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蝉丸、その境界線上のラグランジェ [その他雑感つぶやき]

先日、ひょんな事情で雑誌『ユリイカ』(青土社)のバックナンバーを調べていたら、2013年1月臨時増刊号百人一首特集で、見れば、蜂飼耳「蝉丸の背中は語る」、郡司ペギオ幸夫「蝉丸および蝉丸になれない我々、または、いかにして我々は蝉丸にならんとするか」…と、2つも【蝉丸】を扱ったトピックが収録されていました。

そういえば、松本ぷりっつ『うちの3姉妹』(主婦の友社)6巻の100~102ページ(2006年11月のブログから採録されているもの)にも、坊主めくりに興じる3姉妹たちにとって、蝉丸が異様にツボだという描写があります。

◎『うちの3姉妹』も元々の松本氏の公式ブログは末娘のチーちゃんの小学校入学に合わせて更新が終了し、その後は新しい公式ブログで、『うちの3姉妹』シリーズとは切り離した形で3姉妹の近況が語られていますが、やはり私が見ると、ウチの娘と同学年で、すなわち中学2年生になっているはずの長女フーちゃんにかかわるネタは、思春期の子どものプライバシーに配慮してかなり控えられているように見受けられますネ


……蝉丸は、どうも多くの人の心の琴線に触れるものがあるようです。

いったいどうしてなのでしょうか?


じつは私も子どものころ蝉丸にどこか心惹かれるものを感じていました。

坊主めくりをしているとき、めくった瞬間に坊主だとわかるのではなく、大丈夫、セーフだった! と思ってよくよく見たらじつはやっぱり坊主だという、その意表を突いた存在感が、多くの人にエモーショナルな効果を及ぼしているであろうことは想像に難くありません。

◎今ちょっと【坊主めくり 蝉丸】で検索してみたら、やはり注目度は高いようで、蝉丸の札をめぐるさまざまなスペシャルローカルルールも各所に存在するようです。


加えてワタシの場合、今では次のように説明することもできます。

つまり蝉丸とは、実際にはお坊さんカテゴリーであるにもかかわらず、そのビジュアルが同カテゴリー内の他のお坊さんの平均値と大きく異なっているわけです。
すなわち、内なる属性と見た目が一致せずに、私たちの抱いているイメージに比していちじるしく乖離している、少なくとも坊主めくりのゲームの際にはそういう存在です。

もっと言えば、蝉丸の経歴自体が謎に包まれており、盲目のために捨てられた皇子説なども含めて、正規の過程で出家した僧侶とも言えず、お坊さん扱いは後世における琵琶法師一般とのイメージの混同だとも言われています。

そんな「スッキリ割り切れなさ」、つまり蝉丸の【境界性】のようなものが、後にトランスジェンダーとして生きる私の心に響いてたのだと思われるのです。


そう思って、あらためてよく考えると、百人一首収録の蝉丸の歌というのが、なんと「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」であって、つまり関所という、あっちとこっちの【境界】をモチーフにした作品ではありませんか!

……ふ、深いなぁ(゚д゚)!


    


いずれにせよ、蝉丸の醸し出す【境界性】に、多くの人が惹かれるところがあるというのは興味深いです。

おそらくはすべての人が持つ、何らかの観点における「スッキリ割り切れなさ」が、どこか心の奥底で響きあうのではないでしょうか?

そうして、それが特にマイノリティの場合、日々意識することを強いられている境界線、そのあっちとこっちのいずれにも安住できない不安定感、そんな中でのそれでも自分の立ち位置とする均衡点(いわば「とある境界線上のラグランジェ・ポイント」)を常に探りながら過ごさねばならないストレス、……そういったものに対するやりきれない気持ちと、【境界性】を超越した果てから届いているメッセージにも思える蝉丸の存在とが、激しく共振するのかもしれません。


思えば、「その境界線」は、いつ誰が何のために定めたものなのでしょうか?

本当にそれで「あっちとこっち」を分かつことに合理性はあるのでしょうか?

本当は単純には分けられない、分けてほしくない。
絶対的に固定した【境界】などは幻想です。

境界線上のラグランジェ点探しの毎日に、常に「あっちとこっち」の板挟みになりがちな身としては、単純に分けようとすることこそが、対立と相互不理解の始まりだと思えます。

それよりも、ひとりひとりが異なることを前提に、そのときそのときに応じて相対的に現れる、互いの関係性を測り合うための補助線としての境界線を、そのつど見極めていくことが大切なのではないでしょうか。


 


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じゅんちゃん

 おはよう御座います、じゅんちゃんです♪

 すでに以前のブログではじめましての挨拶はすませているのですが、じゅんちゃんですよー、じゅんです、じゅんw

 境界線、尾崎豊のアルバムのタイトルになっていますが、これは誰かが勝手に決めたものじゃなくて、自分で主体的に決めていくものですよねー。

 私はヘテロだから、男性か女性かの線引きで悩むことはありませんが、重度の精神障害者なので、「普通」であることと「障害者」であることの線引きには考えさせられますねー。

 障害があるといえばそうなるけれど、障害ではなくてその人の「個性」であるといえば、もうそれは障害とは呼べなくなりますしねー。

 ただ、障害でないとなると障害年金がもらえなくなるので困りますけどね(-"-)
by じゅんちゃん (2013-08-25 09:59) 

tomorine3908-

じゅんちゃんさん、コメントありがとうです。

尾崎豊のアルバムは「境界線」じゃなくて『回帰線』だろ!?
とツッコもうとして念のためググったら、カバー曲集である永瀬冴子 『境界線の向こう側』なんてのもあったのですね。コレは不覚;

とまれ、障害者か否かの境界線なんて、障害年金などの福祉施策を実施していくうえでの便宜上の設定にすぎない…というのは、まさにそのとーりなんですよね
by tomorine3908- (2013-08-25 15:25) 

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