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【海原雄山じゃなくても】スイートプリキュアを敵認定♪【怒るレベル】 [メディア・家族・教育等とジェンダー]


「子どもだましの企画も ここまで低級だと
だまされる子どももいないのだ」

(さくらももこ『ちびまる子ちゃん』1巻(集英社)54ページ)


ブログのアクセス解析を見てみると、秋口から年明けの今頃にかけて、昨年度は日曜日になるたびに【 キュアサンシャイン 性別 】の検索ワードが増えた話は昨年度のうちにしましたが、ソレに相当する事象が今年度は【 スイートプリキュア つまらない 】なのは、はてさてどうしたものでしょうか。

件の番組はといえば、過去シリーズでは例年この1月は最終決戦編で物語もクライマックスとして大いに盛り上がるタイミングなのですが、やはりここまでの積み重ねというものができてないがゆえに、今ひとつピンとこない内容になっていると言わざるを得ません。

ツイッターなどで交わされている辛口感想の類を見れば、もはや次回作『スマイルプリキュア』に期待する声の陰で『スイートプリキュア』は消化試合化している気配も濃厚です。


スイートプリキュアがつまらない理由については、前回まとめたとおりなのですが、
 ◇キャラが立ってない(人物像に深みがなく感情移入できない)
 ◇世界設定の底が浅い(物語世界が平板で魅力に乏しい)

…の2点については、これは本来番組がスタートする前の最初の時点でキチンと設計して、必要な設定を整えておくべきものですから、まぁ後からどうこうできるものではありません。

一方
 ◇ストーリー展開が不自然(登場人物の言動に違和感)
…な件については途中からでも修正は不可能ではないはずなのですが、『スイート』では中盤から脚本の方針などが路線変更されたりもしたものの、結果としてはかえってストーリー展開の支離滅裂さに拍車がかかったのが否めません。


そしてなにより、最大の問題点である、何が幸福で、何が不幸なのか!? がいっさい語られていない件については、いまだに何の回答も示されていません。

毎回くり返された、街が敵の攻撃に遭った際「不幸のメロディ」を聞かされたら人々がいきなり悲しくなるという描写もあまりにも薄っぺらです。
例えば「不幸のメロディ」を引き金として、その人が抱えてる何らかの悲しみ要素が刺激され、それゆえに悲しくなるというプロセスを丁寧に描けばもっと深い人間描写になるとは、はたして番組制作スタッフは誰一人として気付かなかったのでしょうか?
(思えば『ハートキャッチプリキュア』は、そこのところの描写が非常に充実していた)

そんな状態で「しあわせのメロディ」云々と言われても、それでもたらされる幸せというのもしょせん表面的なものでしかないのではと、期待感が上がらないのは無理もないことです。
子ども番組として、視聴者である子どもたちに伝えるべき「シアワセとはこういうことなんだヨ」というメッセージが何ら描けていないこの『スイートプリキュア』は、まさに「中身がない」のです。

あと、付け加えるなら、音楽がモチーフとされたことも、まったく生かされていません。
本来なら当初そう企図されていたはずの、物語を通じて「あぁ音楽って本当に素晴らしいものなんだナ」と視聴者が実感できるような展開は全くなかったです。
せめて何か音楽にまつわる造詣が深められるような小ネタすら、印象に残るものは皆無です。
だいいち主人公たちと音楽の関わりからして、まったく描けていないのです。音楽を触媒として作品世界に感情移入するなど、できようはずもありません。
実態は、ただただ戦いの小道具として音楽が都合よく使われているだけ。
もしかして、最も音楽を冒涜しているのは、この『スイートプリキュア』の制作スタッフなのではないでしょうか!?

もはや伝統あるブランドに成長したプリキュアシリーズに、こんなにも一本スジの通ったテーマがない作品がラインナップされたことは汚点以外の何者でもないし、メイン視聴者として想定されている小さな女の子にとっても、自分たちにふさわしいと推奨されるアニメがかようなていたらくなのは悲しい出来事だったのではないでしょうか。

いわば、それっぽい絶対悪となんとなく伝説の戦士になった主人公たちをテンプレに沿って戦わせているだけのテーマもメッセージも感じられない中身のないアニメが「日曜朝のゴールデンタイム」に在ったことが、2011年の2番目の不幸だったと言ってもよいでしょう。


プリキュアシリーズが、「女の子たちだけで自ら戦い、自分たちの夢を守りシアワセを勝ち取る」という基本フォーマットを確立し、従前指摘されていた「子ども番組の戦いの中では女性は添え物」「女性メインのようなジャンルでも多くは恋愛ボケ」には当てはまらないスタイルの子ども番組を開拓してきたという点は、大いに評価されるべきところです。

そんな意義深いプリキュアシリーズなのですから、制作サイドはもっと自覚を持って、その物語の質的な充実・向上に努めなければなりません。


次回作『スマイルプリキュア』は、すでにオンエアされている予告映像を見る限りでは、なかなかイイ感じに仕上がっているように見受けられますが、しかしながら、何がバッドエンドでどういうハッピーエンドがハッピーなのかについてキチンと掘り下げて描かないのなら、スイートプリキュアの轍を踏むことになるので、そうはならないよう期待したいです。

 

★★★★★★★★★★

というわけで、ここで欲求不満解消の総決算として、従前より提案していた、あの『けいおん!』のメンバーにそのまま変身してもらう……というパロディを大公開!
あくまでもパロディ作品です。元作品への敬愛を忘れずにお楽しみください。

真『スイートプリキュア』
第1話「ババーン!けいおんプリキュア誕生ニャ」

「えっ 軽音楽部に?」
放課後、音楽準備室を訪ねてきた1年生4人を見て黒川さわ子は軽く驚いた。
3年生が卒業して部員がゼロとなっていた軽音楽部は、誰も新入生が来なければ自然消滅して廃部となる状況で、そんなところへわざわざ入部希望者がまとまって来るとは思っていなかったのだ。
「ワタシ、澪ちゃんとバンドを組むのが夢だったんです」
そう訴えるのは南野律。ショートカットの髪にカチューシャがトレードマークの、いわゆるオテンバ娘タイプだ。
律の発言中で「澪ちゃん」と言われたのは傍らにいる西島澪。クールで知的な印象の彼女は黙って頷いている。
「アタシも軽音部に入りたいなぁって思ってたら、ちょうど澪ちゃんや律ちゃんと出くわして……」
そう明るく言い放つのは北条唯。ややマイペース気味の天然系をにじませている。
「ねっ、ムギちゃんも同じだよね」
唯がそう続けると、となりの東山紬がゆっくり口を開く。
「そうなんです。なんか3人を見てて楽しそうだなぁ~って思って……」
その上品な笑顔とおっとりとした口調からもわかるように、紬からはそこはかとなくお嬢様オーラが立ちのぼっている。
「……んー、わかったわ。じゃ4人とも入部ね」
軽音楽部がなくなれば、顧問の仕事も吹奏楽部の方に専念できるとも思っていたさわ子だが、こうなってはしょうがない。
(…………それにこの子たちなら、もしかして)
さわ子は一瞬考えたが、じきに決断した。
「そうそう、軽音部に入ったんなら、紹介しておかなきゃね。……ハミング、おいで」
さわ子に呼ばれたかのごとく、おもむろに机の下からぬいぐるみのような奇妙な白ネコが姿を現した。
「はじめまして、『ハミング』ニャ、軽音楽部の守り神みたいなもんニャ」
4人の反応は二分された。
「ね、ネコさんが……」
「し、しゃべった……!」
驚いて退いたのは澪と紬。対照的に律と唯は一歩前へ出た。
「スゴーイ!!」
「かわいいーっ!」
いきなり律に抱え上げられ、唯に抱きしめられたハミングは、戸惑いながら続ける。
「よ、よろしくニャ。あと『スキャット』って名前の、黒い子も居るからニャ」
そのときだった。
音楽準備室に何か黒い影のようなものが下りた。
 ~~~~~
  中略
 ~~~~~
「この世界にも音楽などは要らぬ。すべての音楽は俺様が消し去ってくれるわい」
異形のモンスターがそう呟くと、黒いエネルギー体はさらに渦を巻いた。
「そんなことは許さないニャ」
「あなたたちの思い通りにはさせないワっ」
ハミングとスキャットは必死に結界を張って抗っているが苦しそうだ。
「……なんだかわかんないけど、ムカつく」
戸惑いつつその様子を見ながら、最初に口火を切ったのは唯だった。
「ホント、せっかく軽音部でバンドが組めると思ってたのに」
そう律が後を受けると、澪と紬も続いた。
「うん、アイツ、なんか気にくわない」
「いかにも悪者って感じですよねー、いけませんワ」
そんな4人の気持ちの高ぶりを背後に、スキャットは何かを感じ取った。
「あの子たち、やっぱり……。ねぇ! ハミング!?」
「まちがいないニャ、この気配は…………」
結界が破られそうになりながら、ハミングがそう応えた瞬間だった。
何かが強い光を放った。
4人の胸の奥から、眩いエネルギー体が湧き出し、そして各々の身体を包み込む。
「こ、これがこの世界の伝説の………」
「プ、プリキュア……ニャ!?」」
光るエネルギーの束は音楽準備室の片側に充満し、そしてはじけた。
その中から姿を現したのは――。
「掻き鳴らせ 希望のギター! キュアメロディ!!」
「叩き込め 情熱のドラム! キュアリズム!!」
「響かせよ 平和のベース! キュアビート!!」
「溢れ出よ 癒しのキーボード! キュアハーモニー!!」
 ~~~~~
  後略

シリーズ2期『スイートプリキュア♪ライブ!!』
第2話「アーアー!けいおんプリキュアに新メンバー入部ニャ」

  前略
 ~~~~~
「…ごめんね、あずにゃん、私たちってプリキュアもしてるんだ」
敵の攻撃をかわしながら、唯が梓に語りかける。
「音楽を世界から奪い去ろうとしている悪い奴と戦ってるの」
同様に、律が説明を補足した。
澪と紬も普段とはうってかわった敏捷さで敵を翻弄している。
梓はおろおろしながらその様子を見守っていたが、先輩たちの真摯な姿勢に、しだいに心が熱くなった。
敵のモンスターは一見劣勢に見えたが、なんとか持ちこたえ、やがて伺っていた機会を捉えた。
会心の一撃が放たれ、4人のプリキュアは吹き飛ばされた。
「あぁっ」
梓は気が気ではなかった。
先輩たちが――、大好きな軽音楽部の先輩たちが、大変なことになっている。
なんとか、なんとかしなければ……。
「て、天道さん」
「に…逃げて」
苦しそうに言う紬と澪の声に、しかし逆に梓の決意は固くなった。
(自分も…戦いたい、先輩たちといっしょに!)
その思念を待っていたかのように梓の胸の奥から眩く煌めくエネルギーの塊が湧き出してきた。
「あ…、あれは」
「まさか、あずにゃんが!?」
光の束がはじけたとき姿を現したのは、メロディ、リズム、ビート、ハーモニー、そのいずれでもないが、しかしまぎれもなく伝説の戦士プリキュアの姿だった。
「心つながれ 共感のボーカル! キュアシャンテ!!」
 ~~~~~
  後略


 


キミは琉球の風を見たか [その他雑感つぶやき]

お知らせブログでも述べたとおり、去る12月半ば、我が娘・満咲を伴って、沖縄へ行ってきました。

直近の沖縄県訪問は2005年の宮古島で、そのときは戸籍改名直後にして運転免許証も更新直後ということで、女性としてレンタカーを借りるという課題を初体験する旅行でもあったのですが、それらも含めて南の島の青い海と空を満喫できた、なかなか充実した旅でした。

ただこの当時は関西空港から宮古島まで直行便が飛んでいたので、乗り継ぎで那覇空港に寄るということもなかったんですね。
したがって沖縄本島は、今回は1994年以来の17年ぶりだったわけです。

思えば1994年あたりというのは、ワタシがいちばん煮詰まっていたころで、沖縄旅行中も、その美しい自然には癒されながらも、逆にそれを一緒に見る人もおらず、そしてその先の男として生きていく展望も果てしなく不透明感に満ちていて、なんかもぅえもいわれぬ閉塞感を抱えての一時的な逃避行といったニュアンスが濃厚でした。

さらには、はじめての沖縄は1985年、大学時代の合宿でした。
当時の周囲の男子学生の中には沖縄といえば「ナンパ旅行」のように語る者もいて、そのあたりの自分との相容れなさに、激しく悶々としていたりもしたものです。
加えてちょうどこの訪沖は、病床の母が余命わずかというタイミング。最後のお土産にと、ビーチに寝そべる少年がモチーフの貝細工を買って帰ったことも記憶しています。


今般、沖縄本島のあちこちを巡りながら、そうした沖縄方面旅行の自分史をふり返れば、そのときどきの思いもしみじみとよみがえり、ちょっと切なくなる瞬間も何度かありました。

今は亡き母との思い出や、そしておそらく晩年の母は特に、私のことを「女の子に産んであげていればよかった…」と思っていたフシもないではないこと――もはや推測するしかないですが。

そんな母の愛情を回顧しつつ、ふと傍らの満咲を見遣れば、さて、私は満咲に対してあのころの母のような存在たりえているのでしょうか?

でも、それも含めて、そうしたさまざまな思いを抱えて生き延びてきたキセキが、今この島で交錯し、それがまた次の空へとぶ………。

満咲をぜひとも未来へ連れて行く責務とともに、自分自身もまた、まだまだ訪れ続ける明日が、琉球の風の中に見えたような気がしました。


ありがとう沖縄♪ヽ(´▽`)/


 


今そこに咲いている実らない花 [多様なセクシュアリティ]

特種東海製紙株式会社が主催する「紙わざ大賞」というのがあり、先日その第21回応募作品の入賞作品展が東京で開かれていたらしいです。

作品の募集要項には求める作品として「紙という素材を追求した“紙わざ”作品。平面・立体など形態は問いません」とあり、作品展報道での説明には「ペーパーレスの時代に、紙の魅力や可能性を発信しようと企画されたもの」とあります。

入賞作品のクォリティはおしなべて高く、まさしく息を飲むほどの素晴らしいペーパーアートの世界が展開しています。

↓特種東海製紙株式会社 紙わざ大賞↓
http://www.tt-paper.co.jp/kamiwaza/

↓紙を使った創作作品「紙わざ大賞」まさに神業-MSN産経フォト↓
http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2011/09/0916kamiwaza/


で、この入賞作品のうちの「実らない花」という作品が、ちょっとした話題になっていました。
なんと、セーラー服姿の女子高校生2人が教室でキスをしている様子!?
 を、ペーパークラフトで立体造形してあるのです。
つまり「百合モノ」というか、女性同性愛をモチーフにしたというか。

ペーパークラフトとしての造型がハンパないのに加えて、その細かなディテールのこだわりもなみなみならぬレベルで、2人のキャラの描き分けなどもしっかりなされているために、鑑賞者がその場面に対して想像を巡らせ思い浮かべる物語に対しても、非常に奥深く幅広い可能性が提供されています。
アートとしての完成度は非常に高いと言ってよいでしょう。

ワタシなぞは(webで写真を)見た瞬間、直観的に気に入ってしまいました。
ズバリ私のツボに来たということなのでしょう。


ただ、もちろんこの件については、否定的な反応も世間にはあるようです。

例えば、同性愛自体を嫌悪する意見や、それがペーパーアートのモチーフに使われることへの反発。
あるいは、仮に異性愛であっても、教室内での行為であることなどが不謹慎との指摘。

また基本的には理解を示しつつも、細部の作り込みにことさらに性的な要素が含まれている点――例えば一人のスカートが短く、なぜか靴下を脱いでいる描写など――への疑問なども賛同者が少なくないようです。

このあたりは、ひとりひとりの感覚の相違があるので難しいのですが、継続的な対話と理解の姿勢が今後も重要ということになりましょう。
そうして、そのような立場の異なる人どうしの話し合いのきっかけとなり、相互理解の触媒たりうるということも、芸術のひとつのはたらきだと言えます。


一方、「実らない花」という作品の題名に対する批判もあったようなのですが、これについてはどうなのでしょうか。

同性愛の生殖の不可能性や社会的に認められない風潮などを踏まえて、それらが「実らない」というイメージに繋がることは、現実として巷間よくあることで、そうした世間的なイメージに依拠することは、作品がどのようなものなのかを題名に説明させるにあたっては、必ずしも忌避する必要はないのではないでしょうか。
そもそも題名・タイトルというものは、わかりやすく端的に作品を説明するものというのが原則です。

また、同性愛の生殖の不可能性を含めた、社会の中での否定的な位置づけが、実際の当事者の切なく悲しい思いに繋がることは、現実として多々あります。
それをタイトルへ「実らない」というあえてネガティブな語句として織り込むことで、そうした同性愛をめぐるさまざまな情感を、作品に纏わせることもまたできているのではないでしょうか。
そのことが、作品の鑑賞者の心の奥底を揺さぶる力にもなり、結果、性の多様性に寛容な社会の形成にも資するはずです。

そして、同性愛が「実らない」ものになってしまうのは、つまるところ社会の秩序や体制が二元的な性別観に基づく異性愛主義に満ち満ちていることに、その根源があります。
セクシュアルマイノリティに対する差別というのは(というか、あらゆる差別が)、個々の一般人の心がけのみでどうこうできるものではなく、そうした秩序や体制に立脚した構造的なものなのだと理解する必要があります。
そんな中で、この「実らない花」のようなある種の力のある作品に、この題名をつけることは、そうした社会状況の不条理の告発にもなるのではないでしょうか。

すなわち、
 1:作品内容の説明になっている
 2:モチーフとなっている同性愛的登場人物の心情を想起させる
 3:同性愛禁忌社会の在り方を告発する
これら3つの機能が絶妙のバランスで結実したのが「実らない花」という作品タイトルであり(それでいて結果的にはビミョーにベタなテイストなところもまた良い味を出しているというような意見もあります)、あるいは作品そのものなのではないかと考えられます。

 補足(2011/11/04)
あと、この記事の標題に含意しておいたので、あえて当初は明記しませんでしたが、「べつに実る必要ないじゃん。だってアタシたち今ここでこうして『咲いて』いるんだもん♪」という自己肯定でもあるでしょう。


むろん、例えば作者にインタビューしてみたら、そんなことはぜんぜん考えずに、単に安易に同性愛をモチーフに取り上げただけだった……りしたのなら、手放しで肯定できる事象とは言えなくなります。

しかしながら、あくまでも作品そのものを見た限りにおいては、誰しも「個人の感想です」以上のことは言えません。

その意味では、この入賞作品に対する各々の意見というものにも、絶対の正義はないということになるでしょうね。


 


ドラマ『IS』親子鑑賞会その3 [多様なセクシュアリティ]

六花チヨ原作のテレビドラマ『IS ~男でも女でもない性~』は、先日つつがなく全10回の放送が終了しました。

   

10話で最終回ということは、1クールのドラマとしては短めで、最後はかなり駆け足感がなきにしもあらずでしたが、全体としては、細かなツッコミどころは多少あったにしても、よくまとまっており、セクシュアルマイノリティを取り上げたテレビドラマの歴史に確実に新たな1ページを刻んだと言ってよいでしょう。
視聴率的には華々しい数字が出しにくい題材である中で、番組スタッフやキャストは難しいテーマに真摯に向き合い、よくがんばったのではないでしょうか。

特にラストの主人公ハルのセリフの、高校入学当初の女子として通学すべしという条件が撤回されたために、中学までそうしていたように男子制服を着て登校し始めたものの、それもまた何か違和感がある、つまり世の中は単純に人を女かそれとも男かで二分しているけれども、そのこと自体が誤っているのではないか、そしてそのことをわかってくれる人の輪が少しずつ広がることで、自分たちは生きやすくなっていくんだという趣旨は、まさにそのとおりで、ドラマのシメにこれが述べられたことは、大いに意義があったと思います。


ただ、ドラマ終盤の展開で、いささか描写が控えめすぎると感じられたのが、主人公ハルと伊吹センパイの関係です。
伊吹先輩は中盤でハルが恋心を抱いていることを自覚する相手であり、ハルが「本当の自分をみんなにわかってほしい」と全校生徒に対して自分がIS――性分化疾患であることをカミングアウトするに至るきっかけともなる重要人物です。

しかし第9話では、ハルは伊吹センパイにこれからもせめて「友達」でいてほしいと告げ、それを聞いた伊吹センパイは、いわゆる恋愛的な関係性を拒否されたと受け取って絶望的な気分になるというくだりがありました。
ですが「友達で」が、恋人としての関係性の可能性を拒否する言葉として機能する社会風潮と、ISやその他のセクマイを苦しめる性別二元制&異性愛主義は、じつは表裏一体。
となると、そこを越える二人のつながりを描かないと、このドラマとしてはダメなはずです。
ところが、これに続く最終回の第10話では、二人をめぐる描写はいたく控えめで、かなりの内容が、視聴者の想像に委ねられた、含みを持たせた形となっていました。

この点、当初は私も、作品のテーマが斟酌された結果、安易に異性愛的恋愛至上主義に迎合した形でカップル成立にてめでたしめでたしという展開をよしとしなかったからなのかななどと思っていました。
しかし、真相はどうも正反対だったかもしれないと、後日録画を見なおして思い直しました。
すなわち、最終回のラストでは、ハルは男子として登校してきています。
だから、そんなハルと伊吹センパイのラブラブな場面があると、それは見かけ上男性どうしの同性愛描写となってしまうわけです。
そうした映像表現が放映されると、やはり性の多様性に理解のない層からはクレームが来るかもしれない――。
そこで、そのようなシーンが明示的に描かれることが避けられたのではないか? というのが私の推理したところであります。

そして、代わって、しっかりと結ばれたのは、レオンくんと もうひとりのIS美和チャンの2人ですね。
悩んだ末 レオンくんに自分がISだと告白した美和チャンに対して、レオンくんはソレでもやっぱり美和チャンが好きとの旨を明言。
これにともなって2人がヒシと熱く抱擁するシーンもしっかり描かれました。
ここは、日頃はフツーの恋愛ドラマに対しては覚めた目で見ているワタシなぞも、ドラマ設定上「男とか女とか、そーゆーものを越えた性別にカンケイない」だと理解できるので、かなり素直に感動できたものです。
反面、深く考えずに見ていれば、このシーンのこの2人、あくまでも男と女に見えるんですね。
だからこそ、ハルと伊吹センパイの分までこの2人に仮託して、ココでこうして描いておくことが可能だったというのは、はたして穿った見方に過ぎるのでしょうか?

恋愛ドラマ大好き層のニーズを満たしつつ、そうした層が内面化している二元的性別観と異性愛主義を脅かさない。
セクシュアルマイノリティの問題を取り上げ、性の多様性を描こうとするテレビドラマにおいても、そうした配慮をしないと制作が難しいのだとしたら、そんな社会状況こそが、やはり問題なのではないでしょうか。


ちなみに、いつもいっしょに見ていた我が娘・満咲ですが、最終回後のコメントは…
「レオンくん、イイ子やぁ~!」

レオンくんが、すこぶる気に入ったようです。
『花咲くいろは』の孝一クンもお気に入りなようなので、まぁある種、想定の範囲内すぎるリアクションでもありますねぇ。

しかし満咲よ。
世界の人々は忘れちゃおらんゾ。
あのハートキャッチプリキュアの最終回の後で私たちが合意した結論を!
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2011-02-27_HcPreCure-Final

思えばドラマの後日談で、ハルがその日の気分で制服を取っかえ引っかえ着て行ってたら、これはまたオモシロかったかもしれませんね。

 

★その他ドラマ『IS』関連のツイッターでのツィートはツイログ
http://twilog.org/tomorine3908tw
ツイログで【IS】や【is_tvtokyo】などにて絞込み検索してみてください

 

◎ハルが全校生徒に向けてカミングアウトするために採った方法は校内放送
しかし、こういうやり方だけがカミングアウトではない……というか、むしろオススメできるやり方ではないので、テレビで描くのには問題があったかも。
私見ながら、カミングアウトは出来る相手からアッサリ……を少しずつ広げていくのが現実的にはベストかと。
また、自分のカミングアウトで世界を変えてやる!みたいに大上段に構えると後でしんどくなるので、あくまでも、今のこの相手との関係が、今より少しハッピーになればイイなくらいの心構えで進めていくのがよいと思います。


◎ちなみにハルが校内放送でカミングアウトした後の、一般生徒の反応――無関心だったり、否定的だったりというのは、じつはもしかしたら番組に対する世間の多数派の視線を、はしなくも表していたのかも…!?


◎作中での主人公周辺の人々も「ISと性同一性障害はどう違うの??」という素朴な疑問を抱いている描写がありましたし、少しセクシュアルマイノリティのことに詳し気味の視聴者にとっても、ソコは知りたいポイントだったかもしれません。
が、残念ながらドラマ中ではそのあたりしっかり解説する余裕はないまま終わってしまいました。
この点、どこかで誰かが補足することは望まれるのですが――――え゛っ、ワタシの仕事!?(^o^;)
ま、とりあえずこの場でカンタンに述べると、両者とも、世間が思っている男とか女といった性別にまつわる「普通」の規準から外れるがゆえに苦しい思いを強いられるという面では、同じセクシュアルマイノリティなわけです。
場合によっては、両者に共通するような悩みも存在しないではありません。
が、一方では、性分化疾患――ドラマでの「IS」は、その身体的な側面が明確な男女二分にそぐわないことに問題が起因するのに対し、性同一性障害は身体的には世間が思っている男女のいずれかには分類可能なものの、それによって割り当てられる性別が本人の希望に反することが問題の発端となるところが異なります。
そうした相違が、両者が社会で直面する各種の困難の細かな差異につながっていることもありえます。
本館の↓「10分でわかる性の多様性講座」↓も参考に
 1:セクシュアルマイノリティの基礎知識
 2:「性別」とセクシュアリティの多様性


 


海賊戦隊ゴーカイジャー「宇宙最大のお宝」の正体 [その他雑感つぶやき]

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★ めざせ地図にない場所を、幻なんかじゃないんだ ★
★ たったひとつ、自分だけの宝物、誰も探してる ★
★(「海賊戦隊ゴーカイジャー」作詞:岩里祐穂 より)★

本年度の戦隊シリーズ『海賊戦隊ゴーカイジャー』、シリーズ通算35作目記念作品として絶好調のうちに、はや番組は折り返し点を過ぎ、物語はますますの佳境となっております。

ゴーカイジャーの面々というのは、当初は「宇宙最大のお宝」が、どうやらこの辺境の惑星・地球にあるらしいということでやってきただけの、宝探しが目的の宇宙海賊ご一行様でしたが、おりしも地球侵略に来た宇宙帝国ザンギャックとひょんなことから対立する行きがかりとなってしまい、また「宇宙最大のお宝」を手に入れるためには、今までの歴代34戦隊の「大いなる力を入手することが必要と知らされたために、さまざまな過去戦隊のメンバーとの交流も経たことで、昨今はなんとなく地球を守って戦うことの意義に気付きはじめている今日この頃といったところでしょうか。

6人目の追加戦士ゴーカイシルバーとして地球人の 戦隊オタク 歴代戦隊の知識に詳しい青年を迎えたことも、その意味では大きなターニングポイントだったかもしれません。


で、そうなると、そもそもいったい「宇宙最大のお宝」とは何なのか!? というのも、あらためて気になってくるこの時期であります。

ここまでの流れをふりかえって見てみると、案外シンプルに「それは地球を愛する心だ!」なんてオチになりそうな予感もしないではないのですが、まぁあくまでも子ども向けヒーロー番組ですから、そういう王道展開であっても許せるというか、それこそが望ましいというのも建前です。

◎アニメ版人気海賊もの『ワンピース』の「ひとつなぎの大秘宝」のほうについても、ファンの間では様々な予想が候補として語らているようですが、こちらに関しては、もっと何らかの具象物であることが原作者によって示唆されているらしいです。
その点も踏まえての、この「ひとつなぎの大秘宝」――ワンピース――の正体についての私の仮説なら、ツイッターでのお馬鹿ツイートを参照(^^ゞ
http://twitter.com/#!/tomorine3908tw/status/113606860854140928

ここまで非常に上手いつくりで幅広い層から好評の『海賊戦隊ゴーカイジャー』にあっては、そのへん含めて可能な限り、子どもも大人視聴者もともに納得できて、かつ世間的にも好ましく受け止められる「三方良し」的な決着を期待したいところですね。


ただ個人的に、この戦隊シリーズ35作目記念作品において、歴代34戦隊の「大いなる力」を入手することで顕れるという「宇宙最大のお宝」の正体について、あれこれ考えを巡らせてみたのですが、その結果、あることに思い至りました。

それは、シリーズ中の1作品単体において宝探しがおこなわれているのではなく、連綿と続くシリーズ全体の流れとの関わりの中での「宝」というところにある種の大いなる意味があるのではないか? という点です。

それを象徴するのが、オープニング映像中の、キャプテン・マーベラス(ゴーカイレッド)が佇む傍らを歴代レッドが駆け抜けていき、最後にゴーカイレッドのイメージがマーベラス自身に重なるという演出。

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まず『ゴレンジャー』のアカレンジャー

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それに続く歴代レッドたち

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直近のゴーオンジャー、シンケンジャー…

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ゴセイジャーが通り過ぎた後ゴーカイジャーのレッドが

※画像はユーチューブ動画より
http://youtu.be/Ow_TnVUloko

はたしてこれの意味するところは何でありましょう?

もちろん35作目記念作品として過去34作品をフィーチャーすることで、ゴーカイジャー自体も盛り上げつつ、戦隊シリーズというコンテンツ全体の価値相場を高めようという、営業的な企図は別な次元にあるでしょう。

しかしそれも含めて、この駆け抜けていく歴代34レッドというのは、シリーズが経てきた年月、重ねてきた時代の蓄積そのものとも言えます。

そうして、シメとして現行戦隊がソレを受けるということは、その果てに現在がある、現在というものが、積み重ねられた過去の歩みの上に現在が成り立っている――ということを表してはいないでしょうか。

したがって、歴代34戦隊の「大いなる力」と関わりがあるとされる「宇宙最大のお宝」の正体も、そうした34作品に及ぶ歴史の中で受け継がれ、培われてきたものと密接なつながりがある、もしくは、そんな現在に繋がる過去の蓄積そのもの――という考え方が可能になります。

作中での「宇宙最大のお宝」の謎解きが、そのような考えに則っておこなわれれば、ワタシとしては嬉しい限りですが、最終回がまだ数ヶ月先の現時点では期待の域を出ないですね。


そして、視聴者の側からこの件を裏返して見てみると、なんとそこに作品からの重要なメッセージを読み解くこともまたできます。
それは案外、重要な隠しテーマとして『ゴーカイジャー』の基底を成しているのかもしれません。

例えば『秘密戦隊ゴレンジャー』が始まった1975年、個々の視聴者もまた、それぞれの場所で、何かをして生きていました(まだ生まれてなかったとかゆー申告は却下!(^o^;) ちなみにワタシの場合は小学生)

以降、『ジャッカー電撃隊』のときも、『バトルフィーバーJ』のときも、『電子戦隊デンジマン』のときも同様です。

はたまた1981年の『太陽戦隊サンバルカン』、1982年の『大戦隊ゴーグルファイブ』…(中略)…1997年の『電磁戦隊メガレンジャー』においても然り。

さらに1998年『星獣戦隊ギンガマン』、1999年『救急戦隊ゴーゴーファイブ』を経て、『未来戦隊タイムレンジャー』で世紀を超え…(中略)…『侍戦隊シンケンジャー』の2009年、『天装戦隊ゴセイジャー』の2010年に至るまで、各々の視聴者は、常に、どこかで、何かをしながら生きていたのです。

その道筋は、中には順風満帆、幸せ全開、春爛漫な時期もあったかもしれませんが、逆に陰陰滅滅、絶体絶命、臥薪嘗胆、艱難辛苦に満ちたところも(あるいは「ほどほど」「ぼちぼち」な年も)あったにちがいありません。
また、順調な周期や苦悩の周期にしても、それぞれの具体的な内実は、そのときどきによって異なっていたことでしょう。

(ワタシの場合だと、思春期に入って相応に充実した青春模様の一方で、対人関係進路のことで悩んだり、やがて社会人になって仕事恋愛を模索しつつも、どうしようもなく行き詰まったり、そしてソコにはじつは性同一性障害が絡んでおり、ついには社会的に性別を女性に変更して生きることに踏み出し、現在に至る………というプロセスが充当します。詳しくは一連の拙著にて(^^))

そうして、私たちは、そんな毎年毎年を、ときに浮かれつつ、そしてときに歯を食いしばって耐え、場合によってはもう生きるのがイヤに思えたりしながらも、それでも懸命に前を向いて、ここまで歩いてきたのではないでしょうか。

つまり、スーパー戦隊シリーズが放映されてきたこの三十有余年というのは、視聴者が必死に生きて抜いてきた時間軸を象徴的に表しているのです。
戦隊シリーズ各作品が、折々において、名作と絶賛されたり、特に注目されなかったり、いちじるしく不評であったりしながらも、延々と継続してきたこととも、まさしく照応するかもしれません。

その果てに今がある。
がんばって前へ進んできた末に、この2011年が繋がり、だからこそそこでこうして『海賊戦隊ゴーカイジャー』を見ることができているのです。

そうして、そんな実績は、また来年以降も続く日々を乗り切っていくための大いなる力となってくれるにちがいありません。


かかる具合に、日々のがんばりを自ら受け継いで、年年歳歳、自分なりに前を向いて、可能な限りの一生懸命を生きていけば、それが10年なら10年分、30年なら30年分、自分の人生の資産として貯蓄される――。
そんなふうにそれなりに生きてきた経験が、次なるステージををがんばっていく自分にとってのリソースとなり、あるいは、それこそが、かけがえのない「わたし」の人生そのもの――。

そしてそのとき、人は呼ぶのです。
これをこそ「自分だけの宝物と。


……これが『海賊戦隊ゴーカイジャー』が言外に訴えている、視聴者への最重要メッセージなのではないかなと、私は思うのです。

 

  


 


【番組自体が】なぜつまらない?スイートプリキュアアンチ記事【不幸のメロディ】 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

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「恋愛とか、結婚とか、子どもが産めなきゃ普通じゃないの!?
 …ママの『幸せ』を押し付けないで!」

テレビドラマIS~男でも女でもない性~第7話、美和子のセリフ(要約)より
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スイートプリキュア』にはもはや見るべきものはないと視聴打ち切りを決めたことは、以前述べたとおりです。
が、その判断に間違いがなかったかどうか気になって、結局のところその後もおおむね毎回チェックし続けている今日この頃です(^o^;)。
まぁ『海賊戦隊ゴーカイジャー』が面白くてリアルタイム視聴のモチベーションが高いために、その流れで→仮面ライダー→プリキュアと、なんとなくながら視聴になっちゃうのも必然なのですが。

ただ、9月のこの時点まで来ても、「その判断に間違いがなかった」ことは、証明され続けています。

最近は我が娘・満咲までもが、「スイートプリキュアはつまらない」と公言しだす始末。

むろん現在では12歳の彼女の視点はすでに大きいお友達に近く、番組本来のメインターゲット層のモニターにはならないかもしれませんが、逆に保育園のころには七夕の短冊に素直に「プリキュアになりたい」などと書いていたこともある、そういうまさにプリキュアとともに大きくなってきた世代だけに、プリキュアのご意見番としての信頼度は高く、だとすると『スイートプリキュア』のこの現状は、かなり由々しき事態なのかもしれません。


いったい『スイートプリキュア』のどこがダメダメなのでしょう!?
もちろん
 ◇キャラが立ってない(人物像に深みがなく感情移入できない)
 ◇世界設定の底が浅い(物語世界が平板で魅力に乏しい)
 ◇ストーリー展開が不自然(登場人物の言動に違和感)
…などといった点を挙げることは簡単にできます。
(第1話のつかみの弱さは、ゴーカイジャーの同じく第1話が、説明セリフがほとんどないのに登場人物の相関関係が容易に飲み込めたり、主人公らの建前上は不合理な選択が視聴者には納得が行くように丁寧に作られていたのと、まさしく対照的かも)

ただ、これらはしょせんまさに個人的な感想にすぎません。
こういう理由でつまらなければ「つまらないからもう見ない」で済む話です。
だからもちろんスイートがお気に入りな人を非難するわけではないし、現に楽しんで見ている子どもたちがまちがいだというような意図もありません


また他にも、物語の展開の中で、主人公どうしでのギスギスした仲違いがやたら描かれることが番組の序盤では繰り返されました。
しかもその仲違いの原因は、お互いちょっと譲り合いきちんと対話すれば済むようなもの。つまり両方が悪いので、視聴者としては最後にさしあたりの仲直りがあっても、納得も感動もしづらいのです。
(逆にもっと激しい衝突であっても、両方が悪くない、双方がソノ点について譲れないことが正当だと視聴者的に理解可能ならOK――『花咲くいろは』22話のように民子が緒花とのケンカで「死ね」とまで言っても文脈上気にならない――なのに)
あるいは、敵との絡みのなかで、嘘をついて騙したりその挙句の裏切りといったパターンでの人間関係の破壊も、常套手段として用いられがちでした。
これらもまた昼ドラならギリギリなんとか許容可能かなと思えるほどのドロドロで、日曜朝の子ども番組としてはいささかダークサイドに落ち過ぎの感がありました。

このようなことが毎回毎回くり返されると、視聴者としてイヤな気分になって、番組自体に辟易するのも無理からぬことです。
日曜日の朝から、見れば気分が欝になるとわかっては、チャンネルを合わせる気にもならなくなるのは、人間の心理として必定です。

この点については、検索するとこちらのサイトなどに詳しかったので、よろしければあわせてご覧になってみてください。
 [http://mitoku.ti-da.net/e3472733.html
 [http://mitoku.ti-da.net/e3476368.html
 [http://mitoku.ti-da.net/e3313354.html
(直リンク先記事の他、サイト内検索できるようになってます)

『スイートプリキュア』はいちおう音楽がモチーフとなっていて、「しあわせのメロディ」で人々の幸福を守る「メイジャーランド」が正義側陣営で、対して悪の側の「マイナーランド」は聞けば悲しくなる「不幸のメロディ」によって人々を不幸にすることを企むという設定なのですが、これではまるで『スイートプリキュア』というアニメそのものが、見る者の気持ちを不シアワセにするテレビ番組だと言わざるをえません。
いわば番組自体が「不幸のメロディ」になってしまっているのです。

いゃ、ただこの点も10歩譲れば、イヤなら見るな、ハイわかりました――の範疇だと考えられなくもありません。


しかし、問題はそれにとどまらないのです。

例えば、「メイジャーランド」「マイナーランド」という名称設定は、むろん音楽のコードに由来するのでしょうが、メジャーコードの明るい曲→正義/マイナーコードの悲しい曲→悪 …というのも短絡的すぎるという指摘は、すでにほうぼうでなされています。
(終盤に向けて真の敵が現れて両者は和解する展開だという情報もあるにはありますが)
加えて、あくまでも音楽のコード由来であったとしても、暗に マジョリティ=多数派が正義/マイノリティ=悪しき異端 というミスリードを招く危険はあります。
こうした、看過しがたい微妙な問題点は、『スイートプリキュア』には少なからず散見されます。

そして、そうした問題点の最大のものは、やはり前述の「しあわせのメロディ」「不幸のメロディ」にありました。

すなわち、「しあわせのメロディ」によって人々は幸福になる/「不幸のメロディ」を聴くと人々は不幸になる――はわかるとしても、じゃあ何が幸福で、何が不幸なのか!? という点に関しては、じつは番組内では一切具体的に示されていないのです。

これは思いのほか重大な欠陥です。

何が幸福で何が不幸かを明示していないということは、番組が対象として想定する子どもたちに対しての、こんなふうに生きていこうというメッセージがなおざりになっているということではありませんか。
これは、番組の根幹が空洞、作品のテーマが存在しないと言ってもよいでしょう。

結果として視聴者は、幸せや不幸の定義は、漠然としたイメージに頼りながら世間一般の価値規準を援用するしかなく、つまるところ多数派によって構築されている社会通念に適ったものこそが幸せのメインストリームとしてのヘゲモニーを握ってしまうことになります。
ぶっちゃけ「女の子のシアワセは、素敵な男性と結婚して、子どもを産んで育てて……」なんて単純で安易なところに回収されてしまう危険が大アリなわけですね。

思えば、シリーズ前作『ハートキャッチプリキュアでは、自分自身の心のありようを大切にしていくことが重要なテーマとして据えられ、そんなありのままの自分が誰かから否定されてしまうことの不幸というものが、明確に描写されていました。
それゆえに、自分で自分の全部を好きになって、ひとりひとりの心のなかにある無限の可能性を育んでいこうねというメッセージも、子どもたちにわかりやすいものとなっていました。

前々作『フレッシュプリキュア』も同様で、すべてを支配するスーパーコンピューターによって司られた超管理社会を敵陣営として描くことで、主人公たちの人間社会における自由――、そこから生まれる友情、絆、夢、そして良い意味での欲望などが、人が幸せをゲットする源泉だと訴えていました。
だからこそ、中盤で敵の女幹部だった人物が味方陣営のほうに来て新たなプリキュアとなる展開も、序盤での戦いを通じて主人公たちの様子を垣間見たことで、自分たちの陣営の在り方との間で葛藤が起きた末に「すべてを管理される不幸」を悟ったゆえであるとも納得できるし、描く意義もあったわけです。

もちろん、作品のテーマに従ったメッセージだって、それが視聴者への押し付けだという批判はあり得るでしょう。
さりとて、許容しがたい「メッセージ」であれば、それこそ反発するという手もあります。
具体的にテーマなりメッセージなりが存在すればこそ、反面教師として活かすことも可能になるのです。

しかし番組のコンセプトが空洞、テーマが存在せず、メッセージは漠然――。
これでは反発するにも暖簾に腕押しです。

そうして、知らず知らずのうちに幸せや不幸の定義が多数派基準の通念に依拠してしまうことで、社会不正義の温存になんとなく加担してしまう結果をもたらすとしたら、まさしく番組の存在が害悪に他ならないとさえ言えてしまうことになります。

もはや「伝統ある」という枕詞が相応しくなっているプリキュアブランドの最新作が、どうしたことか、このようなテイタラクなのは、遺憾としか言いようがありません。


こんなことなら、いっそのこと本当にあの『けいおん!』のメンバーにそのまま変身しといてもらえば、音楽モチーフのプリキュアとしてちょうどヨカッタなどという冗談も、なにやらリアリティを持ってしまいます。

いゃ、あるいは『花咲くいろは』と放送枠を入れ替えたいとは、先日述べましたが、もう音楽モチーフはどうでもいいので、この際“チーム喜翆荘”に変身してもらうのでもよいかもしれません。名付けて湯乃鷺プリキュア!?
そうですね、例えば…
 松前緒花 → キュアパトリシア(必殺技:スーパーぼんぼりシュート)
 鶴来民子 → キュアワープ(必殺技:アルケミックホビロンクラッシュ)
 押水菜子 → キュアヘイジー(必殺技:ハイパー内弁慶シールド)
この場合、和倉結名はセーラームーンでの「なるちゃん」ポジションで、途中加入の新プリキュアには………孝一クン!?(^o^;)
で、巴さんが先代のプリキュアって設定とか。
あ、大女将も先々代のプリキュアで、ハートキャッチのキュアフラワーみたいなポジションで、みんなを仕切っているってのもイイですねぇ………

………………

お!?


おぉっ!

今、気が付いた。


こ、コレがホントの


スイプリキュア」!!

(^o^;)


 


君との約束が映る空が切なかった世界でいちばん遠い夏 [その他雑感つぶやき]

お知らせブログで述べたとおり、今年の夏休みの旅行は東北・青森方面だったのですが、これ、特に下北半島方面へのドライブは、かの小説『M教師学園』の青森編の内容の下敷きともなっている、かつて実際に旅した行程と重なる部分も多く、自分自身の、なにやらこの世界にはもはや自分の居場所がないような感覚を引きずりながらハンドルを握っていた当時の感覚を、はからずも思い出しては、ちょいとしんみりした気分になったりもしていました。

だいたいソレは1990年代のちょうど半ばで、いちばんワタシが壊れていたときでもあり、物理的には帰る家はあったものの、心理的にはいよいよ行き場がなくなって追い詰められていて、本当に世界を彷徨っているような気分で八甲田山(こちらは今回は訪れず)から、下北半島(こっちは小説の靖彦センセイの旅程には反映されず)へ分け入っていたのです。

しかし、今にして思うと、そんなときにも、じつは未来は生まれていたわけで、今回、我が娘・満咲を伴って、恐山や尻屋埼を巡ることには、感慨もひとしお。

特に尻屋埼は前回は時間が遅くなったために直前のゲートで止められてしまっていた(というスゴイ罠があるんですよ、あそこは!)ので、今回はそのリベンジを果たす意味もあったのです

あのとき、生きるのをやめていたら、現在はないんですよね。


……と、いうような思いを密かに秘めた旅行ではあったのですが、レンタカーを借りることについては、もはや戸籍改名からも久しいので、免許証提示はノープロブレムですね。

それから、今年の私は去年までのワタシと違う!?
従来は満咲と2人で旅行時は、温泉など大浴場は大事をとって断念していたのですが、今年からはソノ点も問題なし!!
おかげさまで、満咲とともにヒバの香りの露天風呂も満喫してまいりました。
(ヒネた言い方をするなら、こういうときにだけ最大のメリットがある。
 普段の社会生活の変化はといえばまぁいわば気分の問題とか)

ちなみに、この点を事前に満咲に説明した際のやり取り。
「今年はいっしょに大浴場に入るデ(^^)v」
「やったーっ!」
………満咲よ。ソレがキミの答えか(^o^;)


 


珠玉の深夜アニメ『花咲くいろは』 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

深夜アニメというと、怪しげな萌え系オタク受け作品だというイメージを持っている人もいるのかもしれません。
しかし今日では、アニメ作品が深夜時間帯に放映される比重は、もはや深夜アニメを抜きに日本のアニメ文化は語れないほどに高まっていて、ハードディスクレコーダーの普及による録画の簡便化ともあいまって、事実上は放送時間帯が深夜なだけの作品群と言っても、あながち間違いではないでしょう。

むしろ深夜でない時間帯に放映可能な――ある程度は幅広く一般受けが見込めるという意味で――無難な内容のアニメよりも、斬新で画期的な内容のものも少なくない可能性があります。

殊にジェンダーやセクシュアリティに関する描写について、それは顕著かもしれません。
例えばセクシュアルマイノリティをテーマにしたドラマだと、それゆえにかえって守旧的な性別観念に拘泥した言動が、主人公や周囲の登場人物に数多く見られることもままあります。
しかし、深夜アニメなどにあっては、そうした現状をもはや何段も突き抜けた次元で制作されている場合も少なくありません。
「男の娘」の存在がフツーに想定されていても特段の事象ではなく、また女の子どうしの友情以上の関係性も、しごくナチュラルなかたちで織り込まれていたり。

そうした点では、深夜アニメはまさに時代の最先端にあると考えてもよいのかもしれないです。


そんな中で、この2011年夏時点で個人的に注目されるのは、やはり『花咲くいろは』ですね。
春先から2クールの予定でオンエア中です。
  ※詳しくは↓公式サイト↓で

アニメーションとしての映像クォリティの高さもさることながら、物語が非常に上質です。

旅館の従業員として働く女子高校生を主人公に、職場や学校での人間模様、友情と淡い恋心、家庭や大人社会の事情との葛藤……などを織りまぜながら、若い女性が自己の内面と真摯に向き合い、今そこで自分ができる精一杯のことを主体的に模索しつつ、成長していくさまは、じつに見る者の心に響きます。

しかも、そうした物語が、押し付けがましくも説教臭くもなく、さっぱりと描かれているのが非常に爽快で、まさに見ると心地よい気分になれるアニメと言えましょう。
いわば、見るだけで幸せを感じられるアニメ、「しあわせのアニメ」なわけです。

そうそう、ちゃんと(!?)百合萌えシーンも随所に含まれてます(*^_^*)


そう考えると、やはりかように良質なアニメ『花咲くいろは』が、視聴率的にはどうしても不利な深夜帯というのは、もったいない気がしますね。
いっそのこと『スイートプリキュア』あたりと放映枠を入れ替えたいくらいです。



§その他ツイッターでの関連ツイートは、
 の他、ツイログのほうを【花咲くいろは】で絞り込んでみてください


   


それからnano.RIPEらによる主題歌群も、ものすごくイイのです

   



◎『花咲くいろは』に対して、水着や入浴シーン、あるいはセーラー服姿の主人公らをローアングルで描くなどの「サービス」が過剰という批判もあるかもしれないし、必要や必然が感じられないにもかかわらずそれらが挿入されるきらいがなくはない。
とはいえ、そうした批判は、基本的には「子ども向けヒーロー番組にはなぜ変身シーンがあるのか」と同様なのであって、現行の社会経済システムの中で制作費を回収しなければならない以上、営業的なリターンを確実に見込むために求められる方策は、ある程度は講じざるを得ない点は、理解されねばなるまい。



ゴーカイジャーのナビィ、2011年度モリゾー・キッコロ大賞にノミネート!? [多様なセクシュアリティ]

というわけで、テレビドラマ『IS ~男でも女でもない性~』などを見ても、あらためて痛感されるのは、「男か、それとも女か」の二者択一ですべてを割りきろうとすることこそが諸悪の根源である――わけです。

そうした二元的な性別システムは、社会の隅々まで入り込んでいるわけですが、ソレを端的に象徴しているひとつとして、本来は性別などない無生物がモチーフのキャラクターにまで性別が付与される(あまつさえ男女一対のペアとして設定されたりする)ことが少なくないことは、何度か触れているとおりです

一方で、そうした二元的性別システムに反旗を翻し、「性別・謎」の汚名を誇りとして名乗るようなキャラクターもいないではありません。

§詳しくはサイドバーの検索ボックスにて【性別 なぞ】【性別 謎】などで過去記事を絞り込みできます


そして、よく見ると現在絶賛放映中の戦隊ヒーロー最新作『海賊戦隊ゴーカイジャー』における、いわゆるマスコット的存在である、ナビゲーションロボットの「ナビィ」も、いささか「性別・謎」系キャラクターだと言えなくもありません。

テレビ朝日の『ゴーカイジャー』サイトでのキャラクター紹介では「ナビィ お宝ナビゲート機能を搭載したオウム型ロボット。ゴーカイジャーは、ナビィがキャッチするヒントを元に、お宝探索!」となっており、公式には性別について言及されていません。

作品本編中ではナビィが女子高生に「カワイィーっ!」と取り囲まれてご満悦だったというようなセリフがあり、これをもってナビィは男の子だと解釈する向きもありますが、それもあくまでも異性愛主義的な考えに則ったものに過ぎません。
一人称が「おいら」だというのも然り。

逆に沖縄地方では「ナビィ」というのが女性を表す語だという意見もなくはないかもしれません。
[ 参考 ]三線専門店 ナビィ三線 http://www.nabbie.com/
 映画『ナビィの恋』なんてのもありました
とはいえ、ゴーカイジャーのナビィの名前は「お宝さがしのナビゲーション機能を持つ」ことに由来しているようなので、ナビィが女の子だとする根拠には、イマイチ使えそうにないです。

そうして、作中のゴーカイジャーのメンバーたちにおいてもまた、ナビィの性別について、ことさらに男女のいずれかであることを前提とした言動は、明示的には描写されていません。
むしろ、ナビィの性別は知らないんですというニュアンスが濃厚で、そしてそのことがさしたる問題であるようにはなっていないのです。

ぃやー、さすが性別なんてどうでもいい」「いちいち性別について考慮するのが面倒なゴーカイジャーであります。

§その他ツイッターで細々と述べている点は、
http://twitter.com/#!/tomorine3908tw/status/92445829964627968

http://twitter.com/#!/tomorine3908tw/status/92446296052469760
 の他、ツイログのほうを【ゴーカイジャー】で絞り込んでみてください
あ、もちろんこのブログも(^^)


くり返しになりますが、ナビィは、鳥(オウム)をモチーフにしているとはいえ、あくまでもロボット、生物ではありませんから、生物学的な性別もありません。
にもかかわらず、キャラクターとして性別を設定しないではいられないというのが、まさに性別二分社会の悪しき強迫観念だと言えます。

「男」か「女」か、そのいずれかでないといけないという風潮が、例えばセクシュアルマイノリティの生きづらさを招来しているとすれば、これは本当に深刻な人権問題でもあるのです。

そのためにも、こうしたナビィのような「性別・謎」が、もっともっと一般的になることは、社会のあり方に一石を投じるという点において、非常に有意義なのではないでしょうか。

  

もっともナビィがロボットであるというのも、公式サイトには記述されているものの、作品中では明言されていないような気もします。
例えば「誰も電池を交換したことはない」「そもそも電池で動いてるの?」ということは描かれていたので、動力についても不明(小型原子炉内蔵! …だったりするのは時節柄モンダイだなぁ(^_^;))。
その他、ナビィの出自については、かなりの部分がまさしく「謎」になっています。
場合によっては「ナビィ黒幕説」だって出かねないくらいです。
そんな謎キャラが、みんなにフツーに受け入れられている描写というのは、考えてみると、じつは非常に貴重なのかもしれませんヨ♪


 


ドラマ『IS』親子鑑賞会その2 [多様なセクシュアリティ]

例の六花チヨ『IS ~男でも女でもない性~』を原作とするテレビドラマ、その後5話まで放送が済み、物語はいよいよ後半へ…! といった趣です。

   

前記事で補足したとおり、恋愛をめぐる主人公の葛藤が、一般視聴者への分かりやすさを優先してか、異性愛を規準として描写されるのが、結局はそうした異性愛規範の強化再生産方向にミスリードを誘導しがちなきらいは、やはりあります。

「心は男性だから女性が恋愛対象のはずなのに、男性に恋愛感情を持ってしまうのは身体が女性化してきたせいなのか!?」
という提示のされ方は、ドラマの描写としては容認せざるをえないでしょうが、それでも、せめて誰かがこう言って欲しいところです。
「いゃぃや、異性か同性かじゃなくて、すべての人の恋愛対象は、その人の『好みのタイプの人』なんだって!!」
と――。


それから、同じISやその家族でも、立場等々の違いによって、相容れない部分があるというのは、例えばトランスジェンダー・性同一性障害などでのケースとパラレルな現象です。
つまり、マイノリティとしてのアイデンティティを持って行きていくか、それとも「普通の」男女として埋没することを目指すのか。
これはもちろん二律背反する対極的な要素ではなくて、各々の当事者において場面によって使い分けながらも、どちらに重心を置いていくのかというモンダイなのですが

しかし、それだけに身につまされるというか、当事者的には見ていてキツイ側面もありますね。

こうしてドラマで描かれることで世間一般の関心が高まることが期されてはいるのでしょうが、いかんせんセクシュアルマイノリティをテーマとしたドラマというのは、そこへスポットを当てるがゆえに、どうしてもコテコテになりがちです。

もう少し、セクシュアルマイノリティがごく自然に登場していて、まわりはソレを特に何も意識せずに受け入れている……ようなドラマも、そろそろあってしかるべきかもしれません。

そもそも、「普通の男女」だけが正統なのだという思い込みから、もっと多くの人々が解放されるなら、誰もが生きやすい世の中になるし、セクシュアルマイノリティの直面する問題自体が発生しなくなるんですけどね。


余談ですが、主人公が恋心を抱く上級生の男子である伊吹センパイ役は井上正大ってことで、つまるところ仮面ライダーディケイドなんですけど、かつて金八先生で上戸彩の父親役が藤岡弘だったことに鑑みると、もしかしてセクシュアルマイノリティがテーマのドラマにはさりげなく仮面ライダーが出演!! の法則が、もしかして成り立つ??
…うーん、他の例が調べきれないので、よくわかりません(~_~;)

とはいえ、仮面ライダーといえば「変身」。
性別を変えるということが、ある種の変身であるという暗示だと考えると、そういう法則があってもおもしろいかも。
また、「仮面ライダーは改造人間である」という伝統的な設定に注目すれば、改造人間→人間ではない存在→化物 …としての苦悩というテーマがじつは背景にあるわけで、これがセクシュアルマイノリティにおいても暗喩として通底しているとしたら、むしろ関連は必然と言ってもよいでしょう。

◎「仮面ライダー」が改造人間だったのに対し、生身の人間が強化スーツを纏うことで超常的なパワーを発揮するという設定なのが戦隊ヒーローという区分は、原則として永らく続いています。
昨今の平成ライダーのシリーズでは「ディケイド」もそうですが、戦隊ヒーロー式強化スーツ着装タイプの仮面ライダーも増えていますが、それでも物語のどこかに[ フツーの人間ならざる者の苦悩 ]が含まれるケースが多いです。


で、我が娘・満咲なのですが、やはりドラマ『IS』を見ていると、いつの間にか横に来ていっしょに見てますねー。
いったいナニがツボなんでしょう(^o^;)

 

★その他『IS』3,4話終了時点でのツイッターでのツィートはツイログに
 
http://twilog.org/tomorine3908tw/date-110814


 


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