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プリキュアから憲法まで「ケアとキュアの論理」追加考察 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて前記事では【 正義と秩序の論理 】に対置される【 ケアとキュアの論理 】を視点ツールに据えて、アニメ『輪廻のラグランジェ』を考察してみました。

輪廻のラグランジェ公式サイト→ http://lag-rin.com/

あのようにあらためて整理してみると、この「正義と秩序/ケアとキュア」は、「科学/魔法」&「公/私」が、いわゆる「男の子アニメ」「女の子アニメ」を特徴づける要素として使いづらくなっている昨今、それらも踏まえた上で両者を分析する際の重要なポイントともなりえることが再確認されます。

例えば以前に述べた「女の子アニメと男の子アニメのちがい、敵が仲間になるとき編」なども、これは主人公らの行動原理が「正義と秩序」か「ケアとキュア」かの違いが反映している――と説明することで、より腑に落ちる話となります。

そして昨今の状況を見る限り、【 ケアとキュアの論理 】のほうに立脚した作品は、旧来の男の子アニメ・女の子アニメの垣根を越えて広がっており、とりわけ「女の子アニメ」を出自とするコンセプトを主とするものでは、積極的に描き込まれているとも言えるのではないでしょうか。


今一度『輪廻のラグランジェ』を振り返っても、1期2話でのまどかが、1話では上手にロボットを操縦し見事に敵を撃退した初戦とくらべて、明らかに本領を発揮できていない状況に陥ってしまうのは、田所司令から「地球の運命はキミにかかっている」みたいに言われたことが直接の原因ですが、これは単にプレッシャーをかけられたからとかではなく、本来は【 ケアとキュアの論理 】の体現である「ジャージ部魂」こそが彼女の真骨頂なのに、【 正義と秩序の論理 】を意識させられてしまったことによる戸惑いだと解釈すると、より深く理解ができるところです。

1期のラストが、いちおう形の上ではキレイにまとめられていたにもかかわらず、どこか後味の悪いものを禁じえなかったのも、あれはまどかやランやムギナミたちの【 ケアとキュアの論理 】が、満を持して地球へ現れたディセルマインらの艦隊の【 正義と秩序の論理 】前にねじ伏せられたからだったわけです。

そして、そのまま話が進んでいくのならもう観るのやめようとさえ思っていた2期が、鮮やかに【 ケアとキュアの論理 】の復活を描いたのが、あの2期2話の夜明けのジャージ部部室のシーンです。
壮大な宇宙規模での対立が、まどかによって「ランとムギナミを仲良くさせられれば解決!」と書き換えられたわけですから。
そして、その後は前記事で述べたとおりですね。

   

あるいは、その名もプリ「キュア」シリーズでは、主人公たちが変身する伝説の戦士の戦いが【 ケアとキュアの論理 】に則って戦う美少女ヒーローであることは、もはや必然なのですが、そのことが最もわかりやすく示されていたのが『Yes!プリキュア5』の第5話だったのではないでしょうか。

5人体制のプリキュアだった『5』では、第1話から順に1人ずつプリキュアが増えていく導入だったのですが、第5話ではいよいよ5人目キュアアクアも登場して5人制揃い……と思っていた視聴者の予測を裏切り、水無月かれんはプリキュアの力から変身を拒否されてしまうのです。

これも今ふり返ると、生徒会長も務める優等生のかれんが、プリキュアの使命をも「自分がやらなければ」と【 正義と秩序の論理 】で背負い込もうとしたがゆえに5話では変身できず、6話で他の4人の仲間といっしょに大切な物を守るために戦いたいと心から願うことに気付いたことで変身が叶ったと見ることができます。

まさに【 ケアとキュアの論理 】に沿うことこそが「プリキュアの資格」だったわけです。


その意味では、同じ5人体制である『スマイルプリキュア』が始まった際、キュアアクア・かれんと同じ水属性の青色プリキュアであり、生徒会役員も務める優等生というところまで共通している青木れいかチャンははたして第5話でキュアビューティになれるのか!? …という点を視聴者の誰もが心配し、そしてそれは実際には杞憂に終わったのですが、むしろ危なかったのはキュアマーチ・緑川なおのほうだったのかもしれません。

なおの信条のひとつは「筋が通ってない」ことは許せないというものがあります。
なおのキュアマーチへの初変身回だった第4話の冒頭でも、先輩風を吹かせて横暴な要求をする上級生に堂々と反駁して退けるさまが、彼女の頼れる姉御肌キャラ描写として示されていましたが、この筋が通っているか否かで正邪を判断するというのは、じつは【 正義と秩序の論理 】に拠るところのものです。
たしかに先着順のルールに従えば相手の主張のほうが理不尽です。しかしそれでも、お気に入りの場所を追われた上級生側の気持ちをも慮り【 ケアとキュアの論理 】に従って考えたとき、さて、あれは望ましい解決方法だったのでしょうか?
なおのキャラ描写としての演出意図は理解できる反面、あの場面に私が何か違和感を覚えたのは、おそらくこれが原因です。

幸い4話の後半では、なおは「家族の絆を守る」ことへの強い思いがプリキュアの力に認められ、もってキュアマーチに変身します。
しかしもしもあのとき、あくまでも敵の所業が「筋が通ってない」ことへの義憤がなおを動かす信念だったりしていたら、あるいはまたぞろ「プリキュアの資格」問題が浮上するところだったのではないでしょうか。

その後、キュアマーチ・緑川なおが『スマイルプリキュア』の5人の中では相対的に動かしにくいキャラとなり、虫が恐い・オバケが怖いといったヘタレ属性でのキャラ立ちのほうが昨今ではメインとなってしまっているきらいがあるのも、もしかしたら、こうしたプリキュアとしては危険な行動原理を抱えているせいなのかもしれません。


とはいえ、現在のプリキュアが【 ケアとキュアの論理 】で戦うヒーローの最先端のひとつであることはまちがいないですし、その位置から逆照射して見た場合、そもそも日本のポピュラーカルチャーにおいては、たとえ男の子向けとされる作品であっても【 ケアとキュアの論理 】は必ずしも奇特なことではないと言ってもよいかもしれません。

平成仮面ライダーシリーズが始まった際に感じた新鮮さも、【 ケアとキュアの論理 】成分が増したせいだったと考えられます。

ウルトラマンシリーズでも、『ウルトラマン コスモス』ではじめて明示的に描かれたとはいえ、初代ウルトラマンやウルトラセブンにおいても、主人公たちがもっぱら【 正義と秩序の論理 】のみで戦っていたわけではないでしょう。

主人公らの内面に迫り、人間的な魅力を描き出すためにも、この【 ケアとキュアの論理 】寄りの動機づけが何かなければ、物語が薄っぺらになってしまいかねません。
仕事として黙々と正義を執行するだけのヒーローなんて、そりゃ見ててオモシロくないでしょう。

逆に言えば、面白くなりそうな条件が揃っているのになぜか何かが足りない『特命戦隊ゴーバスターズ』は、そのあたりが弱いのかもしれませんね。


ロボットアニメに関しても、だいたい同様ですが、これについては『機動戦士Zガンダム』が特筆事項となります。
『Zガンダム』のカミーユ・ビダン、彼こそがロボットアニメという男の子向けとされるジャンルにおきながら、ほとんど【 ケアとキュアの論理 】のみでガンダムを駆った主人公なのではないでしょうか。

まずもって、第1話で自分を嘲った軍人に一泡吹かせるために軍のモビルスーツをかっぱらったのは何より自分への「ケアとキュア」。
その後もフォウやロザミィ(やサラ他)と平和に仲良く暮らせれば……という願いを主たる動機として戦っていました。

『Zガンダム』オンエア当時、「正義と秩序」成分の多い従来型ロボットアニメの主人公を見慣れていた視聴者からは戸惑いの声が上がったのも無理からぬことです。
あまつさえ「なぜ、そうも簡単に人を殺すんだよ!? 死んでしまえ」などといういちじるしく矛盾したセリフまで…。

しかし、カミーユの行動原理が「正義と秩序」にないことを踏まえれば、これらも納得が容易というものです。

当時の私が、いたくカミーユに感情移入し、大学生にもなって中二病をこじらせる原因ともなるほど『Zガンダム』にハマっていたのは、無意識のうちにそうした点にシンパシーを感じていたからなのかもしれません。

※もちろんカミーユが抱えている問題が「名前が女の子っぽいことを気にしている」なんていうジェンダーに関わることだというのも大きかったでしょうが


このほか(月刊「なかよし」に連載され、一時はプリキュアシリーズにライバルを張る形でアニメ化もされた)しゅごキャラ!』でも、原作コミック(講談社刊)だと9巻での、男の子たちが望まない戦いをやめられない状況に対し、主人公日奈森あむが「女の子には、女の子の戦い方がある!」と割って入るくだりについて、一部では「男らしさ女らしさも含めた『かくあるべし』という規範に囚われて対人関係の中で自己像を偽るのではなく、もっとありのままの自分を好きになって、なりたい自分になろう――というのが『しゅごキャラ!』がずっと伝えてきたメッセージだったのに、こんなクライマックスへ来て結局は主人公あむちゃんのアイデンティティが【女であること】に回収されてしまうのはいかがなものか!?」という声もありましたが、あれも【 正義と秩序の論理 】が男の子たちに仮託して描かれ、そしてそれに相対するあむちゃんの【 ケアとキュアの論理 】のことを「女の子の戦い方」と仮称していたのだと解釈すれば納得できる話となるでしょう。

  


というわけで、【 正義と秩序 】か【 ケアとキュア 】か……というのは、なかなか有用な視点であることが、様々な例を見ても言えてきたのですが、コレはじつはアニメ分析に限りません。
現実の
さまざまな物事に対しても、当てはめることが可能なのではないでしょうか?


例えば典型的なのが「裁判」。
刑事事件の判決などが、被害者感情に照らしてどこか納得の行かないものとなることは、しばしばありますが、あれは「法律」という名の【 正義と秩序 】の運用において、【 ケアとキュア 】の精神が反映されない、もしくは反映され難い構造が法曹界にはあることによる不合理だと言うことができそうです

もちろん人が人を裁くというあやうい行為においては法律が唯一の拠り所であり、法の規定を越えた刑罰が認められないことは、為政者が恣意的に人民を取り締まることを予防するためにも、民主主義の基本かつ重要な要素であることは言うまでもありません。

しかし法律を杓子定規に当てはめてアウトかセーフかを断ずるだけなら裁判に人間は要りません。
あるいは、各種法令法規を形だけ守っていさえすれば、それでよいというわけでもないでしょう。

そもそも、各種法令法規や、法律をつくるところである議会の決定に重きを置くというのは、たとえそれによって一定の正義の実践を目指しているのであったとしても、ある種の権威主義であり、そういったシステムを作り上げた「男社会」の権力に偏って与してしまっていることにならないでしょうか?
(ぶっちゃけ、男性が加害者の性犯罪における被害女性が裁判ではなかなか救済されづらい要因は、そのあたりにある)

民主主義を担保する重要な基本原理を反映した「法治主義」ですが、それは民主主義を支える手段であって目的ではありません。
または民主主義そのものも、ひとりひとりが等しく尊重される社会の仕組みのための知ではありますが、やはりそれ自体は手段でしかなく、目的はあくまでもひとりひとりが等しく尊重されることです。
「みんな」のために民主主義があるのであって、民主主義の形を守るために「みんな」が犠牲になる(これは、「みんな」のための民主主義の本質を守るために各自が日頃から関心を払い努力を惜しまないべきであることとは、似て非なることです)のはオカシイわけです。

個々のケースにおけるひとりひとりの人の気持ちに寄り添い、そのすべてが最大限尊重されるような解決策を提示してこそ、人の世の誤ちが正されたと言えるのではないでしょうか。
それが潜在的に多くの人々から望まれていることは、今日に至るまで「大岡裁き」が語り継がれていることからも明らかです。
そのためにも法の運用の現場には【 ケアとキュアの論理 】が大いに期待されるのですが、現実はまだまだ道半ばなのでしょうね。


他にも「労働組合」の活動。
地道に働く者の立場から、広く人々の生活の向上を訴える、その活動の方向性は、素直に考えれば、私も大いに共感するところなはずなのですが、実際にはどこか違和感があって、今までそうした活動には距離を置く結果となってきたのは、もしかしたら「労働組合」のコンセプトが、【 正義と秩序 】のほうに比重を置いているからなのでは? ……と考えると辻褄が合います。

シュプレヒコールを上げながらデモ行進をする…ってのも、たとえそこでの訴えは賛同できる内容だったとしても、どこか私にとっては「何かが違う」という感じがしたのは、きっとそのせいなのでしょう。

ただ、最近の「反原発デモ」などは、そういった従来型のデモ行進のテイストを薄め、若者や親子連れなども緩やかに参加し、半ば「パレード」化しているという話を聞くと、少し風向きが変わっているとも考えられます。

デモ行進にも【 ケアとキュア 】を取り入れることで、より間口を広く、そして訴える内容も、より生活者に近くすることができるのなら、いたずらにデモが「緩い」ということを批判するのは的外れということになります。

逆に言うと、そんな元々は「パレード」であった場に、何か政治的な主張を持ち込むというのは、たとえそれが正義には適った主張であったとしても、本来そこに【 ケアとキュア 】を求めていた人たちを排除してしまう可能性があるということは検討されなければなりません。

「みんな」の場を作ろうという建前のもとに正義の主張が持ち込まれることによってケアやキュアを奪われる「誰か」が存在するはずだという想像力を働かせることは、殊にマイノリティにかかわる運動においては重要であると言えましょう。


そうして、【 正義と秩序 】というものを、ここまで相対化してみると、もうひとつ大いに気になる事柄に思い当たります。

そう、日本国憲法第9条ですね。

拙著『M教師学園』にも……

「ハイ、じゃあ今日はまず、いつもとちがってプリントの最初に『今日の憲法』があります……」
【日本国憲法 第[a]条;[  b  ]と[ c ]及び[ d ]の否認】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2,前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
そう言って靖彦は、まず条文の解説から入った。
  a:9
  b:戦争の放棄
  c:戦力
  d:交戦権
文化祭の余韻ただよう学校はまだ少し浮ついた気分が残っていたが、靖彦がそこにあえてこの内容を持ってきたのは、社会情勢のほうが急迫しているという事情があった。
「なぁ、センセー、自衛隊はイラクに行くことになんのん??」
このような狙いどおりの疑問を発してくれる生徒がいると、靖彦としては授業が展開しやすい。

……と書いたように、
なんと、日本国憲法の平和主義の精神を具現化した第9条には、その目指す国際平和のベースが「正義と秩序」だと明記してあるんですねー。

ぃやー、コレは、ここへ来て、ちょっとツッコミどころです。
(まぁ言葉のアヤではあるんですけど(^^;))

もちろん「…というわけなので、この際9条は改正して、自衛隊は国防軍に! 徴兵制も実施しましょう!!」なんていう寝惚けた話は論外のそのまた外ですが、とはいえ、この憲法第9条が、本当に文字どおり「正義と秩序」のみに立脚した世界平和を目指そうと言っているのなら、それもまた手放しでは受け入れられません。

私たちは、この日本国憲法第9条の目指す方向性を発展的に昇華しながら、お互いの身近な個別の状況に思いを致し、互いに配慮し合い、誰も傷つかないですむ方法を模索していく、そんな【 ケアとキュア 】の世界平和を実践していかなくてはならないのではないでしょうか?

 

   

★前記事で触れたとおり、
ここで佐倉智美が言うところの【 正義と秩序の論理 】【 ケアとキュアの論理 】という言い回しは、キャロル・ギリガンが『もうひとつの声』で述べた「正義の倫理」「ケアの倫理」を下敷きにしています。
そのまま使わずあえて改変を加えた意図は、日本語として今回伝えたい趣旨を表すうえでより誤読の少ない工夫を試みた結果であることを、ここであらためて申し添えておきます。
すなわち、「ケア」だけだとどうしても介護や看護の世界がイメージとして想起されてしまい[ ケアの倫理は女性的な考え方 → 介護・看護は女性の仕事 ]という短絡的なミスリードを起こしかねない(実際のところ起きている)ので「キュア」を加えました。
「倫理」も日本語圏ではどうしても静的で観念的なニュアンスがあるため、行動の原理となるものという動的で積極的な雰囲気を出すためには「論理」が適当と判断しました。
なお、ギリガン『もうひとつの声』日本語版はなかなか入手しにくいのですが、その志を継ぐものとして、例えば上記(ケータイでご覧の場合は除く…かも?)のアマゾンのリンクにあるような書籍もあります。