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スマイルプリキュア最終決戦編に見た居場所の社会学 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

プリキュアシリーズ2012年度作品『スマイルプリキュア』も最終回を迎えました。
前記事などもご覧ください/こちらは→東映公式サイト

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 ※画像は放送画面より(以下当記事中同じ)

最終回を含めて、1月放映の4話(45~48話)にわたる最終決戦編全般では、少し「まとめにかかっている」感がなきにしもあらずだったものの、個人の自立を前提とした上で、仲間とつながることで希望を失わずに進んでいけるんだというメッセージが明確になったのは良かったと思われます。

1年を通じてふり返ると、やはり良い作品だったと言えるでしょう。

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細部にはいろいろツッコミどころや注文事項が見つかりますし、なかなかいろいろな制約の中で完璧というわけにはいかないのも遺憾ではありますが、人々に生きる道筋を示して勇気と希望をもたらし、エンターテイメントとして他のバトルものと遜色ない迫力のアクションに、笑いや涙、さらには萌えにまでソツがなかった『スマイルプリキュア』は、いわば今般、すべてのヒーローものを超えたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 →その他、最終回当日のツイッターでのツイートなどツイログ

最終決戦編が始まるまでは、敵バッドエンド王国の皇帝の名前がピエーロ→つまり「ピエロ・道化師」、あるいは上級幹部も「ジョーカー」と、これらはよく考えたら本来は人を笑かす役目の人であり、それが「スマイル」プリキュアの敵のネーミングとして用いられているのって、やはり何かどんでん返しがあるのでは? ……などと深読みしていたワタシですが、蓋を開けてみると、ジョーカーはストレートにピエーロの下僕だったようですし、ピエーロも人間が持つ負の感情が実体化した「怨念」の象徴であるとされ、それゆえに絶望→諦め→怠惰を目論む存在なのだと説明されていました。

敵が怨念に裏打ちされた「絶望」の化身だとすると、必然的に明示的な和解・共存も難しかった――前2シリーズはラスボスとも何らかの和解・救済で決着している――ようで、ラストバトルでも「絶望を乗り越える」というような形容が用いられていました。
なにせ「絶望」は、一般に、いわゆるパンドラの箱からいろんな厄災が飛び出してしまった際も、こいつだけは出てくるまえにギリギリなんとか再び蓋をできて、やれやれ不幸中の幸いだったというくらいの、そういう出てきてしまったら非常に厄介なシロモノです。
そんなわけで皇帝ピエーロにも最後はプリキュアのパワーによってお引き取り願うこととなるのですが、それでも圧倒的な力で殲滅するというふうではなしに、絵的には、最上級の浄化技の光の中で、抱きしめられることによって消えていく…、という描写だったのは、さすがケアとキュア】の物語プリキュアです。

一方、敵が「絶望」を煽ってくるとすると、プリキュア側に求められる作劇上の使命といえば「希望」を示すことでしょう。
「ハッピー」につながる「希望」、そして「ハッピー」そのものでもある「希望」…。

最終決戦編の中では、それが次のような主人公の台詞に集約されて再確認されます。
「希望、それは友だち」

……ぃや、ここだけ聞くと、じゃぁ友だちのいない子はどーすんだよといったツッコミもできてしまいますし、そういうミスリードを防ぐ意味でも、私もまた、もう少し慎重に表現を工夫して欲しかったなぁと思うポイントではあります。

しかし、メイン視聴者層として想定されている子どもの生活実感に則したわかりやすい表現を選んだ結果だと、ここはその点を許容するならば、言っている内容はまさにそのとおりです。

人はどうなったら絶望してしまうのか――。

端的に言って、それは、誰からも受け入れられない、誰からも必要とされない、そうして社会に「居場所」がない…。
思えば、あの秋葉原の凶行も、きっかけはネットの掲示板でさえ相手にされなかったことだとも言われています。
そうやって誰ともつながれない、あまつさえ否定的な扱いをされる、マイナス評価をされる、徹底的に拒絶される。
キモいとか、死ねとか、ホモとかオカマとか、化け物とか、あんたなんて生むんじゃなかったとまで言われて排除される。
そうやって、自分の存在のすべてを叩きのめされる……。

ここに社会的生き物だとされる人の絶望の核心があります。

私自身、十数年前は男性としての生活が行き詰まり、そういう状況に陥りかけていました。
(そういう意味では、私の場合、性別を変えるという方策は、そんな絶望の淵からなんとか這い上がるための手段として機能していたと言えます。たとえ、その手段そのものに絶望的なほどの困難が付随していたとしても…)

では、希望とは?
すなわち、その逆をやればいいということです。

誰かに必要とされる。
「あなたはありのまま、ここにいていいんだよ」と受け入れてもらえる。

しこうして、自分の「居場所」がある。

そして、そうである限りは、人は絶望しないでいられるのではないでしょうか。

これらが、社会の中で、お互いに実践しあえるなら、「みんな笑顔で、ウルトラハッピー」は夢物語ではない…。

そのことを、1年間かけて、じっくりと視聴者に提示したのが、他ならぬ『スマイルプリキュア』だったわけです。

同時に、主人公たちが挫けて絶望的になりかけたとき仲間の存在が助けとなって立ち直れたエピソード群を受けて、主人公たちにこんなふうにも語らせました。

自分が受けたこの優しさを、愛を、温もりを、次は自分が誰かに伝えていく――。

それは、そのまま視聴者の言葉ともなります。

特定のマイノリティを包摂しようともせず、差別し、ディスパワーし、society の外部へと排除しようとするのは、結局は絶望と怨念が渦巻く生きづらい世界を構築するだけです。

多少は面倒でも「誰も犠牲にしない」社会のしくみをつくっていく。
そこから「あなたはそのままでいい」「あなたはここにいていい」が伝え合える世界が始まるはずです。

それを今この場所からはじめることこそ、希望の花を咲かせることに連なっていると信じたいです。


   


……というわけで、「希望、それは友だち」を、若干オトナ向けに意訳したなら、【希望、それは「居場所」】となったのですが、さて、「居場所」なんていう、そこはかとなく社会学っぽいワードが出たところで、そのあたりを、この『スマイルプリキュア』最終決戦編に即して、もう少し掘り下げてみましょう。

「居場所」は、どうやったら創出できるのか?

花咲くいろは』のラスト付近でも孝一クンが緒花に「自分の居場所ははじめからどこかに用意されているのではなく自分で見つけて作っていくもの」という趣旨を語る場面がありましたが、自分の居場所が見え難いとき、それを見つけるコツなんてものは、はたして存在するのでしょうか?

そのヒントが『スマイルプリキュア』第45話「終わりの始まり!プリキュア対三幹部!!」にありました。

サブタイトルにあるようにこの回は最終決戦編の初回であり、また物語進行上のノルマとしては、敵陣営の前線指揮官とも言える三大幹部との決着が設定されていました。

『スマイルプリキュア』における敵幹部は、登場順にウルフルン、アカオーニ、マジョリーナの3名で、童話・お伽話でしばしば悪役として表象される狼、鬼、魔女が、それぞれモデルとなっています。

そして彼らは、そのことから多くの視聴者がかなり早い段階で推測したとおり、その元々の正体は、童話・お伽話モチーフとした異世界であるメルヘンランドの妖精の仲間だったのです。

ただこの3名は、童話・お伽話の中での悪役としての扱い――まさしく上述したような自己の存在を否定される体験――に不満をつのらせ、そこへ現れたジョーカーの甘言によって闇堕ちしてしまった――ということもまた、この第45話で明かされます。

そうして三幹部は最後の戦いにあたり、そうした事情も明かしながら、これまでの怨嗟のすべてをプリキュアたちにぶつけようとします。

しかし、そんな三幹部たちの身の上に、自らの学校生活などでの体験を重ねあわせて共感を抱いてしまったプリキュアたちは、もはや戦うことができなくなってしまいます。

このあたりは、やはり【ケアとキュア】の論理で戦うプリキュアならではです。
決して敵を絶対悪と措定して殲滅するような一方的な正義には則りません。

そしてメイン主人公の星空みゆきが変身するキュアハッピーが選んだ言葉は、絵本好きな少女という設定が生かされた、次のようなものでした。

「わたしは絵本の中のみんなが大好き
「絵本がたくさんの夢や希望を与えてくれるのは、みんながいてくれるおかげ…」

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これを含むやり取りを経て、三幹部たちの心は救済され、闇のオーラが抜けることで元のメルヘンランドの妖精の姿に戻るのですが、このキュアハッピー星空みゆきのロジックは非常に重要です。

そう。
絵本などに描かれる童話・お伽話をはじめ、あらゆる物語の悪役は、たしかにその物語世界の中では悪役かもしれませんが、それを読み解く読者の立場からすれば、そんな悪役もまた、ストーリーの進行に欠かせない存在です。
えてして愛すべきキャラクターだったりすることもしばしばでしょう。

さらに、絵本好きの少女が主人公の『スマイルプリキュア』というテレビアニメのなかで展開されるそのロジックを、さらに一歩外の視点に移せば、そんなアニメ作品を見ている私たち視聴者自身がいます。

スマイルプリキュアを1年間視聴した私たちにとって、ウルフルン、アカオーニ、マジョリーナの3幹部は、相当に魅力的な悪役でした。
ウルフルンに至っては、発売されたキャラクターグッズが大きな反響を呼んだりさえしています。

あまつさえ、ストーリー進行上の役どころは大変重要で、もしも彼らが攻めて来なかったら、主人公らは悩みを克服するヒントが掴めず、そのままバッドエンドになってしまっていたような回(9話や10話が顕著)も、じつはたくさんありました。

彼らの存在なしには『スマイルプリキュア』は成り立たなかったのです。

つまるところ、評価の枠組みを変える、世界設定の視点を移す、そうすることで、誰かの存在の意味付けも変わるということになります。

一見すると、いないほうがよいような害悪、必要とされないような無価値……。
しかし、見方さえ変えれば、それらが物語に必要な、なくてはならない存在であり、欠くことのできない重大な役割を担っていることも見えてくるというわけです。

思えば『スマイルプリキュア』では、「メルヘンランド」設定による絵本や童話・お伽話との親和性以上に、しばしば「劇中劇」の存在が取り上げられていました。

特にキュアピースに変身する黄瀬やよいが憧れる(作中での)テレビのスーパーヒーロー『太陽マン』や『鉄人戦士ロボッター』、公式名称不明ながらやよいの目覚まし時計や夏祭りの屋台の景品になっていたヒーロー、そして彼女自身が構想し作品化し漫画雑誌に投稿(なんと佳作に入選)する『ミラクル☆ピース』……。
そこに出てくるヒーローは、泣き虫で自分に自身が持てないやよいに、どんな困難にも立ち向かう勇気を与えてくれる存在なんだと、作中でのやよい自身によって語られています。

ところが、番組を見ている子どもたちにとっては、そもそもその黄瀬やよいがスマイルプリキュアのキュアピースなのであって、困難に立ち向かう勇気をくれるヒーローその人に他なりません。

殊に、仲間とのプリキュアとしての体験を通じて、一歩一歩夢に向かって、プリキュアとして、戦士として、そしてひとりの人間として成長していく様子は、メイン5人の中でもキュアピース黄瀬やよいにおいて、もっとも顕著に現れていたとも言えましょう。

やよいはオタク属性やキャラクターデザイン上の(「あざとい」とまで言われる)可愛らしさにおいて「大きいお友達」的にも食いつきやすい要素が多大なキャラクターでしたが、そんな彼女がカッコイイ伝説の戦士になり、さらに番組の進行につれていっそう凛々しく変わっていく様は、本来の視聴者層とされる未就学児が見ても、非常にプリキュア的というか、ヒーローとして典型的にドラマチックだったと言えます。

その黄瀬やよいが、作中では他のヒーローに憧れているという、物語世界のなんという重層構造!

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『スマイルプリキュア』では、他にも映画村で時代劇の撮影に参加することになった33話、シンデレラの世界に入り込む39話(劇場版でも同様にいろいろな絵本の世界に入り込むらしいですが……未見です)など、劇中劇の存在がクローズアップされることがよくありましたし、修学旅行で京都へ出かける13話が放映された4月29日は、放送枠が同じチャンネルのプリキュアのひとつ前の時間帯である『仮面ライダー フォーゼ』も同様に京都への修学旅行編で、一行がJR京都駅前の広場に整列しているシーンなどは実写かアニメかのちがいを除くとまさに「これ30分前に見たワ」という具合にシンクロし、(まぁこれは偶然の結果なのでしょうが)「別の物語枠の存在」がそこはかとなくほのめかされたりもしていました。

これらはやはり、世界の枠組みの次元を変更して物事を捉えることの重要性が示唆されていると解するべきではないでしょうか。

そうすることで、ひとりひとりの存在への意味付けも変わり、以て、誰もが「居場所」を獲得できる社会につながることになる――。

例えばセクシュアルマイノリティの生きづらさというのも、本人自身や周囲の人々が、男女二元的な性別観異性愛中心主義に囚われてるほど厳しいものになります。
しかし、そうした世界設定を相対化してみる、物語の枠組みの次元を変えてみる。
すなわち「男女」や「異性愛」にこだわらないといけない規範という「物語」の外側に身を置いてみる。

――それによって解決の糸口が掴め、本人の「居場所」が安定的に創出できる可能性は大きく向上するでしょう。

このように、世界の枠組みを重層化して捉えることは、「居場所」論としても、そして社会学そのものとしても、非常に重要な、心がけていくべきことなのではないでしょうか。


  
 ※そしてそもそも『居場所の社会学』といえばもちろん阿部真大さん


◎この「劇中劇が持つ意味」に着目すると、『スマイルプリキュア』では、上述のロボット回(35話)やシンデレラ回(39話)、映画村回(33話)など、一見するとギャグ回・ネタ回・「公式が病気」回ほど、じつは重要な伏線回だったと言えるのかも。
また、劇中劇回ではなかったものの、38話「コドモニナ~ル」も「公式が病気」なネタ回度が高かったです。
しかしコレは、前述のキュアハッピーがウルフルンたちを救済すべく言葉をかけた際、その結びとして「友だちになろう、いっしょに遊ぼう」というふうに言う――その2週後のみゆきのセリフに「希望、それは友だち」が来ることを考慮すると、これは『スマイルプリキュア』における最上級の救済の言葉――のですが、38話では実際にみんな入り乱れて(子どもになった状態で)いっしょに遊んでいたことをふまえると、じつはやはりクライマックスへ向けての壮大な仕込みだったのではと思えます。


◎「マジョリーナの発明品」によるトラブルを織り込んだ回は「コドモニナ~ル」以外にもしばしばありましたが、その内容が、身体と中身が入れ替わる(8話)とか、透明人間になってしまう(20話)とか、伊豆下田に住む女子中学生4人組が主人公の深夜アニメ『夏色キセキ』において神社にある謎の大きな石「御石様」が起こす超常現象と微妙にカブっているのは、さすがに「別の物語枠の存在」をアピールしているのではなくて単なる偶然だったことでしょう。
……と思ってたら、最終回の終盤、上述したやよいちゃんの描いたマンガ『ミラクル☆ピース』が佳作に入選したというカットで、いっしょに佳作としてとなりに挙げられているのが【凛音『すてきなキセキ』】なのって………!?
真相は凛音の「音」の字がシリーズ前作『スイートプリキュア』、さらにそのとなりの『シーラカンス』を描いた岡部大樹の「大樹」が前々作『ハートキャッチプリキュア』へのオマージュなんでしょうが…(^o^;)

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◎敵陣営が怨念に基づく絶望の権化だというのは、じつのところ絶望は「自分が」するものであり、絶望との戦いは自分との戦いであると考えると、皇帝ピエーロ等々もあくまでもその象徴にすぎないと言えます。
(『スマイルプリキュア』シリーズ全体を俯瞰すれば、主人公たち5人の自分との戦いは、40~44話で1人ずつ決着がついているので、その意味では、最終決戦編にビミョーに消化試合感があったのはある種の必然なのかもしれません)
YUIが『My Generation』(作詞:YUI)で自分を支配するものは唯一「描いた夢を信じきれない弱さ」で「描いた夢を強く信じきれたときから変」われると歌い、尾崎豊が男性であるがゆえに陥ったとおぼしき「これからは何が俺をしばりつけるだろう」云々と歌われる『卒業』(作詞:尾崎豊)に代表されるホモソーシャルの掟の隘路を、女性という立場ならではの軽やかさで跳躍してみせたように、今の時代、「自分との戦い」は女の子を主人公にしてこそ、爽快に描けるのかもしれませんね。
そして、やはり最終回の終盤で、主人公みゆきが1年を振り返って述懐する中にある「幸せは探すものじゃなくて、感じるものだったんだね」という言葉。
これは奥華子の『足跡』(作詞:奥華子)の歌詞、「幸せはなるものじゃなくて、きっと心で気づいていくものだから」にもつながります。
女の子たちが【ケアとキュアの論理】で戦って守る「日常」。
その中に
ある「幸せ」。
そうしたものの価値がホモソーシャルの男性特権領域の規準で周縁化されてきた歴史を、覆していく力が、プリキュアシリーズにはあると言えば、さて、かいかぶりすぎなのでしょうか?

   


◎マイノリティの自己肯定と「居場所」の獲得、周囲による受容というテーマが織り込まれるアニメといえば、超能力者の苦悩をモチーフにしたものが今までにもありました。
テレパシー少女 蘭』や『絶対可憐チルドレン』については、オンエアされた当時にこのプログでも取り上げています。
 ※PC版のサイドバーで記事絞り込みできます
そして今般、新たにラインナップに加わったのが、2013年1月から放映されている『琴浦さん』です。
他人の心が読める超能力ゆえに苦難の半生を歩んできた少女・琴浦春香が、ありのままの自分を受け入れてくれる仲間と出会い、閉ざしていた心を少しずつ開いていく様子が、学園ラブコメのフォーマットに仮託して描かれています。
(ちなみにそういう難しい役柄を好演する声優は、なんとキュアピース黄瀬やよいと同じく金元寿子さん。……日本のアニメ界への侵略計画は順調に進んでいるじゃなイカw)

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現在1~3話が済んでいますが、非常に丁寧で上質な物語作りとなっています。
私も「超能力者の苦悩が描かれる作品はマイノリティとして外せない」と思ってチェックしていたものの、当初は「ラブコメ」というふれこみゆえに大して期待はしていなかったのですが、第1話を見て、その衝撃の構成に、視聴レベルは最高の[レベル7]にすぐさま格上げ、視聴を遂行するためのあらゆる措置には、予算の聖域化を含めて、制限なしとなっています。
まさに THE UNLIMITED !
ご都合が許す方はゼヒ、視聴してみてはいかがでしょうか?

   
 ※毎回「いい最終回だった!」なアニメ、
  エンディングテーマ「希望の花」もネ申曲

……と思ったら、じつはコレ『絶対可憐チルドレン』の新作スピンオフ作品『THE UNLIMITED 兵部京介』と、関西ではオンエア曜日・時刻がまるカブりなんですよねー(T_T)
ぐぬぬー。
エスパーどうしで(視聴率の)消耗戦をさせられるなんて、ノーマルどもの思うツボぢゃないか…。
あっ、そうかコレは「反エスパー団体・普通の人々」の陰謀かっ!w
 ↑
録画やネット配信を駆使して両方視聴すると、裏番組で起きている出来事とのシンクロニシティを楽しめて、なかなか奥が深いです。
例えば『THE UNLIMITED 兵部京介』の2話のはじめのほう、カタストロフィ号の船内で真木さんが「パンドラは超能力のせいで親に捨てられた子どもを保護している」とヒノミヤに説明しているまさにそのころ、裏番組『琴浦さん』第1話では琴浦春香が超能力のせいで親に捨てられるところだったとか……。
おい兵部京介、のんきに裏番組に出演してないで春香ちゃんを助けに来いよ!w

   

とはいえ、こういうアニメ等の中で超能力者を一般人が罵倒する文言としては「化け物」も共通しちゃうわけですねぇ…。
むろんリアルの世界ではLGBTをはじめいろんなマイノリティがそのように呼ばれがちなわけですが。

 

 


スマイルプリキュアのハッピーエンドが見えてきた [メディア・家族・教育等とジェンダー]

プリキュアシリーズの放送スケジュールにおいては例年そうであるように、1月に入って『スマイルプリキュア』もクライマックス、いよいよ最終決戦態勢になりました。

番組として、どのようなバッドエンドを回避する様を描き、いかなるハッピーエンドを用意しているのかは、最終回までの残り4話を見守るしかありません。

ただ、物語中で敵陣営を「バッドエンド王国」と名付け、未来を「ハッピーエンド」に導く伝説の戦士がプリキュアだと位置づけたのが、今作の基本設定です。
その『スマイルプリキュア』が、メイン視聴者として想定されている子どもたちに対するメッセージとして、「ハッピーエンド」の真髄たるものに何を提示したかという、作品の根幹となるテーマについては、いかばかりなものだったのでしょうか。

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→東映アニメーション公式サイト『スマイルプリキュア』
  (引用画像はこの公式サイトよりキャプチャ)


5月に私が「スマイルプリキュアのどこがおもしろいのか説明できない」の記事を書き上げた時点では、そのあたりが今ひとつ茫漠としていました。

見ていて楽しく、すがすがしい気分になれる、面白いアニメであることは強く体感されますし、そしてそれだけでじゅうぶん作品として価値はあるとはいえ、その素晴らしさを論理的に説明するとなると、そのための取っ掛かりがなかなか物語中に見出し難かったのが、当時の状況でした。

しかし、それから半年以上が経過し、物語が積み重ねられた中で、いちおうの解答は得られてきたのではないかと思われます。
コメント欄やツイッターで頂戴したご意見にも、特にQuarrelBlueさんのものには、非常にインスパイアされました。あらためてありがとうございました。


まず、ひとつ指摘できるのは、『スマイルプリキュア』では、一般的に言われる「ハッピーエンド」を、それは真にハッピーな結末ではないと暗に述べている点です。

敵陣営が「バッドエンド王国」なのに対して、プリキュア側は「メルヘンランド」であって、単純に「ハッピーエンド王国」とはされていないという、少しひねったネーミングも、その意味ではミソだったのかもしれません。

ちなみに「メルヘンランド」は、そのように名指されるだけあって、童話やお伽話などをモチーフとした異世界として描かれています。

そして、それを受けて素直に連想を働かせれば、そうした「童話やお伽話」のラスト――典型的なもので言えば「こうして白雪姫は王子様と結婚して幸せに暮らしました」をこそ「ハッピーエンド」なのだと言っているのではないかと解釈することも容易いです。

ところが、どうもそうではなかったようなのです。

何がハッピーエンドか……については、たしかに未だ明示的には示されていません。
ただ、敵陣営「バッドエンド王国」側からは、彼らが望む究極のバッドエンド像としての「怠け玉の中の世界」が、9月放映の第31~32話にて開陳されました。

それは、敵上級幹部ジョーカーの言によると「苦しいことはすべて忘れて、何も考えずずーっと食べて遊んで居られ」る世界なのだとのこと。

実際その「怠け玉」に閉じ込められてしまった人は、面倒なことは何も考えずに楽しいことだけを追求するだけに堕落してしまいます。
それに呼応するかのように、その世界には、何でも食べ放題で乗り物にも乗り放題の遊園地まで設えられており、あまつさえ遊びたいだけ遊んで好きなだけ寝ててもイイ、学校もない、宿題もない、嫌なことは何ひとつない――。

23話の暫定クライマックスでも一旦復活した敵の皇帝ピエーロが「すべてを怠惰な世界に…」と言っており、そのときはイマイチ意味がよく掴めずにスルーした視聴者も少なくはなかったはずなのですが、つまりは人が自ら考えて自分の行く道を決め前へ進む努力を放棄した世界こそが、究極のバッドエンドなのだということだったわけです。

いゃ、でも、しんどいことはなく楽しく過ごせる世界なら、ソレって「ハッピーエンド」なんじゃね?

……たしかにそういうツッコミも可能です。

そして「ラクになること」を一概に否定するのもまた、ある種の隘路に陥る危険があります。

しかし、事前に誰かに勝手に決められた、お仕着せの幸せの形に嵌ることが、本当にラクなんでしょうか?
なんだか知らないうちに、ソレこそが幸せなんだよと設定されていて、まわりのみんなもその言説を信じこんでしまっている、それに自分も合わせることが、真にハッピーなんでしょうか?
ソコからはみ出すことは容易ではなく、罪悪感さえ抱かされてしまう……。

それに抗わないことによるラクさと、そういう「お約束」を相対化する視点に目覚め、そこから逃れる道筋を見つけることで得られるラクは、似て非なるものではないでしょうか。

そしてそういう、決められた幸せの形を大した努力もなしに手にし深く考えずに受け入れたラストの典型例が、何を隠そう「こうして白雪姫は王子様と結婚して幸せに暮らしました」なのではありませんか。

『スマイルプリキュア』は、それを敢然と否定しにかかった――。
いわばディズニーアニメ的な安易なエンディングに、真っ向から喧嘩を吹っ掛けたと言えるかもしれません。

なるほど。

つらい、苦しい、それは自分で選んだりしたから、自分の生きる道を貫いたから。
すべて支配されて、決められたとおりの行動だけしていれば、何も考えなくていい、めんどくさいことはしなくていい、失敗も後悔も悲しいことは何も起こらない、とってもラク。

……そう詰め寄る敵陣営・超管理社会「ラビリンス」の上級幹部ノーザにキュアピーチたちが反駁しながら戦いを挑んでいた3年前が思い起こされます。
『スマイルプリキュア』は、『フレッシュプリキュア』のテーマを発展的に継承し包含しているようです。

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 この怠惰な安楽は本当の幸せ?[画像は放送画面より(以下当記事中同じ)]


それでは、その点も踏まえて見たときに、そんな『スマイルプリキュア』、本当のハッピーエンドの要件としては、何を挙げているのでしょうか。

凡庸な表現にはなってしまいますが、それは端的に言えば「結果よりも過程が大事」ということ。

結末は必ずしも当初の狙いのとおりとは限らないかもしれない。
がんばった果てに何が待っているかなんて、先のことはわからない。
それでもあきらめずに前へ進んでいく、そのプロセスの中にこそハッピーの要素がある――。

まとめるとだいたいそんな月並みな言葉になってしまうのですが、それゆえにか、『スマイルプリキュア』作中では、このことを手っ取り早い言語表現は副次的に用いるのみで描ききっているのはスゴイと言うべきです。

第10話「熱血!あかねのお好み焼き人生!!」や15話「ドタバタ!みゆきの母の日大作戦!!」は、主人公らが製作したモノが見た目は不細工でも、そこに込められた相手への気持ちが何より大切なのだというお話でした。
形になって表出した結果よりも、それが作られる中途に何があったかが大事なことだと。

第16話「れいかの悩み!どうして勉強するの!?」も示唆的でした。
スマイルプリキュアの5人の中では知性担当・青プリキュアのキュアビューティに変身する最も勉強も得意な青木れいか嬢が「勉強する理由・目的」について悩むエピソードです。
そして紆余曲折を経て、勉強を続けていった先にあるものよりも、いろいろな事柄を学び続けることで、少しずつ向上していくことが自分の【道】だと結論づけるのです。
そこで引用されるのは、日曜朝の幼児向けアニメとされる番組としてはまさかの高村光太郎「道程」の詩の冒頭。
すなわち「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」!
そのとおり。
初めから道があるわけではないのです。
自分が進んだ足跡が道となるのであり、その軌跡こそが、何より自分だけの宝物に裏打ちされたハッピーエンド。
他人からの評価なんて気にしちゃダメ。

ちなみに青木れいか嬢はこの後も【道】が個人テーマとしてシリアスにもギャグ描写にも継続していきます。
そして第43話「れいかの道!私、留学します!!」ではその集大成が描かれるのですが、そこでもイギリス留学の選抜メンバーに選ばれたという名誉ある、傍目には素晴らしくも幸運な立場よりも、自分の気持ちに素直に従った選択を優先すべきという結論に至ります。他者から見たシアワセの形を受諾するよりも、本当に自分の今したいことを貫くことがハッピーへの道というわけです。

他にも第36話「熱血!?あかねの初恋人生!!」は、(下手に異性愛主義的ロマンチックラブイデオロギーに与して陳腐なロマンスを挿話した挙句、女性主人公の主体性が損なわれてしまい、本来の女児向けの物語としても評価できないストーリーになってしまわないように配慮されているとワタシが勝手に評価しているプリキュアシリーズにあっては珍しく、しかもけっこう爽やかな)恋愛回だったのですが、その展開に絡んで、敵幹部が「恋して付き合ったって最後は別れてオシマイ。だからそんなのは無意味で無駄」というふうに主人公たちへ言い放つくだりがあります。
いゃ、これは正しいです。
特にプリキュアたちはまだ中学生。
中学生カップルなんて、むしろそうこうしているうちに別れるほうが自然です。
中学生のときから交際してやがて結婚に至ったなんてケースのほうが希少でしょう。
しかし、主人公・星空みゆき変身のキュアハッピーは(別れてオシマイ自体は否定することなく)「でも、それが意味がないなんて、そんなの寂しい」。
そしてこの回スポットが当たっている日野あかね変身のキュアサニーも「離ればなれになったとしても一緒に過ごした時間は消えへん!」」と反論するのです。
そう、こちらも真理です。
いくつも恋して、それが実らなかったり実ったり。
実ってもやがてすれ違って別れていったり…。
そうやっていろいろな経験を積み上げていく過程もまた、いつか人生の糧になります。
当然ながら(繰り返すと)「結婚」はゴールではなく、必ずしも「ハッピーエンド」なわけでもないのです。
私自身も若いころを顧みると、もちろん「両想い」に至った恋愛経験自体が数少ないとはいえ、どちらかと言えば片想いに終わった恋のほうが印象深く記憶されているし、ついに報われなかったにもかかわらず、あの日あのときあの子のことをとてつもなく好きだったという自分にとっての事実が、齢を重ねた現在もなお自分の中の重要な部分を占めているという実感はあります。
やはりリア充恋愛のみが価値を持つわけではないのですね。
表面的な結果だけで物事を判断してはいけません。
(加えてここは「恋愛」だけが他のいろいろな事象に比べて特別に尊いと主張しているわけでもありません。Aセクシュアルの人を否定する意図はありません。また言うまでもなく「恋愛」は異性間でするものだとは限りませんよ)

そうしてこの「結果よりも過程が大事」が最もわかりやすく描かれたのが第18話「なおの想い!バトンがつなぐみんなの絆!!」でした。
いわゆる体育祭回です。
ホームルームでクラス対抗リレーの選手を決める際、俊足の緑川なお(筋を通して直球勝負が信条のキュアマーチに変身)はクラスメートから出場を嘱望されるものの当初は固辞します。
しかし隣のクラスがリレーの選手を陸上部員で揃えてきているという情報にクラスメートたちが「じゃあ【どうせ】がんばったって無駄」「負けるに決まっている」のように声を上げることに心が刺激され、彼女は一転リレー選手を引き受けます。
一方、同様にリレー選手として指名された黄瀬やよいあざとい可愛さの黄色プリキュア・キュアピースに変身)は昔から駆けっこは苦手で運動会では常にビリという経歴の持ち主。
「だから【どうせ】練習したって自分は速く走るなんて無理」
そんなふうに言うやよいをなおたちは励まし練習に勤しむことになります。
この18話時点ではまだ視聴者には明示されていないのですが、上述の第31~32話での「怠け玉」の件をふまえると、この【どうせ】こそがまさしくバッドエンドへのキーワードだというのがよくわかります。
その後あきらめずに挑戦することが称揚される展開を経て、いよいよ体育祭のリレー本番となります。
第4走者としてバトンを受け取ったやよいは次々と後続の走者に抜かれるも、なんとかビリにはならずに踏ん張ります。
その奮闘にクラスメートたちも皆思わず声援を送ります。熱い展開です。
そしてバトンを受け取ったアンカーのなおは、前を走る他選手をゴボウ抜き。トップへと迫ります。
誰もが息を飲みます。
あと少し!
「なおちゃん!!」
思わず叫ぶやよいの声になおが最後の力でスパートをかけます。
速い。
確実に1位走者を追い抜くスピードです。
なるほど。
「今日のプリキュアは【どうせ】などと言わず、はじめからあきらめたりしないで、みんなで力を合わせてがんばってみる。そうすることで不可能も可能になる。勝ち目がないと思われた競技で勝利することもできるんだ――。そのことの大切さを描いて見せてくれたのでした」
プリキュア感想を毎週ブログに書いているブロガーの人たち(←ブログ全体でも月イチ前後の更新にしかなってないワタシから見ると、その労力に頭が下がります)は皆、この日の記事はこんなふうにまとめようと思ったことでしょう。
ところが……。
次の瞬間、予想を覆す事態が発生しました。
トップになりかけたそのとき、なおの足がもつれます。
まさかの転倒。
「えぇっ!?」
2012年6月3日 午前8時53分。
すべてのプリキュア視聴者が絶句しました。
無情にも倒れているなおの傍らを後続の走者が駆け抜けていきます。
結果はビリ。
最初からあきらめて何もしなかったときと、おそらくは同じ順位となってしまいました。
結局は……。
でも、それじゃぁすべては無駄だったのでしょうか?
いいえ、それはちがいました。
肩を落とし涙を流すなおのもとへ、みゆき、やよい、あかね、れいか、そしてクラスのみんなが次々と駆け寄ります。
「凄かったよ~っ」
「あきらめないでよかったー」
みんなを満たしていたのは、悔いのないように全力を尽くした満足感。
誰もが感涙しつつも、輝いた笑みを浮かべています。
「…私も、みんなと走れてよかった」
そうつぶやいたなおもまた笑顔になります。
これが、最初からあきらめて何もしなかったときには得ることができなかったものであるのは明らかです。
表面上の順位はビリという同じ結果であっても、その内実には雲泥の差があります。
したがって、形に表れる成果だけを尺度に「ハッピーエンド」か否かは語れない――。
そのことをかように鮮烈に描き出したこの『スマイルプリキュア』18話に、私は番組制作陣の本気を感じました。
なにしろ、あそこでなおを転倒させずに1位でゴールさせるという選択肢もあったはずです。それでもじゅうぶんに感動的なエピソードだったと思います。
にもかかわらず、半ば強引なくらいにそうした予定調和的な「ハッピーエンドの形」を避けた結末は、中途プロセスにおいて各人が何を得るのかにこそ意味があるという明確な主張だと思えたからです。
もちろん、勝利を目指して努力することは、みんなが一致協力するモチベーションにもなります。
YUIだって「勝ち負けだって本当は大事」と『fight』で歌ってます。
一概に結果としての勝ち負けを軽視はできないのも現実でしょう。
それでも、結果としての勝ち負けだけでは割り切れない価値もまた、現実の世の中にはたくさんある。
そこに光を当てていく作業もまた、誰かがやる意義があり、社会にとって必要なことなのではないでしょうか。

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 評価はビリでも悔いのない満足感…


一般に、結末が主人公の「死亡エンド」だったりする物語は、バッドエンドだと言われることになります。
しかし、よく考えてみましょう。

さだまさしの往年の名曲『主人公』にもあるように「自分の人生の主人公は自分」だとしたら、その物語のラストは絶対に「死亡エンド」なのです。

それを形式的にバッドエンドに分類していけば、世の中にハッピーエンドなど存在しなくなってしまいます。

肝心なのは「エンド」へ至る途上に何があったか。そのことに本人が主観的に思い入れを持っているか。
「ハッピー」か否かの分かれ目は、そもそもそこで判断するしかなかったのです。


思えば昨年の今頃、『スマイルプリキュア』の事前情報に触れ、バッドエンドとハッピーエンドをめぐる攻防だと知ったとき、私はいささか不安になったものです。

何がバッドエンドでどういうハッピーエンドがハッピーなのかについてキチンと掘り下げて描かれないのでは、単なる幸せテンプレの押し付けにしかならない多数派基準洗脳アニメにしかならないと思ったからです。

かといって、コレこそが究極のハッピーエンドだぁ! とばかりに、あんまりにも具体的な形を示されても、多数派基準のお仕着せであることに変わりありません。

しかし、見てきたように、そこで描かれたのはむしろ、未来における結果の形が「ハッピーエンド」か否かを左右するのではなく、そこへ向かって自分で考え自分の意志で仲間とともに歩んでいく日々そのものに内在する幸せでした。

決めるのは自分自身。

そうして『スマイルプリキュア』は、当初の予想を超える感動をもたらしてくれました。

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 そして少女は仲間とともに歩む未来のために凛々しく戦い続ける

『スマイルプリキュア』はもうすぐ最終回を迎えますが、視聴者自身の物語はこれからも続きます。
(そりゃまぁ新シリーズ『ドキドキ!プリキュア』も始まりますしw)

「白紙の未来を黒く塗りつぶす」ことそのものがバッドエンドであるなら、未確定の未来を自分で書き込むページがある限り、シアワセは終わらないと言えるのではないでしょうか。


   


(^^)