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トイレの神様がいる文化圏 [経済・政治・国際]

というわけで話題の植村花菜『トイレの神様』ですが、この歌詞中の「とても美人のトイレの神様は、トイレ掃除をしっかりしてくれた人も、ご褒美に美人にしてくれる」という趣旨のおばあちゃんの言葉の、その真偽のほどはと言えば、はなはだギモンであり、いわゆる「科学的根拠はない」に尽きるでしょう。

『トイレの神様』という歌のタイトルだけを最初に聞いたときに多くの人が間違って見当をつけるとおりに、この歌がもしも本当にコミックソングであったならば、きっと「……と、おばあちゃんが言ったから、毎日せっせとトイレ掃除に励んだけど、ちっとも美人になれへんかった。どーしてくれるんや」というオチになるであろうことは、想像に難くありません。

まぁ、真相は、神様の存在を念頭に置いてトイレ掃除のようなルーティンワークにも精を出すことで心がキレイになる。ないしは、そんな言葉をかけてくれる大人との相互信頼に基づく人間関係の中での生育によって人格的に美人になる……といったところなのではないでしょうか。
歌の後半の歌詞中でも、そうしたニュアンスを匂わせるフレーズは登場しますし。


しかし反面、このブログの使用言語がネイティブである文化圏、すなわち日本的な宗教観念の下にあっては、トイレに神様がいるという言説に対して、さほどの違和感もなく、リアリティを感じられるのもまた事実ではないでしょうか。


一般にヤオロズノカミ――八百万神と呼ばれるように、この文化圏は多神教文化圏であり、ありとあらゆるものに神が宿っています。

「◯◯の神様」の◯◯に、ちょっとありえないようなモノを入れても、よもやと思ってインターネットで検索をかけてみると、なんとソレを専門に祀った神社が本当に実在するケースも少なくなさそうです。

トイレの神様も、曲のヒットで今後は変動するかもしれませんが、とりあえず2010年3月中旬時点で「トイレの神様」の単ワードでgoogle検索してみると、伊豆にあるトイレの神様を祀った神社(厳密にはお寺の中にあるお堂……寺の中に神様を祀るエリアが共存しているというのも多神教文化圏ならでは)を紹介したページが最上位に来ました
 伊豆・天城湯ヶ島 明徳寺
http://www.izu.co.jp/~viserge/amagi1.htm
排泄やその他下半身方面の健康にご利益があるようです
「トイレの神様 伊豆観光」でand検索すれば、上記以外の関連サイトもヒットします

したがって保護者が子どもに対するしつけにおいて「◯◯の神様」を持ち出すこともまた、珍しい事例ではないわけです。

食べ物の好き嫌いをする子に対して
ピーマンの神様のバチが当たるよ!」
とか
遊んだ後のおもちゃの片づけを忘れがちな子には
おもちゃの神様が悲しんでるヨ」
など。

いゃー、まさに神様の大安売りですネ(^^)。


そんなわけで、この文化圏の子どもたちは、そんなことを言われながら成長し、結果として人々の間では、身の回りのそこかしこに神様がいるという多神教感覚が共有され続けるわけです。


もちろん一神教文化圏においても、子どものしつけに神様が引き合いに出されることはあるでしょうし、例えばキリスト教の観念の下のほうが、悪いことはまずもって神の前において罪であるという概念は厳格なのかもしれません。

そして、一神教と多神教は どちらが優れているのか!? なんてことは、もとより決められる事柄ではありません。


ただ、唯一絶対の神のみが正統である一神教に比して、さまざまな神様が並立する多神教文化圏の感覚は、価値規準の相対化(ひいては多様性・共生などとも)親和的である側面が大きいということは言えるかもしれません。
つまり、絶対的な正義をつくらないという点において、社会において何か価値観の対立が発生したときに調整がつけやすい、という長所は発生するのではないでしょうか。

セクシュアルマイノリティに対するヘイトクライムが、例えばアメリカなどではある種の宗教的な信念に基づいておこなわれがちなのに対して、日本では世間の空気に左右されているだけというのが、ある意味こわい反面、根は深くないと言えるのも、コレと関係しているわけです。

あるいは、日本の民主政治は一見すると欧米に比べてやはりなかなかうまく機能していないようにも見えますが、効果的に改良さえできるのなら、YesかNoかの多数決式二大政党制型の民主主義ではない、多様な立場の人々の意見をできる限り尊重して調整を図ることができる、真の民主政治にかなり近い位置にいるとも考えられるでしょう。


私たちは、こうした多神教文化圏の特長を理解し、上手に生かしながら、よりよい社会づくりに取り組んでいきたいものです。

 


◎キリスト教とイスラム教の対立がいくつもの紛争の種になっているのは、悩ましい国際問題ですが、これを、多神教文化圏の人間というのは、「キリスト教徒はキリスト教の神様を信じているのに、イスラム教徒はイスラムの神様を信じてるから、それでモメるんだよなぁ」というふうに理解しがちです。
しかし、対立の渦中にある各々の原理主義者は、じつはそうは考えていなくて、「神様というものを、あいつらは誤った解釈・誤った信じ方をしておる、ケシカラン」ととらえているのだそうです。
一神教の原理主義者にとっては、そもそも神様とは1コしか存在しないものなので、「◯◯の神様」という概念が根本的に存在せず、“あっちは「キリスト教の神」で、そっちは「イスラム教の神」”という設定理念自体が、想像可能な範囲の遥か遠い外側なのでしょう。
文化の違いというのは、こうした世界の理解の方法そのものにも関わってくるものなんですねぇ。

 

◎文化圏の違いと言うなら、植村花菜『トイレの神様』はじつはとても関西文化圏的な作品で、見方をそのように変えてみると、おばあちゃんの「トイレの神様は……」発言というのも、ある種の関西の“いちびり精神”に裏打ちされた内容であることが伺えます。
あと、歌詞の2番で、頼んでおいたビデオの録画をやっぱりというか案の定おばあちゃんが失敗して、それを幼い日の“私”が泣いて責めるくだりがあるのですが、その録画を頼んでいた番組が吉本新喜劇だというのも、なかなか関西チックですネ(^o^;)。
関西では週末の昼テレビをつければ、土日ともに吉本新喜劇系の番組がこともなげに毎週オンエアされてます。こうした環境が関西人のコミュニケーション文化に大きな影響を与えているであろうことは、じゅうぶんに推測可能でしょう。

 

 ◎植村花菜『トイレの神様』は
  アルバム「わたしのかけらたち」に収録

 

 


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