつけるという展開がありましたが、それがどこか「東映まんがまつり」のノリを彷彿とさせて、なかなか熱かったです。

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◎余談2:五体不満足でもプリキュアになりたい
本文中で触れた『結城友奈は勇者である』については、独立して1記事にしたいくらいなのですが、この場を借りて1点だけ、重要な点を指摘したいと思います。
本文中の引用画像にも写っていますが、主人公・結城友奈の親友の東郷美森は車椅子のユーザーとして登場します。
が、そのことがまったく特別なこととしては位置付けられず、不都合を補完するバリアフリー設備の描写も細かくおこなわれ、公式サイトのキャラ紹介の文面でも車椅子については言及されず、歩行にかかわる身体機能の不保持が何の障害にもほとんどならないものとして、誰もがありのままで生きられるノーマライゼーションの理念が実現された世界観が提示されていました。
しかもこの東郷さん、第2話ではピンチになった親友・友奈チャンの姿を見て決意し、自分もまた変身して戦うようになるのです(しかも、変身システムの機能により移動に支障はなくなるものの「変身したら歩けるようにもなる」わけではない
 → 『結城友奈は勇者である』公式サイト[東郷美森]キャラ紹介
http://yuyuyu.tv/character/#mimori
 → 《参考》「結城友奈は勇者である」の徹底したバリアフリー描写が凄い
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141127/E1417016920537.html

プリキュアシリーズでは、今のところ「五体満足な女の子」以外の変身者が存在した実績は描かれていませんから、これはかなり画期的でした。
いわば「身体障害者でもプリキュアになれるとはこういうことだ」というモデルケースを示したわけです。
ただし、この「東郷さんの車椅子設定」にはいろいろ隠された裏の真相設定があり、最終回ではプチ「安易に『クララが立った!』を喜んで、『障害』をいけないもののように扱う」問題に行き当たっていましたので、できれば今後の何か別作品で、本当に何の特別な意味付けも背景もなく障害者がフツーにさらっと登場して主人公チームの一員として変身ヒーローになるのを、いつかあらためて見てみたい気はします。
この課題は、『プリパラ』でレオナを見ていて感じる「やっぱりプリキュアにもそろそろ男の娘を出す時期に来てるやろ」と双璧をなすものとして、ぜひとも今後のプリキュアシリーズでも検討されてほしいと思います。
プリキュアシリーズも、他作品にさまざまなバリエーションが登場してきている昨今、時代に追い越されないためには暢気に恋愛描写を入れている場合ではなかった……と言うと言いすぎでしょうか。

  

  

◎さらに余談3:ここまで来たプリキュア変形譚(^^)
なお、2015年1月には、広い意味では「ジャンル・プリキュア」作品と(たぶん)言えるアニメ作品として『美男高校地球防衛部 LOVE!(→ 公式サイト』が始まりました。

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……………男の娘どころか「男子が男子のままプリキュアになるとはこういうことだ」というモデルケースを示しましたね。この手持ち武器のなんという魔法少女バトン感!(^o^;)
ストーリーも、プリキュアシリーズの鉄板展開を忠実にトレースしています。
かつて『鎧伝サムライトルーパー』がオンエアされていた頃に、よもや四半世紀後の装着変身モノがこんなふうになってるだなんて、誰が予想しえたでしょう。


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あと、『ドアマイガーD(→ 公式サイト』も、画面の質感はわざと1970年代ロボットアニメふうにつくってありますが、その敵との戦いの内容は[心に負の感情を抱えた人が悪者によってそれを増幅されて怪物化する]→[主役ロボットがそれを「浄化」する]というプリキュア方式をきっちり導入しています。
しかも「浄化」のためのパワーが「京菓子」!
キュアハニーの「食」へのこだわりは『ハピネスチャージ』でも触れられていましたが、食べ物や食事をすることをメインに据えたものはプリキュアシリーズでもいまだにないので、この点もなかなか興味深い『ドアマイガーD』です。