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「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

ドラマ『IS』親子鑑賞会!? [多様なセクシュアリティ]

六花チヨ『IS』を原作とするテレビドラマが先々週から始まりました。

セクシュアルマイノリティの1ジャンルである性分化疾患を真摯なスタンスで取り上げた内容になっており、これを機に、「なんでもかんでも女か男かの二者択一割り切った押し付けを個々人に強いる現在の社会の在り方ってどーなん!?」みたいなことを、例えば親子でドラマを見た後に話し合ってみたりするのも有意義かもしれません。

いわゆるインターセックスのことを昨今では「性分化疾患」と表現する流れになっているようですが、『IS』原作スタート時にはまだそうはなっておらず、そのため今般のドラマも原作を尊重して、注釈を入れつつ Inter Sexual で通しているようです。
以下、本記事もそれに合わせて「IS」で表記します。

  

ま、ひととおりのネタ振りが出揃った第2話までが済んだ現時点で見る限り、多少のツッコミどころはあるものの、おおむねよく練られたつくりであり、性の多様性をめぐるあれこれについても良心的な仕上がりになっていると見てよいでしょう。

それを踏まえた上で、以下少し専門家(!?)の立場から、気が付いたことなどを挙げてみましょう。


★問題の交通整理が誰にも捌ききれない

ドラマの要素として登場するアレコレは、じつは次のように分類されると考えられます。
1,ISという身体性に固有の事項
 →本人の意図に反してホルモンバランスが変化し身体が女性寄りにシフトする等
2,「中学まで男子として生活していた人が急に女子高生になったこと」に起因する事象
 →学校でうっかり間違えて男子トイレに入りそうになる等
3,そもそも社会が性の多様性に対応していない(「女か、それとも男か」)こと全般、および基本的な性別役割分業・性差別など(いわゆるジェンダー問題)にかかわる諸問題
 →サッカー好きや乗り物遊びを好むことを男の子らしいと解釈される等、その他周囲の理解不足や偏見
4,単に学園ドラマのテンプレートにはありがちなフォーマット
 →学校上層部が保守的で大人の都合優先、ワケアリそうなクラスメート、恋愛フラグ等
ただ、これらがドラマの構成上、複雑に入り組んで描写されると、ある程度知識のある人間でも一瞬頭が混乱しミスリードとなる可能性はあり、あまつさえ一般的な視聴者には容易に峻別することが困難かもしれません。
もちろん相互に関連しあって分けきれない要素もありますし。
 ※なお恋愛については↓
http://twitter.com/#!/tomorine3908tw/status/97130002608439297


★家族が先に知っている

トランスジェンダーや同性愛の場合は、本人が家族にも打ち明けられずにひとり悩んでいるケースが少なくなく、カミングアウトするにしても家族が最も困難な相手となってしまう事例は多々あるのですが、ISの場合はむしろ両親などのほうが本人よりも先にそのことを知っているのが、同じセクシュアルマイノリティでも抱えている具体的な問題が相違するひとつのポイントかもしれません。
ドラマでは、主人公の家族は理解ある両親&妹として明るく描かれているのが、トランスジェンダーや同性愛者が登場する作品の場合と対照的に感じられ、また、そういう両親でなければ、子どもはとっとと「男」か「女」に埋没させられてしまって、そもそも『IS』のお話が成立しないのも確かでしょう。


★「福田沙紀が好演」ということは

ISである主人公ハル役は福田沙紀で、難しい役柄を上手に消化して好演しているのですが、設定上は単純に男女に分けられない主人公が女子として高校に通うという展開において、演じるのが福田沙紀ということは、やはりここでもFtMは女優、MtFも女優」の法則が援用可能な結果になっているわけです。
これはつまり、こうしたドラマが制作されうる今日にあっても、男優が女装している映像なんて「キモい」から見たくないと多くの人が受け取ることが相応に予見される、まだまだそういう段階だということなんですね。

 

で、そんなこんなでドラマ『IS』をチェックしていると、第1話の主人公出生編の部分では、生まれた赤ちゃんがISである旨を医師が両親に告知するシーンなどもありました。
曰く、典型的な男女に当てはまらない身体であることを説明したうえで「お子さんの性別は、我々医師とご両親で、よく話しあって相談して決定しましょう」みたいなことを、宣うわけです。
これはもちろん、性別が明らかに判じられる通常の身体性ではないゆえに、そんなふうに女として育てるか男として育てるかを後から考えて決めなくてはならないという、ISにかかわる苦悩を述べた描写のひとつなわけです。

と、ここでいっしょに見ていた我が娘・満咲が――

医「お子さんの性別は、よく話しあって決定しましょう」
満「えぇーっ、イイなぁ! ソレ、めっちゃエエやん!!」

……………。

(゜レ゜)!!!


え゛っ!?

ソコ、羨ましがるポイントですかー?


まぁ満咲の性別というモノをめぐる観念が世間一般とは相当に乖離したものになっているのは今に始まったことではないし、それはそもそもワタシのせいでもあるのですが、このときはさすがに、ドラマの演出意図とのあまりのかけはなれ方に

「オマエ、もう黙っとけ!」

って感じになりました(^^ゞ


しかしながら、冷静に思い返すと、こういうときは、満咲のほうがやっぱり正しいという場合が、じつは今までの例からしてもほとんどなんですねー。

セクシュアルマイノリティの諸問題、ひいてはすべての人の性別・性差をめぐる悩みというのは、結局のところ、社会が用意した「男」「女」という器のどちらかひとつへ、本人自身が選ぶこともないままに、社会を構成する全員が自動的に振り分けられてしまうシステムにあるわけです。

だから、現在ではたまたまISという身体の場合のみに直面する、これからどういう性別で生きて行くかを人為的に合意点を探ったうえで決定する作業、これをすべての人に、もちろん本人の意志もまじえておこなうことができるなら、それは間違いなく「めっちゃエエ」ことなはずでしょう。

このように、現状ではセクシュアルマイノリティだけが「しないといけない」ことの多くは、すべての人がそれを「することができればイイ」ことなのだと裏返すことができれば、社会のマイナス面をプラスの力に変える、大きなエネルギーになるのではないでしょうか。


 


ポルノ表現規制の対立は世界認識のリアリティの相違に由来した! [メディア・家族・教育等とジェンダー]


ほんのネタ記事のつもりが、予定外に膨らんで、あまつさえこのブログのデフォ文体じゃなくて「だ、である調」になっちゃってますが、本館回しにするのもちょっと違うっぽいので、とりあえず(^o^;)
  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓


スタジオジブリの新作劇場アニメ映画『コクリコ坂から』の公開が始まった。

そして、このところ、その宣伝も兼ねてか、前作『借りぐらしのアリエッティ』のDVDのコマーシャルや、ズバリいくつかの過去作品がTV放映されていたのは、まぁよくあるパターンだと言ってよいだろう。

ただ、そんな過去作品放映のラインナップに、『もののけ姫』や『魔女の宅急便』などはあったものの、近作である『崖の上のポニョ』のタイトルは見当たらなかった。

なぜか?

まぁ、順当に考えて、大津波による甚大な被害が発生した東日本大震災に鑑み、海が溢れて街が水没するような描写がある作品は避けられたという理由は想像に難くない。

ことに今回の津波は、従来は警報が出てもせいぜい数メートル、場合によっては数十センチというレベルだったのに対し(もちろん1m未満の津波でも押し寄せてきたら人や物を押し流すにじゅうぶんな破壊力を持っているらしいので、決して侮れないが)、まさにアニメでの誇張された津波描写に匹敵する数十メートルの高さ。

それによって住み慣れた街が壊滅し命からがら避難した人々も数多く、家族や親しい友人などが亡くなったりもしているはずななかで、そうした災害を想起させる映像は、この時期には不適切というのは、まぁ妥当な判断だと言わざるを得まい。


◎『ポニョ』の他に宮崎駿監督作品としては『未来少年コナン』にも大津波のシーンがある。
また1980年代のロボットアニメ『宇宙戦士バルディオス』の終盤にも世界中を大津波が襲うという描写があったりするが、そこではその後さらに放射能汚染が問題になるなど、今日の現実と恐ろしく照応する展開がある。
なお『未来少年コナン』の作中では太陽エネルギーが原子力の暗喩として批判的に位置づけられており、同様に太陽エネルギーによって生み出される潤沢な電力を用いた「超磁力兵器」は現実の核兵器と対応するものとして描かれている。
しかしながら、今日の実際においては、太陽光発電などの自然エネルギーへのシフトは、むしろ積極的に推進すべきものであり、この機に脱原子力を目指すことは、福島の高すぎる授業料を少しでも回収するための、唯一の道だろう。
ちょっと考えればわかる簡単なことだが、『未来少年コナン』作中で核兵器をはるかに上回る破壊力と設定されている「超磁力兵器」による世界全面戦争が起こったにもかかわらず、物語の主要舞台であるその20年後の世界においては、自然が豊かに再生しており、かつての文明の残滓としての汚染が生き残った人々の脅威として差し迫っていないのは、「超磁力兵器」が放射能を出さない“クリーン兵器”(←語弊のある表現だが、こうした兵器の存在自体がダーティだという基本を押さえたうえであえて)だったからだろう。
この点は、同じ宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』と比較してみると明白で、ある意味で平和で豊かな社会を運営しているハイハーバーの人々が、腐海の瘴気に脅える必要がないというのは、風の谷から見れば、とてつもなく恵まれたことではないだろうか。

前例を繙くなら、現実に発生した何らかの出来事を受けて、直後に予定されていた映像作品が放送中止・放映延期になったり、あるいは場面の編集・画像の修正を施されたりということは珍しいことではない。
過去の津波災害と『未来少年コナン』の再放送が一度ならずかち合ったことも、そのほんの一例だろう。

フィクションの映像作品における(「映像」作品に必ずしも限る必要もないが。以下同じ)インパクトのある描写が、実際の出来事と重なってしまったとき、多くの人がそれらをフィクションとして素直に消費できなくなり、特に何らかの出来事の直接の被害者にあたる方々には、激しい感情的な動揺を引き起こすとすれば、当該映像の公開に慎重が期されるのは必要なことと言える。

逆に言えば、インパクトのある描写が受け手が納得した形で受け入れられるためには、その内容があくまでもフィクションの表現だという共通理解が可能でなければならないのだということになる。

それゆえに、制作当時はフィクションであっても、後に人々が「本物」を目撃してしまったがために、受け取られ方が変化するような事例もあるだろう。

映画『アルマゲドン』の序盤の見せ場、マンハッタンが隕石群の襲来を受け、あちこちで破壊が起きて人々はパニック、エンパイアステートビルが崩壊したりもする場面は、その好例だ。
かような実際には決して起こってほしくない事態が、しかし起きてしまった「9.11」以降、この場面は一般的には気の抜けたビールのような印象となり、一方で「9.11」のまさに現場に居合わせた当事者にとっては、トラウマを刺激する忌まわしい映像と化してしまったのではないか。

楳図かずおの名著『漂流教室』もしかり。
これはむしろ、今までに原作に忠実な映像作品化はおこなわれていない(大幅に脚色された映画やテレビドラマは存在するし、原作だってマンガなのだから広い意味では映像作品)のだが、だがしかしこの先もおそらくはおこなわれることはないだろう。

その不可能性の最たる理由のひとつは原作コミック2巻の展開にある。
まるごと砂漠化した未来の地球にタイムスリップしてしまった小学校の中で、自分だけは助かろうというエゴの権化となった給食屋の関谷は、あろうことか包丁を持って教室に乱入したうえ、児童にズバズバ斬りつけるのである。
これが、そんなことは現実には決して起こりえないこととしてでないのなら、どうしてエンターテイメントとして楽しん――もちろん一般的には子どもが斬りつけられる表現そのものにカタルシスを得るなどという意味合いではないだろう――だりできるだろうか。

言うまでもなく、その種の事件を本当に体験してしまった今日では、一般の人にとってはこれはありがちなプロットという評価に降格すべき凡庸さであり、そうして事件の当事者にとっては、まさに目をそむけたくなるような生々しい映像となってしまうことだろう。
わざわざそうした作品を、これから創る理由はない。

特定の表現が、あくまでもフィクションだと捉えられるか、それとも実際の出来事と結びつけて解釈されるのか、これによってその表現の意味づけは、このように大きく異なってくる。

フィクションとして描かれる内容が、もしも本当に起こったら、それはじつはこういうことなんだという現実を、多くの人々が正に目撃してしまったことによる、世界認識のリアリティの転換だと言い換えてもよいかもしれない。


翻って、ポルノ表現規制をめぐるイシューである。

ポルノグラフィにかかわる日本の現状は、もちろん問題が少なくない。

人権侵害(特に女性への)的な内容を含むポルノ表現が数多い中で、それらを見る側のメディアリテラシー的な読解スキル――いわばポルノリテラシーとでも呼べる能力が相応に涵養されるだけの性教育は、はたしてじゅうぶんにおこなわれているだろうか?
性教育が通りいっぺんのものでしかないことが、性情報を求める若者らをポルノグラフィに向かわせ、結果的に人権侵害的な誤った性知識を持たせていってしまっている悪循環があるとすれば、由々しき問題だろう。

また、ハードなポルノ表現を含む作品が実写で制作される場合、出演者(やはり特に女性)の過度の負担が、撮影の範疇を超えて、実際に人権侵害となってしまうような、いわゆる制作被害の問題も看過できない。
作品の制作現場が、本当に集団レイプの記録作業だなどという誹りを免れえない状況なのだとしたら、そんなふうになってしまうことを防ぐための各種の方策など整備が切に望まれるのは言うまでもない。

一方、だからといってポルノグラフィそのものが絶対悪であるかのような論調が跋扈するのにも、性をめぐる社会の未成熟を見る思いがする。
ポルノを活用することで、個々人のセクシュアルファンタジーが充足され、性的QOLを向上させることにつながるのなら、そのことは尊重されなければならない。
そこを「性はすべて罪悪」とばかりに包括的に否定しようとする向きがあるならば、それは別の面での人権侵害であろう。

そんな中での、昨今のポルノ表現に対する規制論議は、はたして不毛な消耗戦に陥っているようだと判断せざるをえない。

公平に見て、弱い立場の子どもたちが搾取される児童ポルノは、制作被害の中でもとみに重大な問題だし、その根絶が目指されることは決して悪いことではない。
とはいえ、いかに幼く見える子どもの性的な様子が描写されているからといって、アニメ・CGやコミックスを成人指定することに執心するような表現規制が、その方策として適切なのかとなると、甚だ疑問である。

つまるところ、ポルノ表現規制の論議は、推進派と慎重派が、それぞれ自説を一方的に主張することに終始し、論点はすれ違ったまま、話し合いはいっこうに進まない。

世の中に絶対の正義なんてないのだから、もう少し双方が歩み寄って落としどころを共同で見つけていくような作業に持っていかないと、その間にもポルノ制作由来の犠牲者は後を絶たず、問題の大きい規制法令がゲリラ的に可決成立することのしわ寄せなら結局はマンガを愛好する子どもたちが被るという、まさしくいったい誰が得するのかわからない状態が続くことになる。

はたして、なぜ両者は歩み寄れないのか?
どうして双方の議論は噛み合わないのか??
そして、いかにして各陣営の寄って立つ価値観は異なってしまうのか!?


さて、ここで、はじめに述べた件である。

その内容を、もっぱらフィクションだと捉えられるか、それとも現実と切実に連結して受け止めてしまうのか――。

これがポルノグラフィにも当てはまるとしたらどうだろうか?

例えばレイプもののポルノグラフィ。

これを、現実には決してあってはいけない事象を、それゆえにフィクションとして描いたものとして見ることができる人にとっては、自らのセクシュアルファンタジーを充足するための一助として消費することに、(制作被害などはないことが担保される限りにおいては)何ら問題は感じられないだろう。

反面、実際にレイプ被害を体験した人、もしくはそうしたレイプ被害者に感情移入するに足る体験をシビアに積んでいる人等々にとっては、たとえフィクションという建前であったとしても、レイプもののポルノグラフィが現実の記録であるとしか思えなくても無理はない。
この画像に写っているこういうことが実際におこなわれたらどうなるのか、それがどういうことなのかが解っているゆえに、瞬時にその深層を認識してしまう辛さでもあるだろう。

両者の間には、かほどにも世界認識のリアリティの相違が存在するのだ。


思えば、私たちひとりひとり、社会の中で置かれているジェンダーは異なるし、それぞれが抱えているセクシュアリティもさまざまだ。
割り当てられている世界は違い、望ましい世界の理想像も別個である。
そうした中で、ひとりひとりが蓄積していく経験も千差万別。
だから見えている世界――世界の見え方が、人によって違うのは当然だ。

このことをひとりひとりが踏まえ、自分が見ている世界の見え方は他者には理解され得ないところがあるという諦念を、お互いに引き受けた上で、かつ可能な限り想像力をはたらかせて相手の立場に思いを致しながら、すべての人の性的尊厳が大切にされ、全員のセクシュアリティが満たされる方策を、いっしょに考えていく。
これが、誰も犠牲にすることのないポルノ表現規制の、唯一の道なのではないだろうか。

ちなみに「世界の見え方が、人によって違う」とすると、何がポルノになりうるかというのも人によって異なることになる。
単に親が子どもの成長記録として撮影した映像が、別の人間から見ればポルノとして成立する可能性も考慮すると、例えば児童ポルノを定義することは困難である。
特定のポルノ表現物を持っているだけで処罰しようという、いわゆる単純所持の問題は、人間の多様性を強引に捨象した論議であり、社会が多数派基準で「これが問題ポルノだ」と措定したものがたまたま好みのポルノとなってしまう人だけを自動的に逸脱化してしまうという点で問題が多い。

 

§(2011/07/29)
 Silver_PON さんのコメント(ありがとうございます)にもあるように、見たくない人が、見たくないモノを、そして、見たくないときに、見たくない場所で見てしまうことのないように、そのモノや人に責任を転嫁するのではないコンセプトにおいて、確実な(もちろん安易で杓子定規なものではない)ゾーニングをおこなっていくことが肝要なんだ、そうした合意が今こそ大切なんだと私も思います。
ツイッターでもこの前ちょっと触れたのですが、エロいものを見たいことがある人(私も)でも、無条件に送りつけられる迷惑メールとか、主コンテンツはしっかりしたニュースまとめサイトなのに(そのまとめられているニュースのほうに関心があってアクセスしてみると)サイドバーはエロ広告バナーだらけとか、アレはけっこうダメージです


 


佐倉満咲、級友の恋愛話ベクトルに辟易する [今週の佐倉満咲]

我が娘・満咲もお年頃……というか、そもそも満咲が属する小学6年生女子というクラスターが「お年頃」なわけですが、そのせいか、満咲によると、学校で休み時間などに級友たちと他愛のない話をしていても、話題の方向性が、すぐに「恋愛」に結び付けられてしまうそうです。

具体的なところは、現場を見ていないのでなんとも言えないですが、満咲の口ぶりからすると、おそらくは、じきに「誰か好きな男の子がいるのか?」という展開になったり、何か男の子がからむ話題を出した者に対して「もしかして好きなん?」と半ば反射的に返されたりといった感じなのではと推測されます。

こうした風潮は、どんな世代のセクシュアルマイノリティと話していても、「そういうことはよくあった」「やった」「疎外感を覚えた」というふうに語られる事象なので、それだけ普遍的に存在すると言え、そしてまた、だからこそなんとかしたいモンダイでもありましょう。

で、満咲はといえば、やはりそういう傾向には得心がいかない様子で、「なんですぐに、そーゆーほうへ話を持ってくんかなぁ」「もぅィヤんなるワ」などとコメントしております。

まぁ「かの佐倉智美さんの娘」の発言として見た場合のポリティカリィ・コレクトネスには適った反応だと言えるでしょーけど。

どうしたらエェかなぁ」
とも聞かれたので、
「ま、『何でもかんでも、そういうことに結びつけるんは良くないデ』とでも言っといたら??」
みたいにアドバイスしておきましたが。


しかし、こうなると、まさに昔メールマガジンで連載した小説の外伝で書いたとおりの状況に現実が追いついてきているわけですかね。
小説外伝の時期設定「小学5年生」もすでに追い越してるし。

せっかくなので↓秘蔵の(!?)当該場面を↓大公開


  小説『1999年の子どもたち』
【外伝(満咲編) 風の中の光<2>】

健人の背中では真っ赤なランドセルが揺れていた。戦隊ヒーローの[レッド]が好きだった健人は、入学前「ランドセルも絶対に赤!」と言い張ったのだという。1年生になった当初、周囲は男の子の赤いランドセルを奇異に受け止めたが、満咲だけは真剣に「どこが変なん??」と言い、その後は健人の赤ランドセルは、普通のこととして受け入れられたのだった。
「…………まったくヤになっちゃうよ。パソモンの新しいバージョンのGSMソフト、発売延期やねん。9月ごろになんねんて」
「ふーん」
満咲は健人と、赤いランドセルを並べて道を歩いた。ちなみに健人の正統派の赤に対して、満咲のランドセルはルビーのような色合いのワインレッドである。ルビーは満咲の誕生石なのでちょうどよい、と満咲は気に入っていた。
「どうしたんサクラ? ちょっと元気ないんちゃう??」
「じつはね……」
健人が気づかってくれたので、満咲は一連の経緯を、かいつまんで話した。
「そうかー、大変やなぁ女子も……」
「うん……」
「でもな、サクラ、男子の人間関係のほうがいいのかも、ってのは……」
「……?」
「きっと、“となりの芝生が青く見え”てるだけやぞ」
「そ、そうなの?」
健人が妙に断言するのが、何か新鮮な感じがする。満咲は素直に納得することにした。

翌朝、登校すると、いきなり蘭珠が満咲のところにやってきた。
「ねぇちょっと佐倉さん、あなた昨日、となりのクラスの益平クンといっしょに帰ってたでショ?」
「えっ……、ぅん、まぁ…………」
今度はどんなクレームがつくのかと、一瞬身構える満咲。しかし蘭珠の語調は、昨日の一件の際とは、微妙にニュアンスがちがった。
「二人は、どーゆーカンケイなの??」
「はっ??」
「もしかして、付き合ってるの? 両思いなの!?」
「い……、ぃや、べつにそーゆーのじゃないけど」
蘭珠の剣幕に満咲は苦笑しながら応じるしかなかった。
「本当よね? ウソだったら承知しないからね!」
「……ウソじゃないよ」
まさしくウソではない。5年生になって、周囲では妙に大人の男女の恋愛関係に憧れる向きが台頭してきてはいるが、満咲はまだそういうことについてはよくわからないでいる。健人とも、本当に単なる気の合う友人だし、蘭珠が言うような仲になりたいとも思っていなかった。したがって、もしかして蘭珠は健人に気があるのではと洞察することも、このときの満咲の能力外にあった。
とはいえ、これからさらに大人になっていくと、男女がただの仲良しでいることが、周囲からますます許されなくなっていくかもしれない……。満咲は漠然と、イヤな感じがした。
蘭珠から解放されて教室に入ると、香暖と蕗蓮が満咲を見つけて近づいてきた。
「おはよー、カノンちゃん、ロハスちゃん」
なんとなくホッとしてあいさつする満咲に、香暖が情報を伝えた。
「ミサキちゃん、今日このクラスに転校生が来るらしいデ」
(以下略)
小説中の「佐倉満咲」は実在の佐倉満咲に着想を得て創作されている部分はあるものの、あくまでもフィクションの登場人物であり、両者は別個のものです



そして、さらなるリアル満咲@2011の爆弾発言!(^o^;)
 ↓ ↓ ↓
今日の佐倉満咲その2。「なあなぁ“一夫多妻制”ってあるけど、その逆(多夫一妻制?)はないのん?」 …ぃや、な、ナニを狙っとる!?(^o^;)

 ↑ ↑
なお、いちおうワタシとしては「日本の正式な法制度に則った結婚としては認められてないけど、もし自分が、そういう関係性がイチバン適切と思うんやったら、それを実行すること自体は自由やデ」と答えておきました。
で、ソレを聞いた満咲のリアクション。
「よっしゃ!!」
……………(^o^;)
思えば、上述の小説、本編クライマックスでの問題解決のキーとなるのは、満咲チャンの発案するポリガミックな関係性(ポリガミーの可能性)だったりしました(^^ゞ
 ↓《参考》↓
#05 モノガミーを問い直す ~恋愛における支配的関係性の根源は?~