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「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

「バナナはおやつに入りますか?」に「レオナはおんなに入りますか?」は似ている [多様なセクシュアリティ]

さて前記事のとおり、やっぱりプリパラはスゴイのですが、例えばプリパラのレオナのような為人の人物を、男性として扱うか女性として扱うかは、現実世界でのシチュエーションにおいては悩ましいこともままあります。

まるで遠足の前日バナナはおやつに入りますか?」のように。


ところで、この「バナナはおやつに入りますか?」。
バナナがおやつかどうかの議論はだいたい「(遠足の)おやつは300円までとの兼ね合いで発生するものです。
だから、あたかも消費税の軽減税率の対象に含まれるか否かのごとく「政治的に」決定しなければいけない事項となるわけです。

背景には「遠足のおやつとは何か」という命題においても、最後には分けきれない境界線上の存在がどうしても出てくることがあります。
そういう場合に「300円まで」というルールを有効化させるために、ここではバナナはおやつに含まれる(or含まれない)という操作的定義を設定する必要が生じてしまうのです。

つまり、バナナがおやつに入るか否かは、社会的な秩序を維持するための要請から政治的に決定され決着される命題なわけです。

当然ながら、「おやつは300円まで」という要請のほうを柔軟な発想で適切にコントロールできれば、境界線上に位置するバナナの存在の取り扱いもまた臨機応変に最適化することは可能となるものです。

……そしてじつは、これと同じ構造上に「性別」があるのではないでしょうか。

実際には単純に二分できないにもかかわらず、社会的に用意されている性別カテゴリは2つしかない。
だからこそ、「女」や「男」を定義して決定していくという操作が必要となります。

そうして、プリパラのレオナのようなトランスジェンダルな人を「本当は(肉体的に、および戸籍上)」とするか「女性としてごく自然にアイドルしてるから女でOK」とするか、いずれにしても社会における必要から政治的に決定される事項となるのです。

いわば誰が女で誰が男だという社会的な事実は、政治的に定義されたもので、それらに先んじて自然状態としての性別が(社会的に意味を与えられる直前の「生殖に関わる身体差」を除いては)先に存在するわけではないのですね。

そういう意味で、

「バナナはおやつに入りますか?」
「レオナはおんなに入りますか?」

単なる言葉遊びというのみにとどまらず、深いところで同じ構造上にある命題なのではないでしょうか。

願わくば性別カテゴリの執行にあたっては、こうしたことを念頭に、ぜひとも硬直的ではない、しなやかなスタンスでお互い臨めるように心がけたいところですね。

 


トランスジェンダーに理由は必要ないし「本当の性別」は存在しない [多様なセクシュアリティ]

アニメ『プリパラ』といえば、「かわいすぎる男の子」レオナ・ウェストにかかわる取り扱いが、今日の日本におけるトランスジェンダー描写の最先端を行っているなど、ジェンダーやセクシュアリティの観点からも安心・安定のクォリティであるということは、以前に述べたとおりです。

 2014年のアニメが変態すぎる件

 → わかりやすくないと性の多様性は理解され得ないのか?


  

その後もコンテンツとしての人気は堅調なようで、メディアミックスのアーケードゲームが好調、アニメの2016年春以降の放映継続も決定したとのこと(新作劇場版も2016年3月公開なのですがスタッフクレジットの「メカデザイン:大河原邦男」という文字列がこれまた非常にジェンダー撹乱的です。…まさかプリパラでも女の子たちがロボットに乗って戦う!?)


そんな『プリパラ』、新キャラクターも続々と登場しているのですが、この2015年夏頃から登場している「紫京院ひびき」、

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 ※画像は放送画面からキャプチャ。以下当記事中同じ

いかにもな王子様キャラで、なにがしかのいわくありげな雰囲気を醸しだしています。
実際、登場以来いろいろと主人公たちの背後で暗躍し、怪盗姿に変装してライブに乱入するなど、なみなみならない何かを企んでいる様子が描かれてきました。

そんな紫京院ひびきに対して多くの視聴者が早々に指摘していたのが、いわゆる「じつは女性なのでは?」

たしかに登場時の説明セリフでも「最高のプリンスの称号を持つ理想の男性」などと、やたら「男」が強調されるのは、逆に不自然でした。

なんといっても、プリパラにはすでにレオナの前例もあります。
今さらトランスジェンダルな登場人物が増えたところで、不思議でも驚きでもありません。

はたして、初登場から半年ほどが経過した11月末、第73話「彼女がデビューする日」にて、紫京院ひびきは自らデビューライブの舞台上で、出生証明書に記載された事実を示しながら、「自分は女性である」ことを明かしたのでした。

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この場面、視聴者は上述のとおり「……知ってた(^^;)」でしたが、作中では誰もが驚愕。

まさか!?
いったいなぜ?

そうしてひびきの真意や狙い、そうした行動のバックボーンなどには謎を残したまま、次週へ続くとなったのです。


さあ、ではこの「紫京院ひびき」が、いわゆる男装の麗人をしていたのはなぜなのか?
そして、そうしたキャラクターを描きこんできた制作側の意図はどのあたりにあるのか??

アニメは現時点ではまだ物語が一段落しておらず、トータルでの評価には留保が必要です。

それでも、言えるのはやはり、さすがプリパラ! でした。

そんなモンダイの第74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」を、それでは順にチェックしていってみましょう。

まずは冒頭、作中では世界的なイケメン俳優やモデルとしても活躍しているという設定の紫京院ひびきがプリパラデビューライブで女性であることを明かしたことがニュースになり街頭の大型ビジョンにも映しだされている、その様子を見たレオナが複雑な表情を浮かべます。

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そしてインターネットを再確認すると、ひびきが7歳のときから男の子として子役デビューしていたという情報に、主人公真中らぁらは思わず本当は女の子なのに、なんで?」と発言。

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でも、その台詞は、直後に入るレオナの表情によって疑義を呈された形に位置づけられます。

実際、誰が「女」で誰が「男」かは、政治的に定義された社会的な必要に基づいた約束事に過ぎないと言えます(→次記事も参照)
ならば「本当は女」の「本当」の根拠がどこかに確固として存在しているというのも、じつのところは仮構されたものであり、フィクション、いわば幻想です。

いやぃや身体的には男女の性差は厳然とあるだろうという意見もあるかもしれません。
しかしジュディス・バトラーの論を引くまでもなく、人の「生殖に関わる身体差」に対して「だから女/男である」という意味を付与しているのは、それもまた社会的文化的なジェンダーなのだという認識は、近年のジェンダー論~クィア理論あたりにおいては主流になってきています。

それをふまえると、これもひとつの丁寧な演出だと言えるでしょう。

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それから少しストーリーが進むと、ひびきと、ひびきがプリパラライブを通じた「最高のプリンセス」に育てるべく「パルプス地方」から連れてきたものの、その後の本人の意向との齟齬から袂を分かった形になっている少女・緑風ふわりとの会話シーンがあります。

ここでひびきは、ふわりをわざと(?)突き放すような冷たい態度を取るのですが、その際に自分にとっては演じることは日常」だという言葉を用います。

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この「演じることは日常」というのは直接的には、実際に俳優を生業としていて、かつ普段の言動も芝居がかっているひびきの為人と対応したものと解釈できます。

しかし、社会生活での他者とのやり取りはそもそも、その場に応じた自己呈示とそれに対する周囲の人間のリアクションとの相互作用で成り立っているものです。

すなわち E.Goffman の著作のタイトルが『行為と演技』であるように、社会生活の中で日々自分のキャラを呈示し、その場その場に見合った「自分」の行為を演じているのは、社会学的に見れば紫京院ひびきに限らず、誰もがそうだと言えることになります。

そして、そんな自己呈示の要素のひとつとして「性別」もあるのです。

ジュディス・バトラーもまた、ジェンダーとは行為を遂行することで生成されるものだとの趣旨を述べています。
いわば、女や男というものは「である」ものというよりは「をする」ものだというわけです。

社会的相互行為のステージに、どのようなジェンダー要素を取り入れて自分のキャラとして表現し行為しているか…。
それに対する、他者の認識と反応こそが、社会という場におけるその人の性別だと言うこともできるでしょう。

こうしたことを、このようなセリフにさりげなく含意させているのだとすると、なかなか巧みな演出だと言うしかありません。


次に場面が変わって、今度はレオナが姉のドロシーとともに見ているテレビにひびきが映っています。

そこでは囲み取材を受けるひびきが、「女性だ」と明かしたことを踏まえた「これからは女性として活動を?」とのレポーターの質問に、これからも「僕は僕です」と答えています。

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なるほど。そう来たか。

じつは私も73話での「カミングアウト」が出生証明書を示しながらだったことには、若干の引っかかりを感じていました。

つまり、出生証明書で証明できる性別というのは、出生時の身体が女性ジェンダーを割り振られるようなタイプのほうだったというだけのことで、いま現在における法律上の性別がそうであることの証明にはなっていません。
例えば現実の日本国の現行法でも間違いなくそうです「特例法」にはいろいろ課題もあるとはいえ)

あまつさえ、現在の本人の内心のありようが、例えばジェンダー・アイデンティティとか、ないしは(わかりやすく便宜上)「心の性別」などと呼ばれるようなものに関しても、いかなる様相になっているかなどは、出生時につくられた書類1枚で説明できるものではないわけです。

そう考えると、73話の時点では、その描写はマズいのではないかとも思えるものです。
しかしプリパラの制作陣が、このことをわかってないはずは、やはりありませんでした。

ひびきとしては、本当にあくまでも出生証明書のうえでの性別が女性であることのみを明かしたつもりだったのでしょう。

たしかに出生証明書に記載されたデータとしての性別は女だと言ったけど、だからどうなんだ?
自分がしたい自己表現をして自分がなりたい自分になるのに、それによる制約を何か受ける必要があるのか?

……ということを言っているわけですね。

出生時の目視確認による「生殖にかかわる身体タイプ」を根拠に判定され各種書類に記載された属性こそが「本当の性別」であるというのは社会的なお約束にすぎず、本当は誰でも、それにかかわらず、何にでもなれるしどこへでも行ける――。

実際にそのことを体現している人も今どきは珍しくなくなってきている現状を踏まえて、視聴者に対しても、思い切ったメッセージとなりえています。
やはり侮れない、プリパラ、恐ろしい子(^o^;)


で、そんなひびきの様子を見て、レオナはやはりいろいろ気になるようです。

矢も盾もたまらず、姉のドロシーを伴って、ひびきが今度主演するという演劇の稽古場に乗り込みます。

「あの……(ひびきさんは、本当は女なのに)どうして男の人の姿をしてるのですか?」

………ニコニコ動画の配信で視聴すると、この場面でコメント欄がいっせいに「お前が言うな」になったのは言うまでもありません(^^ゞ
(もっとも、ここ数ヶ月、画面に映っていないところでレオナがいろいろ考えていたことをうかがわせる描写もなかったわけではありませんから、ここでひびきにこう問う動機は、じつのところ納得できるものですし、作劇上もここでレオナを絡めるのは順当です)

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そこでふと思い立ったひびきは、ちょうど到着が遅れていた相手役の女優待ちの時間を、レオナを代役に充てることで稽古をしようと提案します。

ちなみに、その演劇のタイトルは「ペルサイユの騎士」。
………『ベルサイユのばら』と『リボンの騎士』に元ネタが採られていることは推測に難くありません。
もちろん両作品ともに、主人公は女性でありながら男性として生きる「男装の麗人」ですね。

上手い具合に現在のひびきの立ち位置にかぶせた劇中劇です。

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しかし『ベルサイユのばら』も『リボンの騎士』も、主人公の男装にはやむにやまれぬ事情がありました。
そのためそれぞれの主人公には、内に秘めた女性としてのアイデンティティとの間での葛藤もあったものです。

そしてこの『プリパラ』での劇中劇「ペルサイユの騎士」の台本にもまた、主人公男装の理由として「家の事情で男として育てられた」からだという理由が記されていたことになっています。

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ところが、ひびき自身はどうやらそういうものを超越してしまっているようなのです。

レオナを相手役にした稽古の中で、レオナから再び劇中劇の台詞として「どうして女性が男性の格好を?」の旨を問われたひびきは、そのシークエンスで台本を投げ捨てて言います。

「しょせんこの世は嘘とまやかし。どこに問題がある?」

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……なるほど!
これもまた、先ほどの緑風ふわりに言った「演じることは日常」の延長で捉える事ができます。

社会へ向けて開示している自己の表現はあくまでも「自分」。
結局は、その場その場に応じた自分というキャラを演じている――。

そこに周囲が解釈を加えた結果が「女」や「男」なのにすぎず、「性別」の社会的意味とは行為と演技と他者の解釈の相互作用の混沌の中にだけ醸成され、それがその場でのその人の性別の真実。

だから確固とした実体はない曖昧なものにすぎず、「本当の性別」というものが、その場以外のどこかに存在すると考えるのは、社会における対人関係では、じつはあまり意味がない。

その意味では、社会で認識されているその人の人物像というものは、「性別」も含めてすべて虚像であり、それに依拠した社会関係は、まさに「嘘とまやかし」だとも言えるのが標準的な状況なのです(そして逆説的に、だからこそ全部が本当」でもある)。

そして、それゆえに社会という場で「演じる」自己をどのようなキャラに(他者からどのように見られるかという予測も含めて)コーディネイトするかにおいて、「本当の性別」というものを考慮するのもあまり意味がないから、それで制約を感じる必要もない……というのがひびきの考えであり、すなわち『プリパラ』から視聴者へ示された答えなのでしょう。

要は、紫京院ひびきの男装には特別な理由がない。必要ない。

そうしてひびきはレオナに問い返します。

「キミはどうなんだい?」

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すかさずレオナも台本を投げ捨てます。
そして、答えて曰く

あるがままです!」

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そう、レオナもまた、本来割り振られている男という性別にあってかような女性的表象の自己であることは「あるがまま」のことであって、何の問題もない自然なことだと表明されたのです。

こうして、『プリパラ』では本来割り振られている性別に抗った自己表現をすることにさしたる理由は必要ないという方針が、18話のときと同様に再確認された形となりました。

日本のポピュラーカルチャーでは異性装キャラはたしかに珍しくないとはいえ、『ベルサイユのばら』や『リボンの騎士』はもとより、ほんの数年前の2010年でさえ、ハートキャッチプリキュア』で明堂院いつきが男装なのには「家庭の事情」が必要とされたことを思えば、これはかなり隔世の感があります。

異性装したいキャラにはさせとけばイイ。理由はテキトーでじゅうぶんだ」。
このような『プリパラ』制作陣の方針を、ものすごく先進的で画期的だと言わずして何としましょう。

いゃ、そりゃそうでしょう。
なりたい自分になるだけのことに、なんで理由を説明させられる必要がある!?

このやり取りを経て、レオナも何か吹っ切れたようです。
すがすがしい表情です。

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かくして、この『プリパラ』第74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」は、最新のジェンダー論~クィア理論に肉薄するエッセンスを、小難しい専門用語を一切使わずに描ききりました。

いやはや、今しばらく『プリパラ』から目が離せない日々が続きそうです。


  


◎レオナとひびきの「違うところ」とは?
この劇中劇の稽古を終えた直後のセリフでレオナが、自分とひびきが似ているところもあれば違うところもあると口にします。
この「違うところ」についてはネット上でもいろいろ解釈・考察がおこなわれているようです。
たしかに「この世は嘘とまやかし」のひびき、「あるがまま」なレオナ、若干スタンスは違います。
虚飾と自然体……とでも言えましょうか。
しかし私の見立てでは、これは同じことのオモテ面とウラ面にすぎなくて、本質的には両者の「性別」をめぐる自己表現が基づいているコンセプトは同じなのではないでしょうか。
上述の E.Goffman の論も含めた社会的相互行為あたりの知見を補助線に当てて解釈すると…
「この世は嘘とまやかし」→ 社会関係は行為と演技、ドャァ!
「あるがままです!」→ そんな自己呈示を周囲の他者どもよさぁ解釈しやがれ~っ!!

……なわけなので。
結局のところ、「本当の性別」の根拠となるなにがしかが個々人に内在するというのは虚構でしかなく、「性別」とは自己と他者の関係性のやり取りの場に生成される実体を持たないものにすぎないんですね。

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※本稿の補助としてこちらの本に書いたものも参考になるかもしれません
 『改訂版 ジェンダー・スタディーズ』にて章担当

 

◇◇

(2016/04/08)
その後、第83話では、紫京院ひびきの過去が描かれ、「男装」をはじめるきっかけとして、人間不信を招き人生の価値観を揺るがす出来事を経験したことが明かされます。
そして、それも含めて、第89話までで「紫京院ひびき編」はいちおうの決着を迎えました。
しかしながら、結局のところ、女性としてのひびきこそが「本当の自分」であり「男装」のひびきは嘘偽りの姿だった…というふうにはならず、主人公サイドとの確執が解決した後も、出生証明書上は女性であるひびきが「これからも僕は僕です」であること自体は積極的な選択として肯定的に継続する形で結んでいたのは、さすがプリパラと言えるところでした。

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過去エピソードで描かれた幼少期のひびきは、身なりは良家の子女であるがゆえかお淑やかなお嬢様に似合いそうな服装や髪型でしたが、蓋を開けてみると当時からすでにどろんこになって走り回るやんちゃな少女であり、幼稚園の劇でも王子様の役がひびきのハマり役として自他ともに認めるところとなっていました。

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したがって、作中の現在におけるひびきにとって、自分が社会的に男性であること自体はまんざらでもないというか、わりと快適に過ごしてるというか、自己表現ないしは社会的自己呈示としては、あの「プリンスひびき」が自分自身しっくりきて気に入っている可能性は、むしろ高いと考えるのも自然です。
つまりひびきが「男装」をはじめたのは、たしかにきっかけは悲しい出来事だったにせよ、「昨日までの自分」と決別するための儀式的な意味合いで「イメージチェンジ」したにすぎなくて、その際の「チェンジ」後の「イメージ」に男性表象を採用したことは、本心に反した現実逃避などの類ではなく、本人としては積極的な選択だったのではないかと考えられます。


◇◇


「男女間の友情は成り立つか?」2015 [多様なセクシュアリティ]

さて、「佐倉満咲、中学を卒業&高校に入学する」のとおり、この4月から高校生としての生活がスタートしている我が娘・佐倉満咲さんですが、時はすでに12月、早いものでもう2学期の成績表をもらってこようかという時期。言ってる間に1年が経とうという勢いです。

佐倉満咲さんの高校生活@小説版にあっては、ちょうど今頃は作中いちばんのコテコテドロドロの展開なタイミングですが(おかげで百合百合な名シーンも(*^^*) →第4巻、あいにくリアルのほうではそんなに問題の渦中で中心人物になることもなく、まぁまあ平穏にノリノリな高校生ライフを楽しんでいるようです。

まぁそりゃあ現実がそう都合よく作ったようなドラマチックさにはなりません;
(たまに事実が小説よりも奇々怪々になる日もないではないですが)


でもって、例の「小説版での青木太陽クン相当キャラ」である鮎原光太郎クンとは、その後も懇意にしているようで、やはり波長はかなり合うのでしょう、親密度は1学期のころよりも、夏休みや2学期の学校行事――文化祭などを経て、さらなる上昇を見せています。

学校でもよく共に行動してたりするようで、その仲睦まじい様子に周囲からは「付き合ってるの?」などと問われることもあるそうです。
そして、そのたびに否定するものの、その質問のあまりの頻繁さには辟易する日々だとも。

本人たちにとっては、あくまでも仲の良い「友だち」。

満咲としても、また相手である光太郎クンにとっても満咲に対して特段の恋愛感情を意識、しているわけではないようで、カレシカノジョの概念に回収されない2人のこの形は、どうやらお互いのニーズにマッチしたすこぶるここちよい関係性であるようです。

思えばたしかに、男女が仲が良ければ「付き合ってる」のだ……というのも一種の社会通念であり、思い込みです。

まずもって、「恋愛は男女で」というふうに強固に規範化されているのが現行の異性愛主義の社会です。そのキモは、そうした社会関係の場における「同性愛禁忌」「同性愛嫌悪」の標準化だと言えます。
しかし、それが「異性愛主義」のA面だとすると、いわばB面にあたる、同じ根源から形を変えて立ち現われている事象が、男女だったら恋人なはず」「男女で単なる友情なんてありえない」というような圧力でしょう。

これは結果として、男性ジェンダーを割り振られている人と女性ジェンダーを割り振られている人とが、恋人として「付き合う」以外の方法で親密に交流することを不可能化し、以てこの世界における「男女の分断」を引き起こし、両者の間に断絶の壁を築くことで双方のディスコミュニケーションを生成しています。
それが各種の性別役割規範などと結びつき、さまざまなジェンダー問題・性差別の温床となっているわけですから、社会的悪影響の幅広さという点では、非常に根が深い深刻な問題だとも言えるでしょう。

そういう観点からも、「男女だけどただの友だち」の実践事例は非常に有意義なものとして着目すべきものですし、そのことを当然のこととして自然なスタンス向き合っている我が娘・佐倉満咲らはさすがと言ってよいのでしょう。


ただ、この2人、よくよく見ると昨今ではますます仲が良い。
この絶妙な関係性を維持し合える相手であるがゆえに、お互い稀有な存在として距離も縮まってるというのもあるでしょう。

文化祭の係とかもいっしょに取り組んだりしていたようですし、あと男女数人で出かけたりするときにもメンバーの中では特に「ラブラブ」な距離感(!?)だったり。
最近では「LINE」でのやりとりも濃密な様子ですし、我々親に対して学校での出来事を語る際にも、半分くらいは光太郎が絡む話題だったりもしなくはない勢いです。

たしかに恋人として「付き合ってる」わけではないので便宜上「男女だけどただの友だち」と捉えてきましたが、これはもう「単なる友情」の範疇を越えて、ソコから1歩以上進んだ関係性とも受け取れます。

いったいこの満咲と光太郎の親密性のことを、どう捕捉して何と呼べばよいのでしょうか!?
あまりにも一般的には認知されていなくて概念化されていないので、既存の言葉には該当するものがありません。

「……………………(^^;)」

しかし、ワタシの脳内データベースをサーチすると、何かしらヒットする既視感はありました。

この「男女カップル」ではないものの、2人のあまりの密接度と、深い絆に基づく魂の交流をうかがわせる様子の数々に、思わずもぅお前らケッコンしろよwと叫びたくなる感覚……。

そう、コレはアレですね。
いわゆる「百合」コンテンツ内の女の子どうしの相思相愛ぶりを見たときの感覚に近いものです。
(人によっては、日頃から親しんでいるコンテンツのジャンルに応じて、想起するのが「BL」だったりもするかもしれませんが)

そうか、そうだったのか!

つまり我が娘・佐倉満咲さんとクラスメートの鮎原光太郎クンとの関係性は、「男女だけどただの友だち」であるというのもさることながら、むしろいわば【男女だけど百合カップルと解釈すれば、比較的スッキリ腑に落ちるようなものに近かったようです。

うぅ~む、「男女だけど百合カップル」。

……なんかイイなぁ、やっぱり(*^^*)ノ

既存の「男女」とか「異性愛」とかいった観念を基準にすれば、まったく意味がわからない(^o^;)ところがステキです。

そんなわけなので、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる現行社会の「男女ルール」を超越した我が娘の実践を、引き続き見守っていきたいところです。


§自分の子どもに、かように【「男女」のあたりまえ】【「異性愛」のあたりまえ】に囚われない姿勢を称揚するというのは、例えば「LGBTの人たちのことも理解してあげましょうね※」というような十字架を背負わせてしまうこと……であるわけでは決してなくて、むしろ、子ども自身が自分に降りかかる「シスジェンダー&ヘテロセクシュアルの呪い」を自分ではねのけるスキルを身につけ、以て自分自身のありのままのセクシュアリティを自己肯定的に探求し、自己と他者の尊厳を護持しながら、豊かな性と生を享受していける力を培うことであるはずだと考えます。
※そもそも「普通である多数派」が「特別にかわいそうな少数者であるLGBTを理解してあげる」……のではなく、多様で混沌としたひとりひとりのセクシュアリティを各自が自身と向き合って探究しながら生きていくということは、誰もが当事者である「みんなの問題」です。


むろん、本人たちがコノ現状に納得して維持したいと思っていても、周囲からはどうしても女子と男子としてみなされます

それゆえに、この状態を良好に継続していくための困難も予測に難くありません。

特に光太郎クンの気持ちに将来においては変化が生じて、「なぁ真琴、俺と付き合わない?」事案が発生しないとも限りません。
『時をかける少女』2006年アニメ版の主人公・紺野真琴がクラスメートの間宮千昭から期せずしてこのように告げられて動揺する

満咲はずっと友だちのままでいられると信じ、終わっていくものなどないと思いたいようですが……。

あるいは、これならまだ本人たちどうしだけのモンダイですが、もっと「これはまた厄介な~」な事象として「ねぇ久美子って塚本と付き合ってんの?」事案が起こる可能性も多々あります。
『響け!ユーフォニアム』のアニメ第8話で主人公・黄前久美子が、その幼馴染・塚本秀一に恋心を抱いてしまったクラスメート・加藤葉月と三角関係になってしまいかけた際の発端として、葉月からこのように尋ねられる(ただこの作品はこのあと予想の斜め上を行く展開で、本記事の趣旨と照らしても非常に高く評価したい描写を重ねてくれるのですが)

まさか《佐倉満咲さんの高校生活@小説版のようなクリティカルな波乱まではないとは思いますが、それでもリアル佐倉満咲さんにも相応のピンチが訪れないとは言い切れません。

いゃはや、マジでなかなか厄介です。

思えば、なぜ、このように単に波長が合い相性が良く互いにひかれあう間柄であるだけなのに、そこに「男女」という軸線が入り込むことで、安定した関係を築くことが困難になるのでしょうか?


一般に、男女二元的な性別観と異性愛主義に沿って、異性間なら恋愛、同性間なら友情という単純にすぎる割り切りは、この世界に広く流布しています。

「恋愛」として社会的に認定されるのが「男女」の特定の関係性のみに限定されるのも面倒なことですが、「男女」の特定の関係性が「恋愛」以外のものとしては認定してもらえないというのも、なかなか困ったことなのは上述のとおりです。
しかし実際には、「恋愛」の相手が「異性」だとは限らないし、逆に「異性」との親密な関係性がすべて「恋愛」とも限らない――。

そもそも「恋愛」とは何者で、「友情」とは何と定義されるのでしょう?
その前に、両者に違いはあるのでしょうか!?

このように、べつに恋愛が異性間のものとは限らなくて同性どうしでの恋愛もある…というあたりから思考を進めると、はてさて何がどうなってたら「恋愛」で、それは「友情」とは何か本質的に違うのか!? …という疑問にも行き着きます。

ものすごく好きで、いっしょにいたくて(身体的に接触したい場合もあったり…)、いつも相手のことが頭から離れなくて……というようなときに、それを「恋愛」だと認識するのも、結局は文化的に構成された解釈コードに照らしあわせて判断しているに過ぎません。

で、本当はそうした親密欲求は相手の「性別」にかかわらず起きうるものなのに、相手が「異性」か「同性」かで事実の認識のされ具合が変わるほど、人間関係のあり方が「男女」で区分されて異なるものになっているのは、ひとえに社会の環境のせいです。

そのような現状では、たとえ同性愛者であっても、そういった異性愛主義的な恋愛の解釈コードを一周回した上で援用して、自身の「恋愛」を解釈している可能性もありえます。
そして、そうしたなかで「恋愛」と「友情」は厳然と仕分けされ、「男女だけどただの友情」という関係性の在り方の可能性もまた、不可視化のうちに排除されてしまっているのでしょう。

大いなる損失だと言えます。

もうそろそろ「男女が1対1で《付き合う》」=「恋愛」で、それこそがあらゆる人間関係に優越する至高の関係性だ………みたいな考え方の呪縛から抜け出してもっとフレキシブルに多層的で多面的なネットワーク型の人間関係を育めるようにしたほうが、みんな豊かに幸せにリアルを充実させられるのではありませんか?

対人関係のルール、もしくは人と人の間柄を捕捉するための解釈コードが、「男女」という概念を通じて厳然と仕切られている現状は、あまりにも窮屈です。

「恋愛」とはこういうものであり、それに当てはまらない親密欲求は全部「友情」…みたいな固定的な切り分けを見直せば、誰もがもっと今より豊かな人間関係の可能性を手にすることができるはずなのです。


◎余談ながら、文化祭をワタシが見に行った際、クラスの仕事で受付カウンターの当番をちょうどしていた満咲と少し言葉を交わしていたところを目撃した鮎原光太郎クンが、数日後にそのことをもとに満咲へ「キレイなお母さんだねぇ」と言ったとか言わないとか……(^^ゞ
過日に満咲がオモシロイとオススメしてくれたとあるWebマンガこういうシーン(くろせ『ももくり』 comico.jp)があったのですが、コレって私たちとしてはわざわざマンガで読むまでもなく、リアルに再現してしまった形ですネ

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※画像はcomicoよりキャプチャ

佐倉満咲さんの高校生活@小説版》でももちろん、この「友だちが家に来てキレイなお母さんだねという社交辞令に対しリアクションに一瞬つまる」ようなことはありえる話として初出執筆時から取り入れました(→第1巻)が、リアルでも着々と同一展開を回収中ということで^^;


  

  

タイトル中の「2015」は、1998年にweb上で公開し、その後『性同一性障害はオモシロイ』(1999 現代書館)にも採録されている「男女間の友情は成り立つか?」を受けたものです(今の基準で読み返すといろいろ穴が多すぎると思える文章ですが;)