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人と人とがひかれあう力「引力」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ふと思い出したのですが、小学生のころに読んだ本の中に、こんなSF小説がありました
(基本的に細部はうろ覚えに立脚した記述です。後日に原典に当たって話のウラは取りましたが、以下 本記事はそれをする以前の時点での認識に基づいたものとして書き進めてあります。あしからずご了承ヲ)

舞台は、地球から何十光年か先の恒星系へ移住するために船内で人々が生活し、そこで親から子へ何代かにわたってミッションが受け継がれていく「世代宇宙船」。

ところが、途中でトラブルが重なり、そうしたミッションを統括する乗組員が全滅し、残された人々がそこから長い年月を経ると、もはや当初の目的や自分たちが置かれた状況などのいっさいの情報などが失われて、人々はその宇宙船内だけを世界のすべてと認識し、そこがそうした「世代宇宙船」の中なのだということすら知らずに生活するようになってしまいます。

そうして、かつてそんな巨大宇宙船を建造しえた人類の科学的素養もまったく喪失されてしまい、船内はさながら中世のような、迷信や不合理な慣習が横行する頑迷で封建的な社会と化しているのです。

しかし、そんな自らが置かれた環境に疑問を抱いた主人公が、禁忌を破り、立ち入りがタブーとなっているエリアを探検することを繰り返すうちに、真実に肉薄し、自分たちが生きる道を再発見していく……。

だいたいそういう感じのあらすじだったと思います。


小学校の高学年のころは、足しげく図書館に通い(むしろ現在よりも;)、このようなSF小説も新旧洋邦を問わず読み漁っていたものです(『女が少年だったころ』参照ノ)

なので、こうした記憶もなかなかなつかしいところですが、さて、ではこのSF小説はいったい誰が書いた何という作品だったのでしょうか?

………上記のような断片的記憶から思いつくキーワードをいくつか組み合わせて Google で検索してみると、それは思いのほかアッサリと判明しました
(スゴイな、21世紀のインターネット! (^^) )

どうやら、ロバート・A・ハインラインの古典的SF名著と言える宇宙の孤児だったようです。

おそらくは、当時の小学校の図書室にあったのは福島正実による翻訳のバージョン『さまよう都市宇宙船だと推察されるので、実際にワタシが読んだのもそちらだと思われますが、いずれにしても原典はハインラインのもので間違いなさそうです。

なので、なるほど、さすがハインライン。
こうやっておぼろげな記憶をたどっただけでも、なかなか深い物語であるのもうなずけます。

自分たちが世界のすべてだと思い込んでいる場が、じつは限られた閉鎖社会であり、その外側にもまた広大な別世界が存在する。
絶対だと信奉している規範や戒律も、そんな限定的な空間のみで通用している設定にすぎず、決して普遍の真理ではない。
だから、さまざまな事柄に疑問を持ち、相対的な視点真実を探求する姿勢は重要だ……。

そんなことにも思い及ばせられる、非常に示唆に富んだ内容だとも言えます。
現代の地球に生きる私たちが、この作中の宇宙船内の中世的社会を他山の石とすべき点は多いのかもしれません。


 


ところで、この『宇宙の孤児』。
小学生のときに読んだ際、次のようなエピソードが挿話されていたのも印象に残ったように記憶しています。

科学的な素養が失われ中世化してしまった船内社会では、昔の科学書などはある種の聖典として意味もよくわからないまま読まれているのですが、ある日主人公は、そうした科学書を読んで整理する仕事などを含む部所に配属されます。

そこで主人公が手に取る過去の文献の中には物理学の書物もあり、それらにはニュートンにまつわるあれこれも書いてあるのです。
しかしながら、主人公らにとって可能な世界認識の範疇では、誰もその真の意味はさっぱり理解できません。

当然、「万有引力? ……『引力』っていったい何なんだ!?」というギモンに対しても、主人公らは一人として適正な解に到達できないわけです。

そんな中で、かつて誰かが「万物が引き合う力。……わかった、きっとこれは人と人とが惹かれ合うこと。つまり恋愛感情だ!」と言い出したのでしょう。
この解釈は大勢の人が納得したのか、結果として、主人公らの世代が生きる時代の船内社会では「引力=人と人が惹かれ合う力」がいわば定説となっているのです。

そうして、本当にそうなんだろうかと訝しむ主人公に対し、上司がなだめて言うところは「昔の人ならではの喩え話だろう」………。

いやはや、引力をめぐる物理法則を、このように人間の感情に置き換えてしか解釈できないとはニュートンもびっくりでしょう。

きっと作者ハインラインとしては、それだけ船内社会では現代科学が失われてしまい、どうしようもないほど中世化してしまったことを補強する意図で挟んだ描写だったのではないでしょうか。

少なくとも、私たちにとっては、ここまでの文脈のような意味あいで、「引力」を人の気持ちに関するものであるようにしか解釈できない世の中が到来することは、全力で阻止したいものであることには異論の余地はありません。


……しかし!


ここで話を、ぐるぅぅ~~~っと801光年ほど回して現実の2016年の世界を見てみましょう。

こちら、アニメ響け!ユーフォニアム2公式サイトに載っている登場人物相関図なのですが……

 1610eup-Ph_E.JPG


……………

_人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 人と人とが惹かれ合う力【引力】!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^YY^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

(*^^*)


これまたビックリです。
こんな形で《人と人とがひかれあう力「引力」》の用法が再発見されるとは!
(もちろん、これに先立つ前例もあるのでしょうが、やはりこのアニメ作品での使用は印象的にして画期的)

そして、これは先の事例とは異なり、むしろ人類として進化したとも言えるのではないでしょうか。


一般に、同性どうしの親密な関係性は「友情」だと言われます。

また、それに照応するほどの親密性が異性間で紡がれるには、それが「恋愛」だと解釈されうることが要求されたうえで、その関係性が実現した暁には、「恋愛」は「友情」よりもより上位の関係性だと認定されがちなきらいもないではありません。

そんな中で、同性間の親密度が一定水準を超えているとみなされるようなケースには、「同性どうしなのに友情を越えるあたかも恋愛のような親密度」とばかりに、そこに「同性愛」と名付ける慣習もまた根強いのが現実です。

されど、それは本当に普遍の真理なのでしょうか?

人と人とのインティマシーに対して異性間なら「恋愛」、同性間なら「友情」と解釈するコードなど、便宜的に仮構された社会システムにすぎません。

そもそも、人が誰かに対して希求を禁じ得ない親密欲求の、どこからが「友情」でどこまでが「恋愛」なのか、その明確な境界線が引けるほどに、両者の本質的な差異は何か実在するのでしょうか??

むしろ逆に、両者の差異があるという言説に根拠を与えるために、「同性」かそれとも「異性」かが重要だということにしてあるというのが真相ではありませんか!?

だいいち、「同性」「異性」を峻別するための「女」や「男」の基準もまた、社会的文化的に構築された、ある種の限定的な設定でしかないでしょう。

生殖にかかわる身体タイプの多少の違いを根拠に、出生時点で人に2種類用意されたうちのいずれかのジェンダーを割り振る習慣。そしてそれに立脚して、さまざまな社会的相互行為の規範に男女で異なる基準を求めるなんて、あくまでも限られた閉鎖社会の内部でのみ通用している、いうなれば頑迷で封建的な因習だと言うこともできるでしょう。

そこをふまえると、登場人物相関図の中での特定の間柄に対して、「同性」「異性」「恋愛」「友情」といった悪しき旧弊を超克して、「こいつらはとにかくものすごくひかれあってるんだヨ!」という状況を【引力】と言い表すのは、ものすごく斬新で開明的です。


  


響け!ユーフォニアム』は、若い原作者の旧習にとらわれない発想力に端を発し、多数の登場人物の複層的な関係性に新鮮なフレキシビリティがいかんなく発揮されたものになっています。

※昨年のアニメ第1期放送時にも、そのあたりを書いています

 →「『響け!ユーフォニアム』を隣の城陽市から検証する

 →「響けユーフォニアムがエースをねらえよりむしろプリキュアに似てる件!?


「恋愛」や「友情」といった概念には収まらないような先進的な【引力】による絆が、「同性」「異性」といった指標をも超えて、いくつも結ばれていく物語は、大変に刺激的な魅力に満ちていると言えるでしょう。

これにならい、私たちは今一度、二元的な性別制度と異性愛至上主義の桎梏を逃れて、誰かに惹かれる自分の気持ちをフラットに【引力】なのだと捉えなおしてみることが、より豊かな人間関係を築くために求められているのではないでしょうか。


なお、この件は日本語ベースで考えると上記のとおりなのですが、ハインライン作の『宇宙の孤児』原文原語表記がどうなっているかについては確認しきれていません。
なんとなく[ gravity ]、つまり筆頭日本語訳では「重力」となる英語を念頭に置いていましたが、もしも、ソコを「引力」が筆頭日本語訳になるように区別して用いられる[ attraction ]なのであれば、むしろソコには「人が人に魅力を感じる」という含意は、そもそも入っていなくもありません。
(その他、佐倉の英語スキルの限界が露呈している点についてはご指摘・ご教示いただけると幸いです m(_ _)m )


『宇宙の孤児』に登場するような「世代宇宙船」というのは、限られた船内社会で人々が暮らし 子を産み育てて世代を重ねないといけないというミッションの都合に起因して、そうでない場合よりも余計に同性愛など性的少数者は厳しく弾圧され取り締まられるようになっていそうな不安もなきにしもあらずです。
特に『宇宙の孤児』のように、本来のミッションが忘れられて中世社会化した中では、よりいっそう元々の根拠も失われて、ほとんど狂信的に迫害される危険もあります(そういう状況の批判的な暗喩も描きこまれていたと言えるかもしれません)。
………もっとも、現代の地球での現実のホモフォビア(やトランスフォビア等も含めた「セクマイフォビア」)も、その理由を突き詰めると、あまり事情は変わらないと見ることもできるのではないでしょうか。


◇◇


ウルトラQはウルトラマンよりも新しい! [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ウルトラQはウルトラマンよりも新しい」と言うと、「そんなバカな!」という反論が返ってくることでしょう。

『ウルトラマン』は、日本を代表するヒーローもののひとつとして今日に続く特撮テレビドラマ・ウルトラマンシリーズの第1作であり、1966年7月に放送がスタートしたものです。

一方『ウルトラQ』はそれに先駆ける1966年1月から放送されたもので、怪獣などが登場する特撮テレビドラマとしては、まさに元祖と呼べるウルトラシリーズ最初の作品です。

その意味では『ウルトラQ』のほうが古いというのは疑義の差し挟まる余地のない事実です。

ただ、KBS京都テレビで今年の春まで放送していたデジタルリマスター版の『ウルトラマン』と、それとほぼ入れ替わるように始まって現在放送中の、同様にデジタル処理によって元々の白黒作品をカラー化した「総天然色」版『ウルトラQ』を比較してみると、なぜか妙に新しさを感じるのは後者のほうなのです。

現在放送が済んでいる第14話までを観てみても、最新のデジタル処理で画面が美麗になり、しかもウルトラQは古い作品だというイメージの大きな要因であった「白黒」ではなくなってしまうと、精緻にして大迫力の特撮シーンや、よく練られたストーリー等々は、まったく古さを感じさせないクォリティの高さで、いうなれば、あたかも1960年代を舞台にしているという設定のもとに最近制作された作品であるかのような先進性さえうかがえるものです。


この『ウルトラQ』の「新しさ」「クォリティの高さ」を感じさせる理由のひとつには、もしかしたらストーリーがパターン化していないというのもあるかもしれません。

『ウルトラマン』になると、怪獣などの脅威に対処するのは科学特捜隊という専門の組織であり、ピンチになるとウルトラマンという巨大ヒーローが力を貸してくれるという予定調和が原則として約束されているのが、良くも悪くも物語の枠組みを類型的にしてしまっているわけです。

対して、『ウルトラQ』にはウルトラマンが登場しないがゆえの、先の読めないハラハラドキドキ感があり、かくして視聴者は結末までを固唾を呑んで見守ることになるのです。

もちろん『ウルトラマン』には、今日に続くシリーズの基礎となる「型」を作ったというエポックとして深い意義はありますが、このように見てみると功罪相半ばというか、ある種「ウルトラマン」および「科学特捜隊」という設定が「発明」されたことで失われたものも少なくない気がしてきます。


そして、この『ウルトラマン』と比較対照したときの『ウルトラQ』の先進性が、もっとも顕著に感じられるのは、やはりジェンダーの観点からだったりします。

各々のレギュラー女性登場人物としてキャスティングされ、両作品ともに出演している桜井浩子に視点の軸を置いて比較してみると、そのあたりが非常に明確に立ち現われてきます。

『ウルトラマン』では、科学特捜隊のフジアキコ隊員は、どうしても男社会であるところの公的組織の中の紅一点であり、主たる役割は通信や後方支援、そしてお茶くみといったところが目立ちます。
すなわち「補助・ケア労働」を主に担うことに「女性性」を回収され、ジェンダー構造の中で周縁化された存在になってしまうことで、典型的に「紅一点」問題を体現してしまっているわけです。

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※画像は放送画面(以下当記事中同じ)

◎ウルトラマンシリーズでの怪獣専門チームにおける女性隊員の描かれ方も、もちろん時代とともに変化はしてきていると考えてよいでしょう。シリーズを通した比較などすると論文ひとつ書けるかも!?


ところが同じ桜井浩子が演じていても『ウルトラQ』の江戸川由利子だと、新聞社勤務の有能なカメラマンとして、独自の自立した地位を築いていて主体的に生き生きと行動しているように見受けられるのです。

新聞社内では、いわゆる「職場の花」としての「女の子」扱いされているようには見受けられず、カメラマンという技能持ちの一人前の職業人として、いわば男性社員と対等に扱われています。後方支援業務やお茶くみといった「補助・ケア労働」を、女なんだから当然だとばかりに組織的に担当させられている気配がしないのです。

カメラマンとしても野心的に被写体を求めてあちこちへ出かけては、怪獣出現などの事態に臨んでも、避難の前に果敢にシャッターを切ることも珍しくありません。そうでない日常題材では、いわゆる報道倫理的にはやや問題含みの悪どい取材も辞さない面さえ描写されますが、これはキャラ描写という観点からはやはり良い意味で1960年代当時としては斬新と言うべきなのではないでしょうか。

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その他、状況に応じて臨機応変に提案をおこなったり、場合によっては男性陣に向けてリーダーシップを見せることも。

そうした女性像が、この2016年の感覚をもってしても、最新の作品に登場する女性キャラと比較してほとんど遜色のないものに感じられるのです。

いゃ~、じつに「新しい」。


加えて、『ウルトラQ』にレギュラー登場する、いわば「いつものチーム」として、江戸川由利子とはよき仲間の関係にある万城目淳(演じるのは佐原健二)が、これまたじつに「イケメン」なのです。

実際、顔も良ければ運動神経も良さそうという、たしかに位置付けとしてはいわゆるイケメン枠の登場人物ですが、しかし因習的な「俺は男だ!」的な考えが滲むイヤラシサもまたありません。
万城目は、小さな航空会社でセスナ機やヘリコプターのパイロットを務めており、その仕事柄、カメラマンの由利子と同行することも多いのですが、その際の由利子との接し方がじつにナチュラルで嫌味がないのです。

しかも怪獣出現などの危険なシチュエーションになると、由利子を庇う動作をものすごくさりげなくおこなったりもしています。もちろん、そこに「強い男である俺様がかよわい女を守ってやるゼ」感は微塵もなく、あくまでも体力面で相対的に弱者な同行者を気遣って自分にできることをできる範囲でしているというニュアンスなのです。

……なんだこの2016年の草食系男子もビックリするような爽やかさの好青年は!?

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で、そんな次第なので、この由利子と万城目の2人の間には「男女」なのに恋愛フラグはいっさい立てられることがありません。
あくまでも、人間どうしとしての信頼関係に基づいた対等なパートナーという位置付けが貫かれようとしています。

序盤の回では、視聴者向けに2人の関係性の説明の台詞として、万城目が偶然に街で由利子に出くわした場面で「記事のネタを追いかけるよりボーイフレンドでも追いかけたらどうだ?」みたいな軽口を言うのですが、これは、ひとつには由利子の男に媚びるより自分がやりがいを感じる仕事を優先している自立した女性であるというキャラ描写でもあるでしょう。
ただ、セリフの内容的には今の基準で判断するとかなりのセクハラ発言とも解釈可能です。そんなプライベートなことまで、とやかく言われる筋合いはありません。

しかし、そのあたり1周まわして見方を変えるとコレ、この2人自体はそういう関係にはなりませんよという「恋愛フラグ立つ前からへし折り発言」だったとも受け取れます(現実には意中の女性にこんなふうに言ってしまう男性もいるだろうというのはまた別の話)

このように「メインヒロイン」と対になる「イケメン」との間に、ラブロマンスの波動が驚くほど感じられないというのも、いちじるしく新しい、今どきの仕様と言えるでしょう。

男女二元的な異性愛至上主義に立脚したロマンティックラブイデオロギーからも距離が置けているとは、なんという画期的な! 『ウルトラQ』、恐ろしい子;(^^)ノ


そんなわけで、やたらと「新しい」この『ウルトラQ』、今しばらく見守りたいところですが、こうした1960年代の作品に期せずして垣間見える2016年的な先駆性から、私たちが学ぶところが大きいのは言うまでもありません。


  


◇◇


◎なぜか女子高校生描写も新しい!?
『ウルトラQ』第13話「ガラダマ」の回では、女子高校生2人組が登場しますが、なぜか彼女たちが着ている制服が妙に今風だったりもします(スカートがそれなりにあえて長いのも、むしろ関西では2016年っぽい)
かの『スケバン刑事』の20年前にあたる映像作品なのにコレだというのは、かなりオシャレな制服だと言わざるをえません。
このあたりももしかすると侮れないポイントなのかもしれません。

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ところでこの2人、作中の状況から推察するに、たぶん都会の高校に通ってて、1人が元住んでた村が沈んでるダムに観光に来てるっぽいのですが、ソレを制服を着て……というのはどういう事情なのでしょうか。
「修学旅行」的なオフィシャルな雰囲気でもなく、むしろプライベートでやってきているという空気感が濃厚です。
もしかして急に「青春18きっぷでどっか旅立ちたくな」った結果ということなのでしょうか!?
………ということは、つまり『響け!ユーフォニアム』でのコレ的な!?!?

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だとすると、まさかの『ウルトラQ』で百合展開だということになります(*^^*)。
深読みに過ぎるというお叱りもあるかもしれませんが、それでもこうした描写が仕込まれている点、やはり『ウルトラQ』の「新し」さなのではないでしょうか。


◎ウルトラマンオーブは真の原点回帰?
そして次の週末、2016年7月9日より、ウルトラシリーズの最新作『ウルトラマン オーブ』の放送が始まります。
この『オーブ』では、いわゆる科学特捜隊的な怪獣対処の専門防衛組織ではなく、民間の調査チームがそれに代わって前景に設定されているとのことです。

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『ウルトラマン ギンガ』でも、(続編の『S』になるまでは)主人公たちは高校生で、怪獣防衛組織は登場せず、全体としては「プリキュア的な『ウルトラマン』」なのが今風で斬新だったわけですが、『オーブ』はそれともまた違った方向性での新機軸をめざしているのかもしれません。
そして、今般の『ウルトラQ』をふまえてソコを捕捉するなら、いわば「ウルトラマンも出てくるウルトラQ」だと解釈することも可能です。
その意味では『ウルトラマンオーブ』は、ウルトラシリーズ最新作にして、シリーズの始祖まで視野に入れた真の原点回帰として、どのように この2016年ならではのものを見せてくれるのかが期待されるとも言えるでしょう。


◇◇


  


◇◇


安易な異性装イベントはなぜよくないのか [メディア・家族・教育等とジェンダー]

現役女子高校生である我が娘・佐倉満咲さんによると、今は9月の文化祭へ向けてクラスの出し物を決める時期にあたっているとのことで、そういう学校は少なくないのではないでしょうか。

※「佐倉満咲、中学を卒業&高校に入学する」の記事は昨年に書きましたが、その後 今年度になり「1年生編」と違って「原作小説」の桎梏からも自由になったこともあってか(!?)現在は2年生としてのびのびと青春ライフを満喫しているようです。

で、文化祭ですが、聞くところによると、あちらこちらの学校によっては文化祭の出し物についても、各種の方針がいろいろあるようです。
例えば「メイド喫茶」などは禁止……というのは、まぁわからないでもない気はします。

ただ、一律「異性装は禁止」というようなケースは、さて、どうなのでしょう?
つまり女子生徒が男装したり、男子生徒が女装したりするようなことを、あらかじめ封じておこうというわけです。
たしかにまったく規制ナシだと何か問題も起きるであろうことは予想されます。
いわゆる「LGBT」への知識不足や偏見に基づいた差別的な表象を期せずして体現してしまうような事態を予めブロックしておくことには、相応の理もあります。
しかし、早い段階から機械的に禁止の網をかぶせるのは、逆に有益な議論まで妨げてしまい、教育上もったいないということもあるのではないでしょうか。

じつは昨年、とある高校の職員研修で、そのあたりをお話させてもらっています。
なんでも、その高校では過年度に「女装コンテスト」が企画されて物議を醸したそうなのです。
ソレをふまえてワタシの方では、「女装コンテスト」が持つ「ミスコン」としての側面と「安易な異性装イベント」としての側面に切り分けたうえで、それぞれが陥りがちな問題点と、そうならないための要件、およびその困難などを整理してみたのですが、あらためてこのところの満咲さんの口ぶりからすると、そのあたりの知見は、けっこうニーズがあるようです。


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そこで当記事では、ソコのところをまとめなおしてみたいと思います。

いちおう便宜上「女装コンテストが企画された! さぁどーする!?」という設定で進めますね。

話の構成としては上図のようになっています。


◎「ミスコン」としての是非

いわゆるミス・コンテストの何がモンダイかといえば…

*容姿のみを
*「男社会」の価値観のみに則って
*いちばん「俺の嫁にしたい」という基準で
*「男性」が「女性」を序列化する

 …というところがアウトなのだということに集約されます。

ですから、もしも……

*多様で複層的な観点から
*各種の「男女」ルールにとらわれず
*ひとりひとりの資質として数あるうちのひとつとしての容姿を
*他の要素とも合わせて多様な人が評価する

 …のなら悪くないというということにもなるでしょう。

ただ、これらの条件を満たした「ミスコン」の運営はなかなか難しいのも現実でしょう。

そのうえで次のポイントなのですが…


◎「女装男装コンテスト」の是非

ミス・コンテストの問題点をふまえたうえで考えていくと…

*「男らしい男」「女らしい女」が「普通」だというところから出発し
*その基準線からのズレを故意に誇張した結果を
*上から目線で嘲笑する行為を
*エンターテイメントとして公的に共有・消費することを強いるイベントを通じて
*実際の性的少数者の存在を蔑ろにし
*実在する性的少数者に対する否定的なイメージを拡大再生産することにつながる

 …という点が、やはり容認できないほどの弊害を持つと言えます。

したがって、その点をじゅうぶんに理解したうえで……

*「女」「男」というカテゴリ自体を疑い
*既存のジェンダー規範を相対化してみることを期して
*あえて普段とは異なるジェンダー表象を装ってみる機会とし
*旧習に囚われず自分らしい装いを試みてみることをもって
*そこから全員で何かを感じ考え
*他では得られなかった経験を獲得する

……ための方法として設定されるのが「女装」「男装」であるならば、むしろ積極的に推奨したい企画として成立する可能性もあります。

しかし、こちらについても、やはり現実としては、全員の意識をそこまで高めたうえでの実施には、かなりハードルが高いと言わざるをえないのではないでしょうか。


いかがでしょう?

たしかに現実としては難しい部分が大きいです。

ただ、上手くコトを運べば有意義な催しとして成果する希望も見えなくはありません。
迂闊に手を出すリスクは非常に大きいですが、あえて火中の栗を拾う意気込みで学校ぐるみで取り組む価値もまたあるでしょう。


実際のところ、もしも「女装男装コンテスト」的な企画を実施するのなら、
《男女で分けない》
《異性装してもしなくても
(その他 各種仮装・コスプレ含めて)OK》

というルール設定のもとで
『◯◯高校「ベストパーソン」コンテスト』
としておこなうというのは、落としどころとしてひとつのアイデアかもしれません。


文化祭では、他にも劇などで女性登場人物を男子生徒が・男子登場人物を女性生徒が演じるようなこともありえます。
また、ズバリ物語中に何らかのセクシュアルマイノリティを登場させるような脚本もまた考えられましょう。
その他、展示や模擬店なども然り。

例えばそれらの是非についても、上述したことをヒントにていねいに検証してもらえればよいかと思います。

当記事が、生徒の皆さん、および学校側の先生方から、交渉のための参照情報として有益に活用してもらえるなら幸いです。


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