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ウルトラQはウルトラマンよりも新しい! [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ウルトラQはウルトラマンよりも新しい」と言うと、「そんなバカな!」という反論が返ってくることでしょう。

『ウルトラマン』は、日本を代表するヒーローもののひとつとして今日に続く特撮テレビドラマ・ウルトラマンシリーズの第1作であり、1966年7月に放送がスタートしたものです。

一方『ウルトラQ』はそれに先駆ける1966年1月から放送されたもので、怪獣などが登場する特撮テレビドラマとしては、まさに元祖と呼べるウルトラシリーズ最初の作品です。

その意味では『ウルトラQ』のほうが古いというのは疑義の差し挟まる余地のない事実です。

ただ、KBS京都テレビで今年の春まで放送していたデジタルリマスター版の『ウルトラマン』と、それとほぼ入れ替わるように始まって現在放送中の、同様にデジタル処理によって元々の白黒作品をカラー化した「総天然色」版『ウルトラQ』を比較してみると、なぜか妙に新しさを感じるのは後者のほうなのです。

現在放送が済んでいる第14話までを観てみても、最新のデジタル処理で画面が美麗になり、しかもウルトラQは古い作品だというイメージの大きな要因であった「白黒」ではなくなってしまうと、精緻にして大迫力の特撮シーンや、よく練られたストーリー等々は、まったく古さを感じさせないクォリティの高さで、いうなれば、あたかも1960年代を舞台にしているという設定のもとに最近制作された作品であるかのような先進性さえうかがえるものです。


この『ウルトラQ』の「新しさ」「クォリティの高さ」を感じさせる理由のひとつには、もしかしたらストーリーがパターン化していないというのもあるかもしれません。

『ウルトラマン』になると、怪獣などの脅威に対処するのは科学特捜隊という専門の組織であり、ピンチになるとウルトラマンという巨大ヒーローが力を貸してくれるという予定調和が原則として約束されているのが、良くも悪くも物語の枠組みを類型的にしてしまっているわけです。

対して、『ウルトラQ』にはウルトラマンが登場しないがゆえの、先の読めないハラハラドキドキ感があり、かくして視聴者は結末までを固唾を呑んで見守ることになるのです。

もちろん『ウルトラマン』には、今日に続くシリーズの基礎となる「型」を作ったというエポックとして深い意義はありますが、このように見てみると功罪相半ばというか、ある種「ウルトラマン」および「科学特捜隊」という設定が「発明」されたことで失われたものも少なくない気がしてきます。


そして、この『ウルトラマン』と比較対照したときの『ウルトラQ』の先進性が、もっとも顕著に感じられるのは、やはりジェンダーの観点からだったりします。

各々のレギュラー女性登場人物としてキャスティングされ、両作品ともに出演している桜井浩子に視点の軸を置いて比較してみると、そのあたりが非常に明確に立ち現われてきます。

『ウルトラマン』では、科学特捜隊のフジアキコ隊員は、どうしても男社会であるところの公的組織の中の紅一点であり、主たる役割は通信や後方支援、そしてお茶くみといったところが目立ちます。
すなわち「補助・ケア労働」を主に担うことに「女性性」を回収され、ジェンダー構造の中で周縁化された存在になってしまうことで、典型的に「紅一点」問題を体現してしまっているわけです。

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※画像は放送画面(以下当記事中同じ)

◎ウルトラマンシリーズでの怪獣専門チームにおける女性隊員の描かれ方も、もちろん時代とともに変化はしてきていると考えてよいでしょう。シリーズを通した比較などすると論文ひとつ書けるかも!?


ところが同じ桜井浩子が演じていても『ウルトラQ』の江戸川由利子だと、新聞社勤務の有能なカメラマンとして、独自の自立した地位を築いていて主体的に生き生きと行動しているように見受けられるのです。

新聞社内では、いわゆる「職場の花」としての「女の子」扱いされているようには見受けられず、カメラマンという技能持ちの一人前の職業人として、いわば男性社員と対等に扱われています。後方支援業務やお茶くみといった「補助・ケア労働」を、女なんだから当然だとばかりに組織的に担当させられている気配がしないのです。

カメラマンとしても野心的に被写体を求めてあちこちへ出かけては、怪獣出現などの事態に臨んでも、避難の前に果敢にシャッターを切ることも珍しくありません。そうでない日常題材では、いわゆる報道倫理的にはやや問題含みの悪どい取材も辞さない面さえ描写されますが、これはキャラ描写という観点からはやはり良い意味で1960年代当時としては斬新と言うべきなのではないでしょうか。

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その他、状況に応じて臨機応変に提案をおこなったり、場合によっては男性陣に向けてリーダーシップを見せることも。

そうした女性像が、この2016年の感覚をもってしても、最新の作品に登場する女性キャラと比較してほとんど遜色のないものに感じられるのです。

いゃ~、じつに「新しい」。


加えて、『ウルトラQ』にレギュラー登場する、いわば「いつものチーム」として、江戸川由利子とはよき仲間の関係にある万城目淳(演じるのは佐原健二)が、これまたじつに「イケメン」なのです。

実際、顔も良ければ運動神経も良さそうという、たしかに位置付けとしてはいわゆるイケメン枠の登場人物ですが、しかし因習的な「俺は男だ!」的な考えが滲むイヤラシサもまたありません。
万城目は、小さな航空会社でセスナ機やヘリコプターのパイロットを務めており、その仕事柄、カメラマンの由利子と同行することも多いのですが、その際の由利子との接し方がじつにナチュラルで嫌味がないのです。

しかも怪獣出現などの危険なシチュエーションになると、由利子を庇う動作をものすごくさりげなくおこなったりもしています。もちろん、そこに「強い男である俺様がかよわい女を守ってやるゼ」感は微塵もなく、あくまでも体力面で相対的に弱者な同行者を気遣って自分にできることをできる範囲でしているというニュアンスなのです。

……なんだこの2016年の草食系男子もビックリするような爽やかさの好青年は!?

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で、そんな次第なので、この由利子と万城目の2人の間には「男女」なのに恋愛フラグはいっさい立てられることがありません。
あくまでも、人間どうしとしての信頼関係に基づいた対等なパートナーという位置付けが貫かれようとしています。

序盤の回では、視聴者向けに2人の関係性の説明の台詞として、万城目が偶然に街で由利子に出くわした場面で「記事のネタを追いかけるよりボーイフレンドでも追いかけたらどうだ?」みたいな軽口を言うのですが、これは、ひとつには由利子の男に媚びるより自分がやりがいを感じる仕事を優先している自立した女性であるというキャラ描写でもあるでしょう。
ただ、セリフの内容的には今の基準で判断するとかなりのセクハラ発言とも解釈可能です。そんなプライベートなことまで、とやかく言われる筋合いはありません。

しかし、そのあたり1周まわして見方を変えるとコレ、この2人自体はそういう関係にはなりませんよという「恋愛フラグ立つ前からへし折り発言」だったとも受け取れます(現実には意中の女性にこんなふうに言ってしまう男性もいるだろうというのはまた別の話)

このように「メインヒロイン」と対になる「イケメン」との間に、ラブロマンスの波動が驚くほど感じられないというのも、いちじるしく新しい、今どきの仕様と言えるでしょう。

男女二元的な異性愛至上主義に立脚したロマンティックラブイデオロギーからも距離が置けているとは、なんという画期的な! 『ウルトラQ』、恐ろしい子;(^^)ノ


そんなわけで、やたらと「新しい」この『ウルトラQ』、今しばらく見守りたいところですが、こうした1960年代の作品に期せずして垣間見える2016年的な先駆性から、私たちが学ぶところが大きいのは言うまでもありません。


  


◇◇


◎なぜか女子高校生描写も新しい!?
『ウルトラQ』第13話「ガラダマ」の回では、女子高校生2人組が登場しますが、なぜか彼女たちが着ている制服が妙に今風だったりもします(スカートがそれなりにあえて長いのも、むしろ関西では2016年っぽい)
かの『スケバン刑事』の20年前にあたる映像作品なのにコレだというのは、かなりオシャレな制服だと言わざるをえません。
このあたりももしかすると侮れないポイントなのかもしれません。

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ところでこの2人、作中の状況から推察するに、たぶん都会の高校に通ってて、1人が元住んでた村が沈んでるダムに観光に来てるっぽいのですが、ソレを制服を着て……というのはどういう事情なのでしょうか。
「修学旅行」的なオフィシャルな雰囲気でもなく、むしろプライベートでやってきているという空気感が濃厚です。
もしかして急に「青春18きっぷでどっか旅立ちたくな」った結果ということなのでしょうか!?
………ということは、つまり『響け!ユーフォニアム』でのコレ的な!?!?

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だとすると、まさかの『ウルトラQ』で百合展開だということになります(*^^*)。
深読みに過ぎるというお叱りもあるかもしれませんが、それでもこうした描写が仕込まれている点、やはり『ウルトラQ』の「新し」さなのではないでしょうか。


◎ウルトラマンオーブは真の原点回帰?
そして次の週末、2016年7月9日より、ウルトラシリーズの最新作『ウルトラマン オーブ』の放送が始まります。
この『オーブ』では、いわゆる科学特捜隊的な怪獣対処の専門防衛組織ではなく、民間の調査チームがそれに代わって前景に設定されているとのことです。

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『ウルトラマン ギンガ』でも、(続編の『S』になるまでは)主人公たちは高校生で、怪獣防衛組織は登場せず、全体としては「プリキュア的な『ウルトラマン』」なのが今風で斬新だったわけですが、『オーブ』はそれともまた違った方向性での新機軸をめざしているのかもしれません。
そして、今般の『ウルトラQ』をふまえてソコを捕捉するなら、いわば「ウルトラマンも出てくるウルトラQ」だと解釈することも可能です。
その意味では『ウルトラマンオーブ』は、ウルトラシリーズ最新作にして、シリーズの始祖まで視野に入れた真の原点回帰として、どのように この2016年ならではのものを見せてくれるのかが期待されるとも言えるでしょう。


◇◇


  


◇◇


安易な異性装イベントはなぜよくないのか [メディア・家族・教育等とジェンダー]

現役女子高校生である我が娘・佐倉満咲さんによると、今は9月の文化祭へ向けてクラスの出し物を決める時期にあたっているとのことで、そういう学校は少なくないのではないでしょうか。

※「佐倉満咲、中学を卒業&高校に入学する」の記事は昨年に書きましたが、その後 今年度になり「1年生編」と違って「原作小説」の桎梏からも自由になったこともあってか(!?)現在は2年生としてのびのびと青春ライフを満喫しているようです。

で、文化祭ですが、聞くところによると、あちらこちらの学校によっては文化祭の出し物についても、各種の方針がいろいろあるようです。
例えば「メイド喫茶」などは禁止……というのは、まぁわからないでもない気はします。

ただ、一律「異性装は禁止」というようなケースは、さて、どうなのでしょう?
つまり女子生徒が男装したり、男子生徒が女装したりするようなことを、あらかじめ封じておこうというわけです。
たしかにまったく規制ナシだと何か問題も起きるであろうことは予想されます。
いわゆる「LGBT」への知識不足や偏見に基づいた差別的な表象を期せずして体現してしまうような事態を予めブロックしておくことには、相応の理もあります。
しかし、早い段階から機械的に禁止の網をかぶせるのは、逆に有益な議論まで妨げてしまい、教育上もったいないということもあるのではないでしょうか。

じつは昨年、とある高校の職員研修で、そのあたりをお話させてもらっています。
なんでも、その高校では過年度に「女装コンテスト」が企画されて物議を醸したそうなのです。
ソレをふまえてワタシの方では、「女装コンテスト」が持つ「ミスコン」としての側面と「安易な異性装イベント」としての側面に切り分けたうえで、それぞれが陥りがちな問題点と、そうならないための要件、およびその困難などを整理してみたのですが、あらためてこのところの満咲さんの口ぶりからすると、そのあたりの知見は、けっこうニーズがあるようです。


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そこで当記事では、ソコのところをまとめなおしてみたいと思います。

いちおう便宜上「女装コンテストが企画された! さぁどーする!?」という設定で進めますね。

話の構成としては上図のようになっています。


◎「ミスコン」としての是非

いわゆるミス・コンテストの何がモンダイかといえば…

*容姿のみを
*「男社会」の価値観のみに則って
*いちばん「俺の嫁にしたい」という基準で
*「男性」が「女性」を序列化する

 …というところがアウトなのだということに集約されます。

ですから、もしも……

*多様で複層的な観点から
*各種の「男女」ルールにとらわれず
*ひとりひとりの資質として数あるうちのひとつとしての容姿を
*他の要素とも合わせて多様な人が評価する

 …のなら悪くないというということにもなるでしょう。

ただ、これらの条件を満たした「ミスコン」の運営はなかなか難しいのも現実でしょう。

そのうえで次のポイントなのですが…


◎「女装男装コンテスト」の是非

ミス・コンテストの問題点をふまえたうえで考えていくと…

*「男らしい男」「女らしい女」が「普通」だというところから出発し
*その基準線からのズレを故意に誇張した結果を
*上から目線で嘲笑する行為を
*エンターテイメントとして公的に共有・消費することを強いるイベントを通じて
*実際の性的少数者の存在を蔑ろにし
*実在する性的少数者に対する否定的なイメージを拡大再生産することにつながる

 …という点が、やはり容認できないほどの弊害を持つと言えます。

したがって、その点をじゅうぶんに理解したうえで……

*「女」「男」というカテゴリ自体を疑い
*既存のジェンダー規範を相対化してみることを期して
*あえて普段とは異なるジェンダー表象を装ってみる機会とし
*旧習に囚われず自分らしい装いを試みてみることをもって
*そこから全員で何かを感じ考え
*他では得られなかった経験を獲得する

……ための方法として設定されるのが「女装」「男装」であるならば、むしろ積極的に推奨したい企画として成立する可能性もあります。

しかし、こちらについても、やはり現実としては、全員の意識をそこまで高めたうえでの実施には、かなりハードルが高いと言わざるをえないのではないでしょうか。


いかがでしょう?

たしかに現実としては難しい部分が大きいです。

ただ、上手くコトを運べば有意義な催しとして成果する希望も見えなくはありません。
迂闊に手を出すリスクは非常に大きいですが、あえて火中の栗を拾う意気込みで学校ぐるみで取り組む価値もまたあるでしょう。


実際のところ、もしも「女装男装コンテスト」的な企画を実施するのなら、
《男女で分けない》
《異性装してもしなくても
(その他 各種仮装・コスプレ含めて)OK》

というルール設定のもとで
『◯◯高校「ベストパーソン」コンテスト』
としておこなうというのは、落としどころとしてひとつのアイデアかもしれません。


文化祭では、他にも劇などで女性登場人物を男子生徒が・男子登場人物を女性生徒が演じるようなこともありえます。
また、ズバリ物語中に何らかのセクシュアルマイノリティを登場させるような脚本もまた考えられましょう。
その他、展示や模擬店なども然り。

例えばそれらの是非についても、上述したことをヒントにていねいに検証してもらえればよいかと思います。

当記事が、生徒の皆さん、および学校側の先生方から、交渉のための参照情報として有益に活用してもらえるなら幸いです。


ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ともに2012年度(2012~2013年)に放送されたテレビアニメである『ラブライブ!』と『ガールズ&パンツァー(略してガルパンは、いまだに高い人気を誇り、続編エピソードや劇場版も好評、各種イベントは盛況を呈し、舞台となった実在の場所を「聖地巡礼」として探訪する人も数多い状況が続くなどしています
(前者にあっては、メディアミックス展開の一環としての作中でのアイドルユニット「μ's」を演じる声優陣によって現実世界に展開した同名ユニットが2015年末のNHK紅白歌合戦出場を果たし、2016年初頭には同じくNHK教育テレビでのアニメ1期の「再放送」がおこなわれたりもしました)

 『ラブライブ!』μ's 公式サイト

 →『ガールズ&パンツァー』公式サイト


 《参考(お知らせブログのほうの関連記事)

 → 遅れてきたラブライバー、神田明神を参拝する

 →「聖地巡礼の聖地」大洗から東海村に足を伸ばしてみた


この両作品は、主人公たちが生徒として通う学校(両校とも伝統ある女子高校)が廃校の危機に瀕したことに対し、それを回避し、自分たちの大切な日常の生活の場を守ろうと立ち上がった主人公たちが、さまざまな障壁を乗り越えて互いの友情を深めながら努力を続けた結果、学校の存続を勝ち取る……というストーリーのアウトラインが偶然にも共通していたことでも知られています。

その方法というのが、前者では「スクールアイドル」になって人気を獲得して話題になる、後者では「戦車道」の全国大会で優勝する …というような、現実世界と対比すればいささか荒唐無稽なものであるのは、もちろん、こうしたフィクションの物語の楽しさであると言うべきでしょう。
※「スクールアイドル」は学校所属のアイドル活動、いわば部活動としてのアイドルとして作中では描かれています
※「戦車道」とは戦車戦を純粋な競技として完全に戦争とは切り離して成立させたもので、作中では女子が嗜むべき武道であるとされているスポーツだという設定になっています

両作品とも、その人気は伊達ではなく、アニメとしての映像表現のクォリティ等もさることながら、描かれる物語の中での、目標へ向かって自分たちにできる努力をひたむきに続ける少女たちの姿は、観る者の胸を打ってやみません。
それだけ、元気がもらえる爽快なストーリーの良質な作品だと言えるのです。


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※画像は公式のサイトor放送画面からキャプチャ


ただ、この二作品について、そのあたりを適切に評価されないケースもままあるのではないでしょうか。
前者にあっては、女性「アイドル」の表象が、いわゆる異性愛男性からの性的消費を招きやすく、結果として女性差別的なものになるという危惧はありえるものです。現実世界のアイドルには、プライバシーの流出や一部の過熱したファンからの迷惑行為など等のリスクもあるでしょうし、アイドルを志す少女たちを詐欺まがいの誘い文句でアダルト作品に出演させるような事例も報告される中では、善良なプロダクションの見極めが難しいというのもあるやもしれません。そうした現状において、昨今のアイドルブームと言われる風潮を警戒することもまた、あながち杞憂とは言えない現実は理解されるべきです。
後者にあっては、やはり戦車に対して違和感を訴える声は少なくないのかもしれません。もちろん、もしもガルパン人気を利用して、例えば一般市民の間での「兵器」にかんする感覚を操作して戦争への抵抗感を下げようなんて動きがあるとしたら姑息な話です。政府がそんなことを企んでいないかどうかの警戒は不断にじゅうぶんになされるべきでしょう。現役で運用されている戦車はあくまでも「兵器」であり、すなわち戦場でのオペレーションに投入される目的をもったものであり、人を殺傷する可能性と不可分であることを忘れてはならないのは言うまでもありません。
しかしながら、両作品とも、そういう問題となるような事象からは遠いところで成立しているのも事実です。現実世界のありようとは適正な距離を置くようにコントロールを加えた世界観で、安心して視聴できるフィクションが架構されている様子は、しっかり丁寧に見極められるべきです(ガルパン作中では、登場する戦車を第2次世界大戦以前のすでに「歴史」となっているものに限っている他、「戦車道は戦争ではない」とも複数回言明されており、戦車戦が専ら女性のスポーツとしてのみおこなわれるようになっているガルパン作中を、それくらい戦車が「実用」から遠ざかった、すでに高度に平和が実現した世界なのだと読み解く発想もリテラシーとして求められましょう)

そこで、本記事では、『ラブライブ!』と『ガールズ&パンツァー』のどのようなところが優れていると言えるのか、それをフェミニズムの観点から整理してみたいと思います。


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1:自立した女性キャラの主体性
まず基本的に主人公を含めて女性キャラが大勢登場し、誰もが自ら主体的に行動する物語です。
舞台が女子校ということもあり、作劇上の異性愛義務は排除され、男性との恋愛物語にも回収されず、そんな環境のもとで、主人公たちが男性に頼る必然も必要も発生しません。
どのキャラも生き生きと「自分」を体現しています。
いわゆる「紅一点問題とは対極にあるのは明白です。


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2:女性ホモソーシャルな親密性
女性キャラが複数(かなりたくさん)登場することで、女性どうしの親密な関係性が多数、かつ重層的に描かれることになっています。これにより、ありていに言えば女どうしの友情が肯定的に描かれることがあたりまえのこととして成立するようになっています。
いわゆるベクデルテストも楽々クリアできていると言えるでしょう。
これは、現実世界の女性どうしが関係性を構築していくうえでのモデルケースが示されているとも言えますし、男をめぐって女どうしがいがみ合う描写 → 「女の人間関係は陰湿」という男性社会に都合がよいプロパガンダ …という因習的な描写がドラスティックに転換されているということでもあります。非常に意義は大きいでしょう。


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3:女性によるリーダーシップのロールモデル
複数の女性キャラが登場し、ひとつの目標へ向けて活動する中では、女性によるリーダーシップも発揮されることになります。
『ラブライブ!』でも、各局面でそれぞれのキャラが場を主導しますし、主人公はスクールアイドルのユニットである部活動全体を強力に引っ張っていきます。そんな彼女たちの姿からは(逡巡や蹉跌などをめぐる葛藤からの成長のエピソードも描かれますが)「女性リーダーは頼りない」というようなジェンダー的なしがらみはいっさい感じられません。
『ガールズ&パンツァー』では主人公が自チームである戦車隊の指揮を担うことになるわけですが、これは現実世界であればかなり公的で系統だった組織を引き写した集団でのこととなります。女性が組織的な集団においての長としてリーダーシップを執る姿のモデルケースを示している点は大いに評価されるべきです。「女の子は戦車隊隊長だってできる!」という様子が提示されることは、(「戦車道は戦争ではない」と担保されたフィクション世界を通してのことであるかぎり――現実の戦争における軍事組織の女性兵士をめぐる問題は当然ながら次元が異なるイシューです)男女共同参画社会の趣旨にも適うことでしょう。


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4:ありのままの受容と自己肯定の物語
『ガールズ&パンツァー』は、主人公・西住みほが、戦車道の有名な家元の次女で、家柄の重圧や、流派の方針が自分の優しい性格と合わないこと、対して的確に後継者として頭角を伸ばしていく姉に対する周囲の高評価が自分と引き比べられることによるコンプレックスなどにより、自己肯定感を持てず、性格も鬱屈して、精神的に引きこもってしまった少女として当初は登場します。それが、半ば逃げるように親元を離れた転校先で、ありのままの自分を受け入れてくれる友人たちとの出会いがあり、ほどなく奇しくも戦車道の知識やセンスを期待されたことを経て、自分なりのスタイルを確立し、それをもって姉が率いるチームを大会決勝戦で倒すことで自己肯定に至るというプロセスが、戦車道という架空のスポーツを通して描かれていることが、その最も肝要なストーリーの主軸です。
いわば社会的受容と自己肯定の物語なのですが、サブテーマとしてはみほと姉の互いに思いあう心・姉妹愛も伏流として示されています。その意味で、かのディズニーのヒット作『アナと雪の女王』とも相通ずるものがあると言えましょう。
『ラブライブ!』の高坂穂乃果は、もう少し王道な、元気で前向きな性格の主人公ですが、それゆえの大きな蹉跌をも経験し、それをつうじて自ら内省し、自分を再評価したうえで仲間との関係を深化するエピソードは物語の大きなヤマ場としてあります。また、アイドル活動を始めるにあたって引っ込み思案な性格の少女が勇気を出して一歩踏み出すようなエピソードは、他のメンバーによって担当されたりもしています。したがって、やはり社会的受容と自己肯定は、必然的に物語の重要なテーマとなっています。
これらが、社会の男女二分構造の中で抑圧を感じるすべての人のエンパワーメントのために大いに意義があるのは言うまでもないでしょう。


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5:男性ホモソーシャル公的領域の撹乱
一般に、男性ホモソーシャルな社会構造では、男性のものと設定した内部を公的領域として特権化し、権力機構として機能させています。対して女性(や子ども)の領域は外部へと周縁化し、私的領域としてケア役割などを割り振るわけです。各種の性別役割分業規範が敷設された性差別的な社会構造はこのように維持されていると言え、これはこの世の中のジェンダー問題のかなり核心にあることでもあります。
ここで、学校を「廃校にする」というのも、男性領域である公的な権力領域がくだす決定に該当するものだというのは、理解に難くありません。
ところが『ラブライブ!』や『ガールズ&パンツァー』では、そんな「廃校」という公的領域に位置する権力機構から通達された決定に対し、私的領域に属するものとされる女子高校生という立場の主人公たちが、私的領域の側から、その私的領域での日常の価値を守るために、私的領域的な手段で対抗的に公的領域に働きかけ(女性としての「アイドル」はもとより、ガルパンの「戦車道」も作中ではもっぱら女子の武道(スポーツ))、ついにはその公的領域での決定を覆すというところに、大いなるカタルシスがあるのではないでしょうか。
それだけ、ラブライブとガルパンには、男性ホモソーシャルな性差別的構造とその構造に則った社会規範を撹乱する力がある、そういう重大な意義を持った作品でもあるのです。

  

  


いかがでしょうか。
以上のようなことが、視聴者との相互作用のうちに、明日の世界をよりよく変えていく可能性は大いにあると私は考えます。
「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由」を過小評価すべきではありません。


◎プリキュアだったら何色?
上述のとおりラブライブとガルパンには「廃校阻止」という点では共通項があるのですが、主人公のタイプは大きく異なります。
高坂穂乃果が積極的な元気娘で、いわばプリキュアになるなら主役のピンクのプリキュアなのに対し、引っ込み思案でネガティブ属性も強い西住みほはやや捻った位置づけに来る黄色のプリキュアあたりが妥当するのではないでしょうか(みほ役を演じた声優・渕上舞さんがドキドキプリキュアで担当したキュアロゼッタが実際に黄色だったり)。
このため、ラブライブのアニメ序盤などは、穂乃果にまかせておけばまぁ大丈夫だろう的な安定感があり、視聴者が安心して見ていられる雰囲気になっています。対してガルパンでは、最もリーダーに向いてなさそうな人が学校の命運を背負ってチームのリーダーをせざるをえなくなるという往年の富野由悠季監督アニメのような不安感に苛まれることになるのも(そこからのみほの成長譚が感動を呼ぶのも、それがゆえ)、また一興でしょう。
ラブライブのアニメ1期11話では調子に乗って自滅するのが穂乃果本人なのに対して、ガルパンの8~9話での準決勝戦でチームが絶体絶命のピンチに陥る遠因が調子に乗ったチームメイトをみほが抑えきれなかったためだというあたりにも、こうした主人公のタイプの差異が特徴的に出ていると言えるかもしれません。


◎現実世界にスクールアイドルがいたら?
「戦車道」は言うまでもないかもしれませんが、「スクールアイドル」もまた現実世界には存在しない架空の概念です。
ラブライブのメディアミックス展開の全体像である「 School idol project 」でも、アニメの作中に登場したような学校所属の部活動としてのアイドルユニットの活動を現実世界において興していくような企画は考えられていないようです。
実際にやるとしたら、教育活動の中へ位置づけるための建前をどうするかの他、肖像権やプライバシーの問題など、課題は多いでしょうが、ただ、この《放課後の部活としてのアイドル》、今日の中高生たちの間には「やってみたい」というニーズも相応にあるのではないでしょうか?
そして、そのように考えを進めたときに思い至るのは、1980年代に一世を風靡したアイドルグループ「おニャン子クラブ」の存在です。
おニャン子クラブの直系の嫡流はAKB48等なのでしょうし、AKB48等もまた擬似的に同じ学校の生徒が集まったユニット的なテイストが演出されてはいますが、かといって「放課後の部活っぽさ」という点では、AKB48等の場合、それは薄いという印象です。
対してかつてのおニャン子クラブには「放課後の部活っぽさ」が演出としての強調を差し引いても多分に濃厚で、そしてソレこそが当時の人気の理由だったとも言えるでしょう。
その意味で、ラブライブのアニメ作中に登場するスクールアイドルの概念に近い存在を現実世界に探すと、最も当てはまる事例が往年のおニャン子クラブになる――逆に言えば、おニャン子クラブのエッセンスを受け継いで、この21世紀における的確な進化形となっているのはラブライブのアニメ作中における「μ's」のような「スクールアイドル」だと言えるのかもしれません。
………となると、ラブライブのアニメ作中でμ'sのセンターを務める主人公・高坂穂乃果を演じる声優であり、メディアミックスの3次元展開のμ'sでもセンターに立つのが新田恵海で、往時のおニャン子クラブの会員番号4番としてセンターに入ることも少なくなかったのが新田恵利だという符合は、単なる偶然の一致にとどまらない意味があるのかもしれませんね(←言いたかったのはコレかいというツッコミはなしで(^^;))


◇◇


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