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「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

今そこに咲いている実らない花 [多様なセクシュアリティ]

特種東海製紙株式会社が主催する「紙わざ大賞」というのがあり、先日その第21回応募作品の入賞作品展が東京で開かれていたらしいです。

作品の募集要項には求める作品として「紙という素材を追求した“紙わざ”作品。平面・立体など形態は問いません」とあり、作品展報道での説明には「ペーパーレスの時代に、紙の魅力や可能性を発信しようと企画されたもの」とあります。

入賞作品のクォリティはおしなべて高く、まさしく息を飲むほどの素晴らしいペーパーアートの世界が展開しています。

↓特種東海製紙株式会社 紙わざ大賞↓
http://www.tt-paper.co.jp/kamiwaza/

↓紙を使った創作作品「紙わざ大賞」まさに神業-MSN産経フォト↓
http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2011/09/0916kamiwaza/


で、この入賞作品のうちの「実らない花」という作品が、ちょっとした話題になっていました。
なんと、セーラー服姿の女子高校生2人が教室でキスをしている様子!?
 を、ペーパークラフトで立体造形してあるのです。
つまり「百合モノ」というか、女性同性愛をモチーフにしたというか。

ペーパークラフトとしての造型がハンパないのに加えて、その細かなディテールのこだわりもなみなみならぬレベルで、2人のキャラの描き分けなどもしっかりなされているために、鑑賞者がその場面に対して想像を巡らせ思い浮かべる物語に対しても、非常に奥深く幅広い可能性が提供されています。
アートとしての完成度は非常に高いと言ってよいでしょう。

ワタシなぞは(webで写真を)見た瞬間、直観的に気に入ってしまいました。
ズバリ私のツボに来たということなのでしょう。


ただ、もちろんこの件については、否定的な反応も世間にはあるようです。

例えば、同性愛自体を嫌悪する意見や、それがペーパーアートのモチーフに使われることへの反発。
あるいは、仮に異性愛であっても、教室内での行為であることなどが不謹慎との指摘。

また基本的には理解を示しつつも、細部の作り込みにことさらに性的な要素が含まれている点――例えば一人のスカートが短く、なぜか靴下を脱いでいる描写など――への疑問なども賛同者が少なくないようです。

このあたりは、ひとりひとりの感覚の相違があるので難しいのですが、継続的な対話と理解の姿勢が今後も重要ということになりましょう。
そうして、そのような立場の異なる人どうしの話し合いのきっかけとなり、相互理解の触媒たりうるということも、芸術のひとつのはたらきだと言えます。


一方、「実らない花」という作品の題名に対する批判もあったようなのですが、これについてはどうなのでしょうか。

同性愛の生殖の不可能性や社会的に認められない風潮などを踏まえて、それらが「実らない」というイメージに繋がることは、現実として巷間よくあることで、そうした世間的なイメージに依拠することは、作品がどのようなものなのかを題名に説明させるにあたっては、必ずしも忌避する必要はないのではないでしょうか。
そもそも題名・タイトルというものは、わかりやすく端的に作品を説明するものというのが原則です。

また、同性愛の生殖の不可能性を含めた、社会の中での否定的な位置づけが、実際の当事者の切なく悲しい思いに繋がることは、現実として多々あります。
それをタイトルへ「実らない」というあえてネガティブな語句として織り込むことで、そうした同性愛をめぐるさまざまな情感を、作品に纏わせることもまたできているのではないでしょうか。
そのことが、作品の鑑賞者の心の奥底を揺さぶる力にもなり、結果、性の多様性に寛容な社会の形成にも資するはずです。

そして、同性愛が「実らない」ものになってしまうのは、つまるところ社会の秩序や体制が二元的な性別観に基づく異性愛主義に満ち満ちていることに、その根源があります。
セクシュアルマイノリティに対する差別というのは(というか、あらゆる差別が)、個々の一般人の心がけのみでどうこうできるものではなく、そうした秩序や体制に立脚した構造的なものなのだと理解する必要があります。
そんな中で、この「実らない花」のようなある種の力のある作品に、この題名をつけることは、そうした社会状況の不条理の告発にもなるのではないでしょうか。

すなわち、
 1:作品内容の説明になっている
 2:モチーフとなっている同性愛的登場人物の心情を想起させる
 3:同性愛禁忌社会の在り方を告発する
これら3つの機能が絶妙のバランスで結実したのが「実らない花」という作品タイトルであり(それでいて結果的にはビミョーにベタなテイストなところもまた良い味を出しているというような意見もあります)、あるいは作品そのものなのではないかと考えられます。

 補足(2011/11/04)
あと、この記事の標題に含意しておいたので、あえて当初は明記しませんでしたが、「べつに実る必要ないじゃん。だってアタシたち今ここでこうして『咲いて』いるんだもん♪」という自己肯定でもあるでしょう。


むろん、例えば作者にインタビューしてみたら、そんなことはぜんぜん考えずに、単に安易に同性愛をモチーフに取り上げただけだった……りしたのなら、手放しで肯定できる事象とは言えなくなります。

しかしながら、あくまでも作品そのものを見た限りにおいては、誰しも「個人の感想です」以上のことは言えません。

その意味では、この入賞作品に対する各々の意見というものにも、絶対の正義はないということになるでしょうね。


 


ドラマ『IS』親子鑑賞会その3 [多様なセクシュアリティ]

六花チヨ原作のテレビドラマ『IS ~男でも女でもない性~』は、先日つつがなく全10回の放送が終了しました。

   

10話で最終回ということは、1クールのドラマとしては短めで、最後はかなり駆け足感がなきにしもあらずでしたが、全体としては、細かなツッコミどころは多少あったにしても、よくまとまっており、セクシュアルマイノリティを取り上げたテレビドラマの歴史に確実に新たな1ページを刻んだと言ってよいでしょう。
視聴率的には華々しい数字が出しにくい題材である中で、番組スタッフやキャストは難しいテーマに真摯に向き合い、よくがんばったのではないでしょうか。

特にラストの主人公ハルのセリフの、高校入学当初の女子として通学すべしという条件が撤回されたために、中学までそうしていたように男子制服を着て登校し始めたものの、それもまた何か違和感がある、つまり世の中は単純に人を女かそれとも男かで二分しているけれども、そのこと自体が誤っているのではないか、そしてそのことをわかってくれる人の輪が少しずつ広がることで、自分たちは生きやすくなっていくんだという趣旨は、まさにそのとおりで、ドラマのシメにこれが述べられたことは、大いに意義があったと思います。


ただ、ドラマ終盤の展開で、いささか描写が控えめすぎると感じられたのが、主人公ハルと伊吹センパイの関係です。
伊吹先輩は中盤でハルが恋心を抱いていることを自覚する相手であり、ハルが「本当の自分をみんなにわかってほしい」と全校生徒に対して自分がIS――性分化疾患であることをカミングアウトするに至るきっかけともなる重要人物です。

しかし第9話では、ハルは伊吹センパイにこれからもせめて「友達」でいてほしいと告げ、それを聞いた伊吹センパイは、いわゆる恋愛的な関係性を拒否されたと受け取って絶望的な気分になるというくだりがありました。
ですが「友達で」が、恋人としての関係性の可能性を拒否する言葉として機能する社会風潮と、ISやその他のセクマイを苦しめる性別二元制&異性愛主義は、じつは表裏一体。
となると、そこを越える二人のつながりを描かないと、このドラマとしてはダメなはずです。
ところが、これに続く最終回の第10話では、二人をめぐる描写はいたく控えめで、かなりの内容が、視聴者の想像に委ねられた、含みを持たせた形となっていました。

この点、当初は私も、作品のテーマが斟酌された結果、安易に異性愛的恋愛至上主義に迎合した形でカップル成立にてめでたしめでたしという展開をよしとしなかったからなのかななどと思っていました。
しかし、真相はどうも正反対だったかもしれないと、後日録画を見なおして思い直しました。
すなわち、最終回のラストでは、ハルは男子として登校してきています。
だから、そんなハルと伊吹センパイのラブラブな場面があると、それは見かけ上男性どうしの同性愛描写となってしまうわけです。
そうした映像表現が放映されると、やはり性の多様性に理解のない層からはクレームが来るかもしれない――。
そこで、そのようなシーンが明示的に描かれることが避けられたのではないか? というのが私の推理したところであります。

そして、代わって、しっかりと結ばれたのは、レオンくんと もうひとりのIS美和チャンの2人ですね。
悩んだ末 レオンくんに自分がISだと告白した美和チャンに対して、レオンくんはソレでもやっぱり美和チャンが好きとの旨を明言。
これにともなって2人がヒシと熱く抱擁するシーンもしっかり描かれました。
ここは、日頃はフツーの恋愛ドラマに対しては覚めた目で見ているワタシなぞも、ドラマ設定上「男とか女とか、そーゆーものを越えた性別にカンケイない」だと理解できるので、かなり素直に感動できたものです。
反面、深く考えずに見ていれば、このシーンのこの2人、あくまでも男と女に見えるんですね。
だからこそ、ハルと伊吹センパイの分までこの2人に仮託して、ココでこうして描いておくことが可能だったというのは、はたして穿った見方に過ぎるのでしょうか?

恋愛ドラマ大好き層のニーズを満たしつつ、そうした層が内面化している二元的性別観と異性愛主義を脅かさない。
セクシュアルマイノリティの問題を取り上げ、性の多様性を描こうとするテレビドラマにおいても、そうした配慮をしないと制作が難しいのだとしたら、そんな社会状況こそが、やはり問題なのではないでしょうか。


ちなみに、いつもいっしょに見ていた我が娘・満咲ですが、最終回後のコメントは…
「レオンくん、イイ子やぁ~!」

レオンくんが、すこぶる気に入ったようです。
『花咲くいろは』の孝一クンもお気に入りなようなので、まぁある種、想定の範囲内すぎるリアクションでもありますねぇ。

しかし満咲よ。
世界の人々は忘れちゃおらんゾ。
あのハートキャッチプリキュアの最終回の後で私たちが合意した結論を!
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2011-02-27_HcPreCure-Final

思えばドラマの後日談で、ハルがその日の気分で制服を取っかえ引っかえ着て行ってたら、これはまたオモシロかったかもしれませんね。

 

★その他ドラマ『IS』関連のツイッターでのツィートはツイログ
http://twilog.org/tomorine3908tw
ツイログで【IS】や【is_tvtokyo】などにて絞込み検索してみてください

 

◎ハルが全校生徒に向けてカミングアウトするために採った方法は校内放送
しかし、こういうやり方だけがカミングアウトではない……というか、むしろオススメできるやり方ではないので、テレビで描くのには問題があったかも。
私見ながら、カミングアウトは出来る相手からアッサリ……を少しずつ広げていくのが現実的にはベストかと。
また、自分のカミングアウトで世界を変えてやる!みたいに大上段に構えると後でしんどくなるので、あくまでも、今のこの相手との関係が、今より少しハッピーになればイイなくらいの心構えで進めていくのがよいと思います。


◎ちなみにハルが校内放送でカミングアウトした後の、一般生徒の反応――無関心だったり、否定的だったりというのは、じつはもしかしたら番組に対する世間の多数派の視線を、はしなくも表していたのかも…!?


◎作中での主人公周辺の人々も「ISと性同一性障害はどう違うの??」という素朴な疑問を抱いている描写がありましたし、少しセクシュアルマイノリティのことに詳し気味の視聴者にとっても、ソコは知りたいポイントだったかもしれません。
が、残念ながらドラマ中ではそのあたりしっかり解説する余裕はないまま終わってしまいました。
この点、どこかで誰かが補足することは望まれるのですが――――え゛っ、ワタシの仕事!?(^o^;)
ま、とりあえずこの場でカンタンに述べると、両者とも、世間が思っている男とか女といった性別にまつわる「普通」の規準から外れるがゆえに苦しい思いを強いられるという面では、同じセクシュアルマイノリティなわけです。
場合によっては、両者に共通するような悩みも存在しないではありません。
が、一方では、性分化疾患――ドラマでの「IS」は、その身体的な側面が明確な男女二分にそぐわないことに問題が起因するのに対し、性同一性障害は身体的には世間が思っている男女のいずれかには分類可能なものの、それによって割り当てられる性別が本人の希望に反することが問題の発端となるところが異なります。
そうした相違が、両者が社会で直面する各種の困難の細かな差異につながっていることもありえます。
本館の↓「10分でわかる性の多様性講座」↓も参考に
 1:セクシュアルマイノリティの基礎知識
 2:「性別」とセクシュアリティの多様性


 


海賊戦隊ゴーカイジャー「宇宙最大のお宝」の正体 [その他雑感つぶやき]

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★ めざせ地図にない場所を、幻なんかじゃないんだ ★
★ たったひとつ、自分だけの宝物、誰も探してる ★
★(「海賊戦隊ゴーカイジャー」作詞:岩里祐穂 より)★

本年度の戦隊シリーズ『海賊戦隊ゴーカイジャー』、シリーズ通算35作目記念作品として絶好調のうちに、はや番組は折り返し点を過ぎ、物語はますますの佳境となっております。

ゴーカイジャーの面々というのは、当初は「宇宙最大のお宝」が、どうやらこの辺境の惑星・地球にあるらしいということでやってきただけの、宝探しが目的の宇宙海賊ご一行様でしたが、おりしも地球侵略に来た宇宙帝国ザンギャックとひょんなことから対立する行きがかりとなってしまい、また「宇宙最大のお宝」を手に入れるためには、今までの歴代34戦隊の「大いなる力を入手することが必要と知らされたために、さまざまな過去戦隊のメンバーとの交流も経たことで、昨今はなんとなく地球を守って戦うことの意義に気付きはじめている今日この頃といったところでしょうか。

6人目の追加戦士ゴーカイシルバーとして地球人の 戦隊オタク 歴代戦隊の知識に詳しい青年を迎えたことも、その意味では大きなターニングポイントだったかもしれません。


で、そうなると、そもそもいったい「宇宙最大のお宝」とは何なのか!? というのも、あらためて気になってくるこの時期であります。

ここまでの流れをふりかえって見てみると、案外シンプルに「それは地球を愛する心だ!」なんてオチになりそうな予感もしないではないのですが、まぁあくまでも子ども向けヒーロー番組ですから、そういう王道展開であっても許せるというか、それこそが望ましいというのも建前です。

◎アニメ版人気海賊もの『ワンピース』の「ひとつなぎの大秘宝」のほうについても、ファンの間では様々な予想が候補として語らているようですが、こちらに関しては、もっと何らかの具象物であることが原作者によって示唆されているらしいです。
その点も踏まえての、この「ひとつなぎの大秘宝」――ワンピース――の正体についての私の仮説なら、ツイッターでのお馬鹿ツイートを参照(^^ゞ
http://twitter.com/#!/tomorine3908tw/status/113606860854140928

ここまで非常に上手いつくりで幅広い層から好評の『海賊戦隊ゴーカイジャー』にあっては、そのへん含めて可能な限り、子どもも大人視聴者もともに納得できて、かつ世間的にも好ましく受け止められる「三方良し」的な決着を期待したいところですね。


ただ個人的に、この戦隊シリーズ35作目記念作品において、歴代34戦隊の「大いなる力」を入手することで顕れるという「宇宙最大のお宝」の正体について、あれこれ考えを巡らせてみたのですが、その結果、あることに思い至りました。

それは、シリーズ中の1作品単体において宝探しがおこなわれているのではなく、連綿と続くシリーズ全体の流れとの関わりの中での「宝」というところにある種の大いなる意味があるのではないか? という点です。

それを象徴するのが、オープニング映像中の、キャプテン・マーベラス(ゴーカイレッド)が佇む傍らを歴代レッドが駆け抜けていき、最後にゴーカイレッドのイメージがマーベラス自身に重なるという演出。

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まず『ゴレンジャー』のアカレンジャー

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それに続く歴代レッドたち

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直近のゴーオンジャー、シンケンジャー…

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ゴセイジャーが通り過ぎた後ゴーカイジャーのレッドが

※画像はユーチューブ動画より
http://youtu.be/Ow_TnVUloko

はたしてこれの意味するところは何でありましょう?

もちろん35作目記念作品として過去34作品をフィーチャーすることで、ゴーカイジャー自体も盛り上げつつ、戦隊シリーズというコンテンツ全体の価値相場を高めようという、営業的な企図は別な次元にあるでしょう。

しかしそれも含めて、この駆け抜けていく歴代34レッドというのは、シリーズが経てきた年月、重ねてきた時代の蓄積そのものとも言えます。

そうして、シメとして現行戦隊がソレを受けるということは、その果てに現在がある、現在というものが、積み重ねられた過去の歩みの上に現在が成り立っている――ということを表してはいないでしょうか。

したがって、歴代34戦隊の「大いなる力」と関わりがあるとされる「宇宙最大のお宝」の正体も、そうした34作品に及ぶ歴史の中で受け継がれ、培われてきたものと密接なつながりがある、もしくは、そんな現在に繋がる過去の蓄積そのもの――という考え方が可能になります。

作中での「宇宙最大のお宝」の謎解きが、そのような考えに則っておこなわれれば、ワタシとしては嬉しい限りですが、最終回がまだ数ヶ月先の現時点では期待の域を出ないですね。


そして、視聴者の側からこの件を裏返して見てみると、なんとそこに作品からの重要なメッセージを読み解くこともまたできます。
それは案外、重要な隠しテーマとして『ゴーカイジャー』の基底を成しているのかもしれません。

例えば『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まった1975年、個々の視聴者もまた、それぞれの場所で、何かをして生きていました(まだ生まれてなかったとかゆー申告は却下!(^o^;) ちなみにワタシの場合は小学生)

以降、『ジャッカー電撃隊』のときも、『バトルフィーバーJ』のときも、『電子戦隊デンジマン』のときも同様です。

はたまた1981年の『太陽戦隊サンバルカン』、1982年の『大戦隊ゴーグルファイブ』…(中略)…1997年の『電磁戦隊メガレンジャー』においても然り。

さらに1998年『星獣戦隊ギンガマン』、1999年『救急戦隊ゴーゴーファイブ』を経て、『未来戦隊タイムレンジャー』で世紀を超え…(中略)…『侍戦隊シンケンジャー』の2009年、『天装戦隊ゴセイジャー』の2010年に至るまで、各々の視聴者は、常に、どこかで、何かをしながら生きていたのです。

その道筋は、中には順風満帆、幸せ全開、春爛漫な時期もあったかもしれませんが、逆に陰陰滅滅、絶体絶命、臥薪嘗胆、艱難辛苦に満ちたところも(あるいは「ほどほど」「ぼちぼち」な年も)あったにちがいありません。
また、順調な周期や苦悩の周期にしても、それぞれの具体的な内実は、そのときどきによって異なっていたことでしょう。

(ワタシの場合だと、思春期に入って相応に充実した青春模様の一方で、対人関係進路のことで悩んだり、やがて社会人になって仕事恋愛を模索しつつも、どうしようもなく行き詰まったり、そしてソコにはじつは性同一性障害が絡んでおり、ついには社会的に性別を女性に変更して生きることに踏み出し、現在に至る………というプロセスが充当します。詳しくは一連の拙著にて(^^))

そうして、私たちは、そんな毎年毎年を、ときに浮かれつつ、そしてときに歯を食いしばって耐え、場合によってはもう生きるのがイヤに思えたりしながらも、それでも懸命に前を向いて、ここまで歩いてきたのではないでしょうか。

つまり、スーパー戦隊シリーズが放映されてきたこの三十有余年というのは、視聴者が必死に生きて抜いてきた時間軸を象徴的に表しているのです。
戦隊シリーズ各作品が、折々において、名作と絶賛されたり、特に注目されなかったり、いちじるしく不評であったりしながらも、延々と継続してきたこととも、まさしく照応するかもしれません。

その果てに今がある。
がんばって前へ進んできた末に、この2011年が繋がり、だからこそそこでこうして『海賊戦隊ゴーカイジャー』を見ることができているのです。

そうして、そんな実績は、また来年以降も続く日々を乗り切っていくための大いなる力となってくれるにちがいありません。


かかる具合に、日々のがんばりを自ら受け継いで、年年歳歳、自分なりに前を向いて、可能な限りの一生懸命を生きていけば、それが10年なら10年分、30年なら30年分、自分の人生の資産として貯蓄される――。
そんなふうにそれなりに生きてきた経験が、次なるステージををがんばっていく自分にとってのリソースとなり、あるいは、それこそが、かけがえのない「わたし」の人生そのもの――。

そしてそのとき、人は呼ぶのです。
これをこそ「自分だけの宝物と。


……これが『海賊戦隊ゴーカイジャー』が言外に訴えている、視聴者への最重要メッセージなのではないかなと、私は思うのです。