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アニメアイドルは現実世界に関わる力を持っている [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて前記事にてタイトルだけ紹介したアイドル事変ですが、なかなか見どころのある展開が続いています。

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※画像は放送画面や公式のサイトから(以下当記事中同じ)

 → 「アイドル事変」公式サイト


アイドルアニメもすでに乱立している中では、この作品のように「アイドルが国会議員というユニークな捻り方は印象的です。
たしかにリアルに寄せすぎたシビアな政治ドラマを描くことは避けられていますが、アイドルの表象やアニメとしての作劇とのバランスを考えれば、妥当な塩梅ではないでしょうか。
アイドル議員のライブによってアイドルオーラが発散され、それによって敵対政党の議員たちがメロメロになって改心する(いわゆるマクロスシリーズの「で、デカルチャーっ!」的に)という展開も、フィクションの物語の楽しさというものです。
そうした中で、さまざまな社会問題には思いのほか真摯に向き合って解決策を模索し、既存の常識にとらわれない斬新なアイデアや実行力を示す様子などは、この国の政治の閉塞した状況に本当に一石を投ずるものとも言えましょう。

昨年の「ユリイカ」のアイドルアニメ特集(ユリイカ2016年9月臨時増刊号 [総特集=アイドルアニメ] 青土社)で私は寄稿した「『マクロスΔ』の三位一体とケアの倫理の可能性」にて

…「ケアの倫理」に基づき、仲間との関係性の中で相互に配慮しあい、気持ちを尊重しあい、ときに癒しあいながら、より多くの人々との間で共感・協調・共生の輪を広げていくことを期して歌うアイドルたちの物語には、公的領域の「正義の倫理」のしがらみの中で膠着した諸問題をときほぐす希望がある。
(中略)
現在の日本のアイドルアニメのアイドルたちは、アニメ作中でそうしているように、もはやじゅうぶんに現実世界に関わる力を持っている。軍事的な衝突の場のみならず、政治や経済など、公的領域のあらゆる局面に「ケアの倫理」が届けられたら、それは世界をもっと平和で豊かな方向へ構造変革することにつながるはずだ……

…と述べましたが、それをふまえると、まさしくこの『アイドル事変』は、アニメのアイドルが現実の政治を動かしていく力を持っているという指摘への、ひとつのアンサーになっているとも思えます。


  

  


特にここまでで注目に値するエピソードは、例えば第5話「事変05 保育園天国」

なるほど「保育園落ちた、日本死ね」が流行語になる今、政治の問題にかかわる以上は「保育園」は避けて通れないテーマでしょう。

親の就労時間中の保育は福祉施策として必要不可欠であるはずだという前提のもとで、敵対政党の議員による「女のシアワセは家庭に入って家事育児をすることだろう」といった因習的な価値観念が対比的に描かれるのも、現実に鑑みるとなかなか生々しいところを突いています。

この回では敵対政党の議員が翻意に至るのも(マクロス的「デカルチャー」ではなく)論理的な説得の結果なのですが、それが保育園に子どもを預ける母親たちが、じつは社会に欠かせないさまざまな職業のエキスパートである様子をあらためてまのあたりにした結果だというのも、思いのほか丁寧な作劇でした。

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第6話「事変06 TOO SHY SHY GIRL!」では、アイドル議員のひとりがシャイな性格のため委員会質問なども上手にできないことに悩みながら、自分なりのスタイルを確立していくプロセスが描かれました。

それ自体はわりとありがちなプロットとも言えますが、国会でのアイドル議員という舞台設定が効果して、いわば「男社会」であった政治の場には、いわゆる「普通の女の子」がそこで活躍するうえでの有形無形の参入障壁があり、現行の議院の規則や慣習が旧弊にとらわれすぎなのではないかという疑問を暗示しているようにも読めました。

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これより後の回では、敵対政党が政権与党の地位を利用して、さまざまな妨害工作を仕掛けてくる展開もあるようです。
既得権益を固守する政治の中枢に対して、果たしてケアの倫理は届くのか。
アイドル議員たちの取り組みの結末は見逃せないところです。

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ともあれ、昨年には選挙権年齢が18歳に引き下げられた今、こうしてアイドルという表向きの切り口を活かしながら、政治にかかわる内容がアニメに取り入れられるのは良いことです。

近年では『ガッチャマンクラウズ』が、やはり政治をめぐる諸問題に肉薄するドラマを展開するアニメとして注目を集めていましたが、『アイドル事変』もまた、その系譜に連なるものとして位置づけて評価してよいのではないでしょうか。


◇◇


小林さんちのメイドラゴンの小林さんが女性な件(まぁドラゴンの性別もわかりませんが) [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さてユーリとユーフォの余韻もさめないうちに2017年も はや2月。
この1~3月クールのアニメには、どんな注目ポイントがあるでしょうか。

どのタイトルもまだ途中なので評価には留保も必要ですが、現時点までで個人的にオススメ作品として特筆したいのは2つあります。

ひとつはアイドル事変

こちらについては次記事にて詳しく見てみたいと思います。

 アニメアイドルは現実世界に関わる力を持っている

(2017/03/09)
当初この位置にあった『アイドル事変』についての記述は、すべて次記事に移動し、加筆のうえ独立記事に再構成してあります。
※当記事中の画像は放送画面や公式のサイトから


そして、もうひとつが標題の小林さんちのメイドラゴン』。

話せば長くなるので、まずは最初に結論を述べておきましょう。

「『小林さんちのメイドラゴン』はいいぞ」

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 → 「小林さんちのメイドラゴン」公式サイト


元々私はこの『小林さんちのメイドラゴン』にはたいして着目していませんでした。

事前情報をチェックすると、なんでも作品の概要は、さえない主人公のもとへドラゴンが美少女メイドの姿になってやってくる………。

はぁ?
何それ、なんという男目線の、異性愛男性に都合のよい設定;

もちろん、いわゆるオタクカルチャーに敵対的でアニメ文化全体を快く思わない人々が、誤解と偏見に基づいて独善的にこれらを全否定しにかかってくる言説や、その際にフェミニズムの各種知見が都合よく切り取られて恣意的に用いられるような事例がしばしば見られることに対しては、私もいかがなものかと思っています。

「女性に対する人権侵害」というものは当然に許されざるものですが、かといって勝手に主観に基づいて「女性の敵」認定した相手に対して罵詈雑言を憚らないのは、単なるヘイトスピーチにすぎません。
人権擁護の名のもとにこうした人権侵害の言動をおこなう人々には猛省を促したいと強く訴えるところではあります。

しかし、そうは言っても私とて、いわばいちおうはフェミニスト。
大学院で相応にジェンダー論を修めた身でもあります。

そして現行社会の構造のもとでは、女性たる存在をもっぱら自分たちの性的対象としてみなして同じ人間としての人格や尊厳を認めないようなスタンスでふるまう習慣も、男性社会の規範の中では一定の有効性を持って機能してしまっているのも、残念ながら否定できない事実でしょう。
そうした状況の反映として、アニメ作品やその原作となることも多いマンガ作品に限らず、各種の表現物が、いわゆる「女性蔑視」的なものとして立ち現れてしまう事例もまた、往々にして見受けられるところとなっているわけです。

そのような表現物に対して、ていねいに問題点を指摘していくことも、フェミニズムの責務として、正当なものであることは理解されるべきでしょう。

その意味では『小林さんちのメイドラゴン』も、基本設定を一瞥した限りでは、そうした「女性を都合よく男性の性的対象として描いたもの」という範疇にあると窺えました。

あぁ、コレはきっと主要視聴者と措定した異性愛男性向けに、過剰なお色気描写が次々と繰り広げられるやつなんだろうなあ。
そして水着回や温泉回では、あんなことやこんなことやぉおー~っナニもソコまでっ! というようなことが描かれるにちがいない。
見なくても容易に予想できます。
俺は専門家だから知ってるんだ!!

……もちろんそのような描写のみに特化した作品も、特定層向けにニーズがあるなら一定のジャンル分けのもとで展開されることは直ちに悪いことではありません。
要は広義のゾーニングの問題でもあるでしょう。
しかし、そうなると初めからアピールできる範囲が限られてしまいますし、普遍的なテーマを織り込むのも難しい(あるいは幅広く訴えたい普遍的テーマを描く良質の物語を描いているにもかかわらず、部分的に「女性蔑視」の危惧がついて回ってくる性的表現が含まれてしまっているために非常にもったいないことになってしまう、いわゆる「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」も起こりえます。[ただし、パッと見ではそんな「女性蔑視・異性愛男性向け描写」が満載でも、そこに作劇上の必要や必然があって、じっくり観れば意義のある深いテーマに斬り込んでいる作品もまたあるので、じつは判断はかなり高度な分析が必要な難しいものでもあります])

いずれにせよ、この『小林さんちのメイドラゴン』は、今期のアニメとして自分が視聴する必要があるものではない――。

そう判断して、公式サイトをそそくさと閉じようとしたとき、キャラ紹介ページの文言がふと目にとまりました。

「小林さん:メイド大好き独り身お疲れOL」。

………………。

………お、「OL」!?

つまり性別二元的に言えば「女性」??

それじゃぁ…………

つまり

……………百合じゃん!!


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(百合でした(*^^*))


思えば、「主人公のことが大好きな異能・異形の美少女が異世界から半ば押しかけ女房的にやってきてはじまる同居生活をつうじたラブコメ」という括りで捉えると、該当するアニメ作品として真っ先に思い浮かぶのは『うる星やつら』です(何らかの異界からの来訪者といっしょに暮らすことになって始まる日常の中の非日常のオモシロさを描く作品として範囲を広げすぎると、ドラえもんなどまでが含まれることになって対象が増えすぎるので、ここではもう少し絞っています)

しかしながら主人公の諸星あたるは、周知のとおり、あのようなことあるごとに女の子のナンパに勤しむ超肉食系男子でした。

『うる星やつら』はたしかに1980年代のアニメとしてエポックのひとつとなっていて、その存在は大きく、秀逸なエピソードも数多い名作だったと言えますが、そうした設定の主人公を中心に構成された物語は、今日の鑑識眼をもって評価し直すなら、ジェンダー観点からは「古い」と言わざるをえない点もまた少なくないのは否めないでしょう。

やがて時代がくだると、上述した括りに該当する、いわばうる星やつら変形譚にも、そのような古い部分を的確にアップデートした作品が登場します。

這いよれ!ニャル子さん』や『モンスター娘のいる日常』などは、まさにその好例として挙げられるのではないでしょうか。

お色気描写の量や質についてはさまざまな要因がせめぎあった結果が反映されるものなので、部分部分については一概には比較できないでしょうが、総体としては女性キャラの位置づけにおいてジェンダー観点からより好ましい方向へと移っている傾向は認められます。

異界からやってくる美少女を迎える側の主人公も、家事能力も高い草食系男子に設定されており、まことに今風にです。
そのあたりは、『這いよれ!ニャル子さん』のアニメ1期当時に書いた「名状しがたい性の多様性のようなもの」でも述べたとおりです。

そうして今般、『小林さんちのメイドラゴン』では、ついにその「草食系男子」の地位が、ズバリ女性キャラに置き換わったということになるわけです。

これを、時代に合わせた適切で画期的な進化と呼ばずしてなんと言いましょう
(こうした変化を「PTAがうるさく言ったから」「フェミの陰謀のせい」だとする声を先日たまたま某所で見かけたのですが、はたしてそうでしょうか? 今どきの若い世代のスタンダードとしては、むしろ往年の諸星あたるのような超肉食系の言動こそが、もはや理解できないものになっていて、感情移入も難しくなっているのではないでしょうか。ウチの娘のクラスメートの男子高校生たちの様子を伝え聞くところでも、そういう傾向はじゅうぶんにうかがえます。その意味ではこのような変化は、時代に応じて最新の若者のリアリティに誠実に寄り添い、作品の受け手本位の改革を実行した成果だと言えるでしょう)

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むろん、百合なら何でもよいというわけではありません。
百合要素を含んだ作品ももはや珍しくない中では、今後は「百合厨はこういうのが好きなんだろ!?」的に安易なものも粗製乱造されていく懸念もなくはないです。

しかし『小林さんちのメイドラゴン』は、そんな押し付けがましい百合演出はむやみに前面に出すことを抑制しつつ、じつに巧みに『うる星やつら』の諸星あたるが女性キャラに置き換わっているメリットを最大限に活かした作劇をおこなっているのです。
その結果、諸星あたるポジションのキャラが草食系男子であってさえ描けなかったであろうさまざまな事柄が、良質なエピソードに織り込まれることとなっています。

ドラゴンのトールが以前いた異世界ではドラゴンは人間から敵対視されており、トールは聖騎士に追われ剣を刺された状態で命からがら、こちらの世界に逃れてきます。
そこを小林さんに助けてもらったトールは、小林さんに恩義を感じ、小林さんのために小林さんが愛好するメイドの姿の人間になって小林さんのもとで働くうちに、小林さんのことを身も心も、よりいっそう大好きになっていきます。

そして、そんな気持ちの表明の数々が人間界の常識とはちょっとズレているところが、お話としてはギャグに生かされたりもしていますし、一方で「小林さんのことが《性的に》大好きです」なんていう直球すぎるセリフもあります。

ただ、その「好き」、やはり一般的な恋愛感情とされるものに回収して理解するのは矮小化に過ぎるのではないでしようか。
上述のように、このトールの小林さんへの気持ちは、本当に純粋な、まさしくとしか呼べないものだと言えます。
これが、男性キャラと女性キャラの間でのことだと、現実世界の恋愛ルールや異性愛主義、各種ジェンダー観念に邪魔されて、うまく描けなくなることは想像に難くありません。
あるいは女性どうしの同性愛であっても、フツーの人間の女性と女性であれば、いわゆるレズビアンへの偏ったイメージ等々、いろいろしがらみがあるというものです。

それが、人間女性と美少女ドラゴンという設定の妙によって、非常にピュアなものとして浮かび上がらせることに成功している。
すなわち、人間の女性と美少女メイドの姿のドラゴンのつながりをとおして、ここにあるこの感情の交換もまた「愛」であることが描かれているのです。

つまりは『小林さんちのメイドラゴン』もまた、愛の再定義」の物語として成立していると言えるかもしれません。

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また、小林さんとの生活の中で、トールはこちらの世界にしだいにすっかり馴染んでいきますが、それもあくまでも人間に擬態していてのこと。
魔力で姿を消すこともできはしますが、うっかり(文字どおり)尻尾を出してしまう危険とも常に隣り合わせです。
そして、もしもドラゴンだという正体がバレた際には、結局はこちらの世界でも迫害されてしまうのではないか?
そんな不安感も絶妙に醸し出されているのです。

そういう危ういバランスの上に成り立っている平穏の様子は、現実世界で偏見を恐れてカミングアウトをためらいながらの生活を強いられている各種のマイノリティのことを思うと、なかなかに生々しいものでもあります。
それゆえに、ソコを描いてくれるのは作品として上手い。

当記事では今般のアニメ版をベースに『小林さんちのメイドラゴン』を評していますが、原作コミックを読むと、『うる星やつら』の系譜に連なる作品という印象はアニメ版ほどはせず、むしろどちらかというと『琴浦さん』との連関をコンセプトに感じなくもなかったです。
でも、それがこうしたマイノリティの社会的包摂を視野に入れた部分の共鳴だと解釈すれば、いたく納得できることにもなるでしょう。

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あと、先ほど「人間の女性と美少女メイドの姿のドラゴンの愛」というようなことを書きましたが、その言い回し、少しトラップが仕込まれてます。
だって、ほら、「ドラゴン」の性別って、いったいどういうシステムになっているのでしょう?
そもそもが想像上の生き物ですし、現実の人間社会のジェンダー観念が通用しないような生物学上の性別であるという世界観はじゅうぶんに創作可能な余地があります。
なので、トールと小林さんの関係を、まずもって(当然に「異性」「男女」ではないという前提の上で)「同性」「女どうし」と捉えること自体までがギモン符の対象にできるつくりになってもいたりします。
そりゃまぁそうでしょう。
何でも女と男に二分できるはずだというのも、私たちの現実世界の世界観そういうことにしてあるものとして設定してあるのにすぎないのですから。

小林さんも、いたって中性的なキャラ造形で、勤務先はコンピューター関連(システムエンジニア)、酒好き、喪女・腐女子属性も少々、独身、あまり社交的でない……など、世間一般の「勝ち組女性」の評価基準からすれば、かなり遠い位相に生きていました。
ゆえに小林さんもまた、ある種の少数派として、誇りを持って自分のスタイルを貫きつつも、横目に視界に入る「普通の幸せ」に対しては、相応の諦念を抱いて暮らしていたのではないでしょうか。
そんな中でのトールがやってきて以降の生活には、小林さん自身のほうも何かを得ることとなっていて、そこのところ描写も絶妙だったりします。

『うる星やつら』や『這いよれ!ニャル子さん』『モンスター娘のいる日常』などの前例に漏れず、『小林さんちのメイドラゴン』でも、トールが最初にやってきたのを皮切りに次々と仲間のドラゴンがこちらの世界に来訪し、人間態の新キャラで登場します。
そのうちのひとり、小学生の女の子のような外見のカンナもまた、小林さんのところで同居生活を始めるのですが、そうこうするうちにカンナに対する小林さんの位置づけが母親的になる、言い換えると、カンナの存在が小林さんにとって擬似的に母親役割の体験として機能する一面も(正確には母親役割と父親役割の双方が包摂された、まさに「子の保護者」的に)描かれます。

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おそらくは小林さん、実家の親や職場の上司などから「結婚はまだか?」などと折に触れて言われていたのではないかというのは容易に推測できます。
結婚し家庭を持ち主婦および母になることは、女のシアワセのかたちとしていまだにいちじるしい強制力をふるっています。
一方キャラ描写から判断して小林さんが、そういった類型とは相性が悪そうなことも、読み取るのに難がありません。

しかし、そんな小林さんにあっても、家族や子を持つことに相当するものを得ることができるスタイルは実在する。
人間とドラゴンという異種間での創設家族的なシェアハウジングを物語の舞台とすることで、その可能性を具体的に提示していっている『小林さんちのメイドラゴン』は、家族社会学的にも興味深いですし、何より、定型的な「普通の家族」の桎梏から人々を解放して、多様な様式の幸せのフォーマットを展望可能にする一助として、重要な意義を持っているのではないでしょうか。

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そんなこんなで、この『小林さんちのメイドラゴン』、なかなか侮れない作品になっています。

ぜひ普及活動を広めたいところです。

「『小林さんちのメイドラゴン』はいいぞ」ノ


◇◇
  

  


◇◇


人と人とがひかれあう力「引力」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

ふと思い出したのですが、小学生のころに読んだ本の中に、こんなSF小説がありました
(基本的に細部はうろ覚えに立脚した記述です。後日に原典に当たって話のウラは取りましたが、以下 本記事はそれをする以前の時点での認識に基づいたものとして書き進めてあります。あしからずご了承ヲ)

舞台は、地球から何十光年か先の恒星系へ移住するために船内で人々が生活し、そこで親から子へ何代かにわたってミッションが受け継がれていく「世代宇宙船」。

ところが、途中でトラブルが重なり、そうしたミッションを統括する乗組員が全滅し、残された人々がそこから長い年月を経ると、もはや当初の目的や自分たちが置かれた状況などのいっさいの情報などが失われて、人々はその宇宙船内だけを世界のすべてと認識し、そこがそうした「世代宇宙船」の中なのだということすら知らずに生活するようになってしまいます。

そうして、かつてそんな巨大宇宙船を建造しえた人類の科学的素養もまったく喪失されてしまい、船内はさながら中世のような、迷信や不合理な慣習が横行する頑迷で封建的な社会と化しているのです。

しかし、そんな自らが置かれた環境に疑問を抱いた主人公が、禁忌を破り、立ち入りがタブーとなっているエリアを探検することを繰り返すうちに、真実に肉薄し、自分たちが生きる道を再発見していく……。

だいたいそういう感じのあらすじだったと思います。


小学校の高学年のころは、足しげく図書館に通い(むしろ現在よりも;)、このようなSF小説も新旧洋邦を問わず読み漁っていたものです(『女が少年だったころ』参照ノ)

なので、こうした記憶もなかなかなつかしいところですが、さて、ではこのSF小説はいったい誰が書いた何という作品だったのでしょうか?

………上記のような断片的記憶から思いつくキーワードをいくつか組み合わせて Google で検索してみると、それは思いのほかアッサリと判明しました
(スゴイな、21世紀のインターネット! (^^) )

どうやら、ロバート・A・ハインラインの古典的SF名著と言える宇宙の孤児だったようです。

おそらくは、当時の小学校の図書室にあったのは福島正実による翻訳のバージョン『さまよう都市宇宙船だと推察されるので、実際にワタシが読んだのもそちらだと思われますが、いずれにしても原典はハインラインのもので間違いなさそうです。

なので、なるほど、さすがハインライン。
こうやっておぼろげな記憶をたどっただけでも、なかなか深い物語であるのもうなずけます。

自分たちが世界のすべてだと思い込んでいる場が、じつは限られた閉鎖社会であり、その外側にもまた広大な別世界が存在する。
絶対だと信奉している規範や戒律も、そんな限定的な空間のみで通用している設定にすぎず、決して普遍の真理ではない。
だから、さまざまな事柄に疑問を持ち、相対的な視点真実を探求する姿勢は重要だ……。

そんなことにも思い及ばせられる、非常に示唆に富んだ内容だとも言えます。
現代の地球に生きる私たちが、この作中の宇宙船内の中世的社会を他山の石とすべき点は多いのかもしれません。


 


ところで、この『宇宙の孤児』。
小学生のときに読んだ際、次のようなエピソードが挿話されていたのも印象に残ったように記憶しています。

科学的な素養が失われ中世化してしまった船内社会では、昔の科学書などはある種の聖典として意味もよくわからないまま読まれているのですが、ある日主人公は、そうした科学書を読んで整理する仕事などを含む部所に配属されます。

そこで主人公が手に取る過去の文献の中には物理学の書物もあり、それらにはニュートンにまつわるあれこれも書いてあるのです。
しかしながら、主人公らにとって可能な世界認識の範疇では、誰もその真の意味はさっぱり理解できません。

当然、「万有引力? ……『引力』っていったい何なんだ!?」というギモンに対しても、主人公らは一人として適正な解に到達できないわけです。

そんな中で、かつて誰かが「万物が引き合う力。……わかった、きっとこれは人と人とが惹かれ合うこと。つまり恋愛感情だ!」と言い出したのでしょう。
この解釈は大勢の人が納得したのか、結果として、主人公らの世代が生きる時代の船内社会では「引力=人と人が惹かれ合う力」がいわば定説となっているのです。

そうして、本当にそうなんだろうかと訝しむ主人公に対し、上司がなだめて言うところは「昔の人ならではの喩え話だろう」………。

いやはや、引力をめぐる物理法則を、このように人間の感情に置き換えてしか解釈できないとはニュートンもびっくりでしょう。

きっと作者ハインラインとしては、それだけ船内社会では現代科学が失われてしまい、どうしようもないほど中世化してしまったことを補強する意図で挟んだ描写だったのではないでしょうか。

少なくとも、私たちにとっては、ここまでの文脈のような意味あいで、「引力」を人の気持ちに関するものであるようにしか解釈できない世の中が到来することは、全力で阻止したいものであることには異論の余地はありません。


……しかし!


ここで話を、ぐるぅぅ~~~っと801光年ほど回して現実の2016年の世界を見てみましょう。

こちら、アニメ響け!ユーフォニアム2公式サイトに載っている登場人物相関図なのですが……

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……………

_人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 人と人とが惹かれ合う力【引力】!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^YY^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

(*^^*)


これまたビックリです。
こんな形で《人と人とがひかれあう力「引力」》の用法が再発見されるとは!
(もちろん、これに先立つ前例もあるのでしょうが、やはりこのアニメ作品での使用は印象的にして画期的)

そして、これは先の事例とは異なり、むしろ人類として進化したとも言えるのではないでしょうか。


一般に、同性どうしの親密な関係性は「友情」だと言われます。

また、それに照応するほどの親密性が異性間で紡がれるには、それが「恋愛」だと解釈されうることが要求されたうえで、その関係性が実現した暁には、「恋愛」は「友情」よりもより上位の関係性だと認定されがちなきらいもないではありません。

そんな中で、同性間の親密度が一定水準を超えているとみなされるようなケースには、「同性どうしなのに友情を越えるあたかも恋愛のような親密度」とばかりに、そこに「同性愛」と名付ける慣習もまた根強いのが現実です。

されど、それは本当に普遍の真理なのでしょうか?

人と人とのインティマシーに対して異性間なら「恋愛」、同性間なら「友情」と解釈するコードなど、便宜的に仮構された社会システムにすぎません。

そもそも、人が誰かに対して希求を禁じ得ない親密欲求の、どこからが「友情」でどこまでが「恋愛」なのか、その明確な境界線が引けるほどに、両者の本質的な差異は何か実在するのでしょうか??

むしろ逆に、両者の差異があるという言説に根拠を与えるために、「同性」かそれとも「異性」かが重要だということにしてあるというのが真相ではありませんか!?

だいいち、「同性」「異性」を峻別するための「女」や「男」の基準もまた、社会的文化的に構築された、ある種の限定的な設定でしかないでしょう。

生殖にかかわる身体タイプの多少の違いを根拠に、出生時点で人に2種類用意されたうちのいずれかのジェンダーを割り振る習慣。そしてそれに立脚して、さまざまな社会的相互行為の規範に男女で異なる基準を求めるなんて、あくまでも限られた閉鎖社会の内部でのみ通用している、いうなれば頑迷で封建的な因習だと言うこともできるでしょう。

そこをふまえると、登場人物相関図の中での特定の間柄に対して、「同性」「異性」「恋愛」「友情」といった悪しき旧弊を超克して、「こいつらはとにかくものすごくひかれあってるんだヨ!」という状況を【引力】と言い表すのは、ものすごく斬新で開明的です。


  


響け!ユーフォニアム』は、若い原作者の旧習にとらわれない発想力に端を発し、多数の登場人物の複層的な関係性に新鮮なフレキシビリティがいかんなく発揮されたものになっています。

※昨年のアニメ第1期放送時にも、そのあたりを書いています

 →「『響け!ユーフォニアム』を隣の城陽市から検証する

 →「響けユーフォニアムがエースをねらえよりむしろプリキュアに似てる件!?


「恋愛」や「友情」といった概念には収まらないような先進的な【引力】による絆が、「同性」「異性」といった指標をも超えて、いくつも結ばれていく物語は、大変に刺激的な魅力に満ちていると言えるでしょう。

これにならい、私たちは今一度、二元的な性別制度と異性愛至上主義の桎梏を逃れて、誰かに惹かれる自分の気持ちをフラットに【引力】なのだと捉えなおしてみることが、より豊かな人間関係を築くために求められているのではないでしょうか。


なお、この件は日本語ベースで考えると上記のとおりなのですが、ハインライン作の『宇宙の孤児』原文原語表記がどうなっているかについては確認しきれていません。
なんとなく[ gravity ]、つまり筆頭日本語訳では「重力」となる英語を念頭に置いていましたが、もしも、ソコを「引力」が筆頭日本語訳になるように区別して用いられる[ attraction ]なのであれば、むしろソコには「人が人に魅力を感じる」という含意は、そもそも入っていなくもありません。
(その他、佐倉の英語スキルの限界が露呈している点についてはご指摘・ご教示いただけると幸いです m(_ _)m )


『宇宙の孤児』に登場するような「世代宇宙船」というのは、限られた船内社会で人々が暮らし 子を産み育てて世代を重ねないといけないというミッションの都合に起因して、そうでない場合よりも余計に同性愛など性的少数者は厳しく弾圧され取り締まられるようになっていそうな不安もなきにしもあらずです。
特に『宇宙の孤児』のように、本来のミッションが忘れられて中世社会化した中では、よりいっそう元々の根拠も失われて、ほとんど狂信的に迫害される危険もあります(そういう状況の批判的な暗喩も描きこまれていたと言えるかもしれません)。
………もっとも、現代の地球での現実のホモフォビア(やトランスフォビア等も含めた「セクマイフォビア」)も、その理由を突き詰めると、あまり事情は変わらないと見ることもできるのではないでしょうか。


◇◇


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