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愛をとりもどせ! ユーリとユーフォと百合とBL [多様なセクシュアリティ]

昨秋・2016年10月期のアニメとして最も話題になった作品といえばユーリ!!! on ICEであることに異論は少ないでしょう。

「本格フィギュアスケートアニメ」の看板に偽りのない精緻で優美な滑走シーンとともに描かれる、日本の特別強化選手・勝生勇利とコーチに就任した世界的実力者・ヴィクトル・ニキフォロフの、固い絆~深い心の交流……。

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※本記事中の画像はすべて各作品の公式のサイトや放送画面から学術研究のための引用としてキャプチャしたもの

アニメ『ユーリ!!! on ICE』公式サイト


その様子が、いわゆる同性愛的にも見える領域まで躊躇なく踏み込んだものであったことなどは、賛否両論等々をまじえながら大きな反響を呼びました。

そのあたり、非常に大きな意義もあったと言えるわけですが、残念ながらワタシはじっくりと視聴する機会は逃してしまったので、詳しくはガッツリとハマった皆さんがいろいろ書いておられるのを適宜検索されるのがよいかと存じます。

例えば【 ユーリ 指輪 】でgoogleにかけると(2017年1月初頭現在)次のようなページなどが見つかりました。

ユーリオンアイス 10話感想~結婚したって何回言わせる気だ!!あとダンスバトルED最高でしたありがとうございますッ!!/びーきゅうらいふ!

ユーリ!!! on ICE 10話感想 ペアリングで婚約/女子向けアニメの感想ブログ


そして、そうした中でも、この『ユーリ!!! on ICE』が描いたものが「愛の再定義の物語だと論評するものは、なかなかに興味深く核心へと迫るものがあります。

作品で描かれる物語を通じて愛たる概念が定義され直そうとしているのだという着眼点に沿った批評は非常に示唆的です。

『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」/小夜倉庫


言うまでもなく、現行のロマンティックラブイデオロギーのもとでは、あらゆる愛に優越して異性間の恋愛にまつわるものが至高の愛であるかのように位置づけられています。

しかし、本来はエロス的なものからアガペー的なものまで多岐にわたるのが愛ですし、恋愛にまつわるものに限っても、異性間 同性間を問わず、その実相はさまざまなのが本来でしょう。
異性間の特定の様式のものに則った恋愛のみが特権的な価値を与えられているというのは、ある種の「愛の簒奪です。

その意味でも、私たちが一度「愛」のさまざまなかたちを再確認し、各々の社会的な位相に応じて定義しなおすことは、大いに必要なことだと言えます。

いわば、非常に狭い範疇に囲われてしまい、享受できる人が非常に限られた状態になってしまった「愛」を、今一度、万人の日常にとりもどすことが求められているのではないでしょうか。
まさに「愛をとりもどせ!」ですね。

『ユーリ!!! on ICE』が、その「愛をとりもど」す作業のためには非常に有益だったことは、もはや疑問の余地もないでしょう。


そして、そんな「愛の再定義」に際して、もうひとつ有用な概念が、そうです、例の引力ではないでしょうか。

人と人とがひかれあう力「引力」


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思えば、このアニメ公式サイトでの主要登場人物相関図を見るに、響け!ユーフォニアム』もまた「愛の再定義」の物語であったことは明らかです。

アニメ『響け!ユーフォニアム2』公式サイト


じつにさまざまな矢印が入り組み、それぞれがそれぞれのかたちの引力に導かれた「愛」としてそこにあります。

公式に「引力」と記された中心人物である高坂麗奈と主人公・黄前久美子

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久美子の幼馴染で恋愛感情を自覚し麗奈がまるで恋のライバルなごとき塚本秀一

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犬猿の仲という名の絶妙コンビな中川夏紀吉川優子

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すれ違いによる誤解からの修復と恢復を経た鎧塚みぞれ傘木希美

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そんな鎧塚みぞれをずっと気にかけていた吉川優子

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同時に吉川優子から中世古香織へは崇拝に近い敬慕。

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その中世古香織からの田中あすかへの並々ならない情念。

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……等々という具合に、多分に複雑で重層的な入り組み方で輻輳しています。


そうして、そのいずれもが「誰かのことが好き」という偽らざる気持ちとしてまちがいなく存在するものなのです。

一見すると既存の二元的性別制度と異性愛主義に適合する形をとっているものも含まれていはするものの、基本的にはすべてがもう「男」「女」「同性」「異性」「恋愛」「友情」といった概念を超越した「好き」、すなわち【再定義された愛】の実践となっているわけです。

まさに「引力」のおもむくまま――。

それを、単なる現行のデファクトスタンダードにすぎない異性愛主義モノアモリー規範で仕分けてしまうのは、甚だしく乱暴なことであるのは容易に理解できましょう。

特にアニメ2期の最終回では、卒業する田中あすかへ、後輩としていろいろな形で関わることとなった中で関係性を紡いでくることになった主人公・黄前久美子から、あらためて敬愛の情が伝えられる、すなわち「愛の告白」がおこなわれるシーンがクライマックスに据えられています。

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これは、先の久美子と高坂麗奈の「引力」が比類のない強さであることと矛盾するようで戸惑った視聴者もいたかもしれません。

しかし、いろいろな「好き」があり、当然にそれらは複層的に両立し併存しうるものだと考えれば、これもまた何の不思議もありません。

こっちの「好き」が本当なのなら、あっちの「好き」は嘘である……なんてことは面倒くさいからやめてしまいましょう。
どの「好き」も、全部が本当の「愛」でよいではありませんか。

むしろ、自分の気持のありように添うように、そのつど「愛」を再定義すればよいのです。

『ユーリ!!! on ICE』も『響け!ユーフォニアム』も、そのような営為を進めていくための、大いなるヒントを提供してくれているのは間違いありません。


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そんなこんなで「愛の再定義」を試みる作品がこの時期に複数現れているのは偶然ではないでしょう。

「同性」「異性」「恋愛」「友情」といった悪しき旧弊は、本当にこの好機をとらえて社会の構成員全員で考え直してみたいところだと言えます。


  

  

◎「愛の告白」の意味の拡張
「愛の告白」という言い回しの拡張的な用法が広まったのも『響け!ユーフォニアム』アニメ1期の第8話でした。
あがた祭の日に雑踏を避けて2人で登った大吉山展望台の美しい夜景が印象的な一連のシーンにおける、高坂麗奈が強く感じる心の共鳴を黄前久美子に伝える際の「これは、愛の告白」というセリフは大きな反響を呼び、以後、他作品などでも類似したシチュエーションでは「あっ『愛の告白』だ(*^^*)」というような認識が広まったと言えます。
また、その祭の夜の大吉山展望台で久美子と麗奈が合奏する曲が奥華子の「愛を見つけた場所」だったというのも、現時点から遡及的に解釈すれば、2人がこの場所で見つけたものは他ならぬ愛ですよという「愛の再定義」がおこなわれていたのだということにもなるでしょう。


◎ユーリをめぐる百合とBL
『ユーリ!!! on ICE』で深く親密な関係性が描かれたのは男性キャラどうしがメインでした。
同性愛的にも見える領域へ踏み込んだ描写の際には、いわゆる腐女子ファンが喝采する傍らで、ホモフォビア的な感想も湧き出ていたようで、一部では深刻な摩擦が生じていたようにも見受けられました。
ただ、これらの登場人物を女性キャラに置き換えた、いわゆる百合モノであれば、ソレらはもはやべつに珍しくもない描写なのではないのだろうか? というギモンが頭をよぎらなくもありません。
『響け!ユーフォニアム』もそうですし、ラブライブシリーズやプリパラ・アイカツなど各種のアイドルアニメ、各種日常系アニメ等々でも同様です。
ジャンルとして比較した場合、BLのほうが、主にコミックとしての展開は歴史が長く、作品群の層も厚いと言えます。しかしそうした蓄積とは逆に、このような同性間の多様な親密性描写がアニメでおこなわれることに関しては、むしろもしや「百合」のほうに一日の長あるのでしょうか?
特に「百合」については、女性キャラどうしに何らかの関係性が発生していれば、かなり幅広く「百合」だとざっくり捉えられるのに対して、BLに関しては、性行為描写の有無などに依拠して「ホモではないけど何か崇高な関係性だ」「崇高だからBLには該当しない」「でもじゃぁ何て呼べばイイんだ!?」のようなあまり意味があるとも思えない論争が繰り広げられることもあるようです。
これらの「百合とBLの非対称性、要はこの社会で分離的に配置されている女性カテゴリと男性カテゴリの間のさまざまな不均衡の反映なのだろうなとは考えられます。
特にフィクション作品にまつわる歴史的な経緯には注意を払う必要があるでしょう。
男どうしの熱い友情を描く作品は昔からフツーにたくさんありました。いわゆる少年誌のスポーツもの・ヤンキーもの・格闘もの等々。
そこには元来は性的な要素はなかったものの、主に女性ファンらが一種のパロディとして読み替えをおこない、性的要素を絡めた二次創作「やおい」を楽しみ始めたのがBLの源流にあります。
なので、必然的に「BL」と言えば性描写のイメージが切り離し難い。背景にはそうした歴史的経緯がなくはないです。
一方、一昔前は女性どうしの友情などをメインに据えて描く作品は希少で、基本的に女性キャラは男性に恋愛するか、男性から恋愛されるかによってしか存在できず、女性キャラどうしの関係性は間に男を挟んだかたちでしか描かれない傾向もないではなかったでしょう。
だからこそ「ベクデルテスト」のような指標にも意味があったわけです。
それが時代の進展で、ようやく近年は女性どうしの関係性を前景化した作品が増えてきました。結果そこのところに着目して作品を鑑賞したり、二次創作の要諦に据えるようなことも主流化しつつあるのが、この2010年代です。
なので、その際には女性キャラどうしの親密な交流が描かれるという事実が肝要なのであって、「性的なカンケイ」の有無は、包括的に捉える限りあまり問う意味がないことになります。
「女性キャラどうしに何らかの関係性が発生していれば全部《百合》!」なのには、こうした事情もあるのではないでしょうか。
ともあれ、このような考察をとおして多くの人が【べつに「《男女異性愛》なのが正常で普通」というわけではないよな】という気づきを得て、以て現実社会の男性カテゴリと女性カテゴリに分離的に配置された構造自体が、その不均衡ごと撹乱されていくとなれば、大いに意義深いところでしょう。


◇なお、こちらで泉信行さんがやはり『響け!ユーフォニアム』をとりあげて考察されている記事も大いに参考になるかと思います。
『響け!ユーフォニアム2』に見る恋愛のアレゴリーと、『やがて君になる』の百合/ピアノ・ファイア


◇◇


奥華子「夕立」の歌詞の意味はソレでいい? [多様なセクシュアリティ]

ブログのアクセス解析を見ると、【 奥華子 夕立 歌詞 意味 】という検索ワードからアクセスしてきている方が少なくない傾向が、けっこう長らく常態化しています。

以前に書いた記事が、この検索ワードでヒットしやすいせいだとは思われます。

 → 異性愛にしか聞こえない
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2012-03-29_songs-hetero


加えて、この歌の歌詞について、その意味するところの解釈に迷う人も多いというニーズもあるのでしょう。

 《参考》歌詞タイム:「夕立」(作詞:奥華子)
 → http://www.kasi-time.com/item-64075.html


つまり、この歌詞中の普通の恋人どうしてもなれないってどういうこと? なんでなられへんのん?? ……ということでしょうか。


これについては、私としては、上述のブログ記事中で同性カップル説をひとつの解釈として提唱しました。

個人的には「百合解釈によって非常に切ない歌として気に入ってたりもします。


◎余談ながら、この奥華子の「夕立」の歌、小説『1999年の子どもたち』の理素奈×歩の、そのフクザツな事情の2人のテーマソングにピッタリではないかなぁ…と、かねて思っています;


  


ただ、最近になって、本当にそうなんだろうか!? という気もしてきています。

たしかに「恋愛とは男女間でするもの!!」と思い込んでいる人に対してであれば、この同性カップル説は、なかなか斬新な解釈として成立するでしょう。
それはそれで意義があることです。

しかし、性の多様性を当然のものとして受け止めるならば、ほんの同性カップルなど、もはや「普通」のことです。
そんな大騒ぎするほどのことはありません。

この歌の真髄を引き出すには、もっとその先の解釈が求められる、そういう時期に来ている――。

話を2周くらい回してみると、そんなふうにも考えられてくるのではないでしょうか?


そこで、あらためてじっくり楽曲を聴き込んでみたところ、ひとつの新説に至りました。

じつは、ここに登場する2人は「男女」なのかもしれません。

そして、「男女」ではあるけれども、2人としては単なる友だちでいたい。

にもかかわらず、周囲は「男女」であるからと恋人どうしになることを期待し要求してくる。

いっそのこと、女どうし、もしくは男どうしであったならば、恋人になることを強要もされなかったろうし、むしろ落ち着いて自分たちのペースで恋人になることもできたかもしれないのに……。

そういう、男女間の「普通の恋人」以外の関係性を実現することの困難性を、ここでは「普通の恋人にどうしてもなれない」と形容しているわけです。


どうでしょうか?
もちろん、これもいろいろ可能な解釈のうちのひとつではあります。

しかし、男女が恋人どうしになることこそが唯一絶対の「普通」だ…というわけではないことに鑑みるに、重要な示唆に富んでいるのはまちがいないでしょう。


「バナナはおやつに入りますか?」に「レオナはおんなに入りますか?」は似ている [多様なセクシュアリティ]

さて前記事のとおり、やっぱりプリパラはスゴイのですが、例えばプリパラのレオナのような為人の人物を、男性として扱うか女性として扱うかは、現実世界でのシチュエーションにおいては悩ましいこともままあります。

まるで遠足の前日バナナはおやつに入りますか?」のように。


ところで、この「バナナはおやつに入りますか?」。
バナナがおやつかどうかの議論はだいたい「(遠足の)おやつは300円までとの兼ね合いで発生するものです。
だから、あたかも消費税の軽減税率の対象に含まれるか否かのごとく「政治的に」決定しなければいけない事項となるわけです。

背景には「遠足のおやつとは何か」という命題においても、最後には分けきれない境界線上の存在がどうしても出てくることがあります。
そういう場合に「300円まで」というルールを有効化させるために、ここではバナナはおやつに含まれる(or含まれない)という操作的定義を設定する必要が生じてしまうのです。

つまり、バナナがおやつに入るか否かは、社会的な秩序を維持するための要請から政治的に決定され決着される命題なわけです。

当然ながら、「おやつは300円まで」という要請のほうを柔軟な発想で適切にコントロールできれば、境界線上に位置するバナナの存在の取り扱いもまた臨機応変に最適化することは可能となるものです。

……そしてじつは、これと同じ構造上に「性別」があるのではないでしょうか。

実際には単純に二分できないにもかかわらず、社会的に用意されている性別カテゴリは2つしかない。
だからこそ、「女」や「男」を定義して決定していくという操作が必要となります。

そうして、プリパラのレオナのようなトランスジェンダルな人を「本当は(肉体的に、および戸籍上)」とするか「女性としてごく自然にアイドルしてるから女でOK」とするか、いずれにしても社会における必要から政治的に決定される事項となるのです。

いわば誰が女で誰が男だという社会的な事実は、政治的に定義されたもので、それらに先んじて自然状態としての性別が(社会的に意味を与えられる直前の「生殖に関わる身体差」を除いては)先に存在するわけではないのですね。

そういう意味で、

「バナナはおやつに入りますか?」
「レオナはおんなに入りますか?」

単なる言葉遊びというのみにとどまらず、深いところで同じ構造上にある命題なのではないでしょうか。

願わくば性別カテゴリの執行にあたっては、こうしたことを念頭に、ぜひとも硬直的ではない、しなやかなスタンスでお互い臨めるように心がけたいところですね。

 


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